5

「心配したよー、ラインに全然返事しないんだもん。大丈夫だった?」
「平気。ちょっと熱高くて、出られなくて。ごめんね」
 休み明け、こまっちゃんはおろおろしながら私に話しかけてくれました。
「もう大丈夫。ありがとう」
「そっか、よかったあ」
 ほっと胸を撫で下ろすジェスチャーをしながら、こまっちゃんは笑います。
 私はその笑顔を見ながら、今日の時間割について思い返していました。
 四時間目は、生物の授業。

          ○

 先生の様子はいつもと変わりありませんでした。
 淡々と授業を進め、淡々と終え、礼をします。授業中、先生と何度か目が合いました。先生は一度も動じません。私もきっとそうだったと思います。
 授業後、意外にも先生は話しかけてきました。
「アノナツモドキガイの調子はどうですか」
「……前と変わりありません。茶色くなったまま、いつも通り餌を食べています」
「そうですか」
 先生は何度か頷き、そして言います。
「放課後、そのまま帰れる格好で職員室に寄ってください」

 言われた通り職員室に寄り、先生を呼び出します。
 出てきた先生は既に帰り支度を済ませていました。そして、行きますよと言って私を外に連れ出します。そのまま流れるように先生は駐車場へ向かいました。
「これから二人でドライブします」
 車の鍵を開けながら、先生は言います。
「……理事長に怒られるのではないですか」
「許可を取ってあります。生物同好会の活動を急遽停止したので、補完活動が必要だと申し出ました。アノナツモドキガイの飼育上、とても大事なことだと」
「……その理由は本当なのですか?」
「半分は本当です」
「もう半分は?」
「君とデートがしたかったのです。最後の思い出に」
 私は俯きます。
 最後の、なんて言葉、聞きたくありませんでした。
「駄目ですか?」
「……駄目じゃ、ないです」
 最後だなんて嫌だけど、私はそう答えました。そう答えるしかないではないですか。だって、私は……

