猫が目を覚ますと、誰かの手に身体を掴まれた。
「きちゃない猫はお風呂に入れましょう」
舌っ足らずな女の子の声だ。猫は瞬時に危機を悟ったけれど、もう遅かった。宙を舞う無重力感の後、なんとか足を地面に向けた猫は、しかし地面ではなく冷たい水に落下した。
無論、猫は水が嫌いである。しかも泳げない。
みるみる猫は沈んでゆく。必死に藻掻くけれどどうしようもない。浮かないものは浮かないのだ。肉を食えと叱ったところで山羊が肉を食わないのと同じである。
もう駄目かもしれないと猫は諦め始めた。
そのとき、誰かの手に身体が引き上げられる。さっき水へ投げ入れた手とは違う、