          ○

 それからおよそ二時間、先生は私を助手席に乗せて、無言で走り続けました。
 梅雨前線の影響か、空は灰色に濁っています。空気はじとじとと重くて、暑いのか涼しいのかもよく分かりません。いつ雨が降り出してもおかしくないこのような天気の日は、外出している人も少ないのでしょう。道は空いていて、車はすいすい進みます。
 どこに行くのか、何をするのか、先生は言いません。私も聞きませんでした。聞いてしまったら最後がまた一歩近づくような気がして、嫌だったのです。
「窓を開けてもいいですか」と先生。
「はい」
 それが交わした唯一の会話。先生はカーエアコンを切り、窓を開けます。それからまた無言が続きました。
 やがて、何か生臭い香りがしたと思ったら、外に海が見えました。
 どこか不穏な、暗い色調の青。なんとなく寂しそうに現れては、飛沫を上げて消える波。それは私の想像していた、母の愛する海の姿とは違ったものでした。宝飾店に並んだダイヤモンドや、冬の夜空に煌めく星とは違います。海は澱んでいて、陰気な、生き物が循環するにおいを放つ、生々しい場所でした。
 海岸沿いの寂れた駐車場に、先生は車を停めます。本来は海水浴場なのであろうその場所は、まだ海開きをしていない今は、シャッターの降りた店と同じでした。そこでは何も出来なくて、私たちはただ目の前で佇むことしか出来ません。
 けれども先生はそんな場所に車を停め、そこで降りました。
 無言のまま先生は歩いていきます。私はその数歩後ろを、無言のまま付いていきます。
 先生は階段を下って、舗装道路から海岸に移動しました。足下が、安定したコンクリートから不安定な砂に変わります。歩く度に砂は、私の体重を受けて少し沈みます。次に持ち上げるのが気だるくなるくらいに。少し歩くと靴の中に砂が入ってきて、それが靴下の目の中に潜り込み、やがて肌に接するところまで上がってきました。指の間に砂は挟まり、歩を重ねるごとに違和感を訴えます。
 波がすぐ近くまでやって来ました。濡れないように、私は脇へ跳びます。
 母の愛した海。でも、私が愛するのは、少し難しそうでした。
「アノナツモドキガイは、色を変える性質を持ちます」
 先生の声。私は顔を上げます。
 いつしか先生は立ち止まっていて、私のことを見ていました。
「寿命が近づくと濃い紺色になることが、以前から分かっていました。ですが、以前より報告されていた茶色になる例に関しては、何も分かっていませんでした。命に問題はないということが分かる程度で、他には何も。
 ですがついこの間、スペインでの学会で新しい報告が出されたのです。
 それによると、アノナツモドキガイが茶色に変色するときの条件は二つだというのです。一つは海から離れたところで生きていること。もう一つは、海に行ったことのない人間に飼われていること」
「海に、行ったことのない……?」
「報告ではこう述べられていました。あの貝は記憶を食べるのではないか。
 ヒトは生きている環境によって身体を作り替えます。高地で暮らす人間は体内の赤血球の量が多く、宇宙空間で暮らしていると骨がすかすかになり、食べたものによって糖尿病になったりにきびが出来たりします。ヒトの身体は、重ねてきた人生で出来た彫刻のようなものなのです。
 アノナツモドキガイは人間の角質を食べます。それはある意味、重ねてきた人生の一部、記憶の断片を食べるようなものなのではないでしょうか。そして我々が食べたものによって身体を作り替えるように、アノナツモドキガイもまた、食べた記憶によって身体を作り替えるのではないでしょうか。
 そしてアノナツモドキガイが茶色くなるとき、その貝は常に、海から離れたところにいました」
「それは、つまり……?」
「アノナツモドキガイは、海の記憶を食べているのではないか、ということです。貝殻のあの鮮やかな青は、海の青色なのではないか。報告はそんな推測で締められていました」
 私は海を眺めます。
 暗く、生臭い、濁った海。日の沈みかけた空は、灰色よりも黒に近くなっていて、だからとにかく陰気です。
「科学的ではないですね」私は言いました。
「僕もそう思います」先生は頷きます。
「そんなロマンティシズムで生き物が変化するとは考えられません。なにかもっと、合理的な理由があると思います」
「もっともです。実際、その報告は学会でも笑いものになっていました」
「でも先生は私を海に連れてきました」
「はい」
「どうしてですか?」
 そう訊くと、先生は笑いました。
 あの薄暗い理科準備室で、いつも笑っていたように。
「言ったではないですか。君とデートがしたかったのです。僕は君のことが好きですから」
 先生は私に背を向けて、また海岸を歩き出します。
 私はどうしていいのか分からなくて、だから半端な足取りでその後を追います。
「最後だって、先生、言いました」
「はい」
「もうデートは出来ないのですか?」
「はい」
「どうして」
「僕が教師で、君が生徒だからです。あるいは、僕が今年で三十なのに、君はまだ十五歳だからだとも言えます。君と僕が見ているものは違う。見てきたものも違う。貝殻の色が変わるぐらいに。僕はもう、君のように純粋じゃありません。君のように幼くもない。好きなだけでどうにかできる時期は、もう終わったのです。だから……だから、さよならなんです」
 私は足を止めました。先生は歩き続けます。
 それを引き留めるだけの言葉は、私の中にはありません。
 先生が見てきたものを私は知りません。父の見てきたものを、母の見てきたものを、知らないのと同じように。だから見ている景色も違う。母があんなに愛した海を、私は愛せる気がしません。
 私は何にも分かっていない。
 ただ先生が好きなだけの、無力で小さな、幼い子供。

 ――そのとき、すうっと、全ての音が消えました。
 いいえ、違います。全てではない。潮騒だけが聞こえます。寄せては引いて消えゆく波音。他には何も聞こえません。遠ざかるあの足音も、私を嫌う私の声も――

 自然と足が動きました。
 邪魔っけな砂をはねのけて、重い気持ちもはねのけて、ただただ身体が求めるままに、つんのめるように駆け出して、私は先生に抱きついたのです。
「わっ」
 後ろからタックルするような形になり、私は先生共々、砂浜の上に転がりました。
「痛いではないですか」
 先生は身を捩って仰向けになります。
 私は上半身を起こして、先生のお腹の上で馬乗りになりました。そして先生の両目を、まっすぐに見つめます。
「先生が好きです」
 そう告げると両目から涙が溢れ出てきました。それまで無理にせき止めていた川が、土嚢を吹き飛ばして流れ出すように。
「私は何にも知りません。私は何にも出来ません。でも先生が好きなんです。他には何にも持ってません。だからこれだけは渡しません。私は先生が好きなんです!」
「いや、しかし……」
「なんですか」
「そうは言っても、僕と君では、一般的に……」
「一般なんて知りません。私は先生が好きなんです。先生はどうなんですか」
「それは、その、君のことは好きですけど」
「けど、何ですか」
「僕は教師で、君は生徒で……」
「じゃあ三年待っててください」
 私は指を三本立てて、びしりと先生に見せつけます。
「三年したら卒業します。卒業したら、先生はもう先生ではないですし、私も生徒ではありません」
「それはそうですが」
「何か問題でも?」
「問題はないかもしれませんが……」
「先生は私のことが好きなんですか、そうじゃないんですか!?」
「へ……いや、その……ええと」
 ここに来て、何かを探すように先生は目を泳がせます。私はイラッときました。
「返事!」
「好きです。僕は、逢沢さんのことが好きです」
「なら三年待てますね!?」
「ええと」
「返事!」
「はい。はい、待てます」
 それを聞いて、私は両手を腰に当て、鼻から息を吐き出し、言いました。
「よろしい!」

          ○

「それであんた、約束させてからは一言も口利かなかったのかい」
 くっくっく、とお祖母ちゃんは笑います。私は赤面しました。
「勢いだけだったんです。そうするしかなかったんです」
「いいねえ、若いってのはそうでなくっちゃ」
 にやけるお祖母ちゃんは、真っ黒ないつもと違って、薄い青色の入院服を着ています。
 担当医の話によると、術語の経過は驚くほど良好で、来週にはお祖母ちゃんは退院できるそうです。こんなに元気な心筋梗塞の患者は初めて見る、と看護師のお姉さんも目を丸くしていました。
「これでよかったんでしょうか。気持ちとか、なんていうか、本当に勢いだけで……」
「いいんだよ、それで」
 お祖母ちゃんは微笑みます。
「考えるよりまず動く。気持ちなんてあやふやなもんさ。状況次第でころころ変わる。考えることを全部やめて、後になんとなく残ったものを、それだけ必死に抱きしめて、あとはそのまま走りゃいいんだ。そしてあんたはそうしたんだろ? だったら迷うこたぁない。そのまま行けばいいだけさ」
「でも、もしそれで駄目になったら?」
「別にそしたらそのときさ。人生はすごい長いんだ。意外と人は強いのさ。心臓が止まっても生きてる」
 ちょっと黒すぎるジョークを言って、お祖母ちゃんはけらけら笑います。私はどんな反応をしたらいいのか分かりません。
「それにしても、いざってときは結構言うんだね、あんた」
「いや、その、はい。そうです」
「くっくっく、いいじゃないか。父親譲りだね、そういうとこは。こりゃあ、あの先生苦労するよ」
 愉快そうに、心底愉快そうに、お祖母ちゃんは笑います。
 それがなんだか嬉しくて、私もつられて笑いました。

          ○

 海の音について、母は何度も語りました。今では私も語れます。けれども母の海とは違って、私が語れる海は決して、綺麗なものではありません。曇っていて、陰気で、辛気くさい海が、私の知っている海です。
 けれども母と同じように、私も海を愛しています。
 目を閉じると今でも思い出せます。あらゆる音が褪せていき、潮騒だけを耳に残して、世界が少し変わったこと。あの日の海で起きた出来事。
 アノナツモドキガイの色は、今でもくすんだ茶色のままです。
 いつか青色に戻るのでしょうか。それともずっとこのままでしょうか。私には何も分かりません。けれどもそれでいいのだと、今の私は思えます。
 ゆっくりとした動きのままで、なっちゃんは今日も餌を食べています。

          ○

 先生との約束がどうなったかは、語るまでもないでしょう。
 お祖母ちゃんが言ったように、私はこう見えて、いざってときには言うほうなのです。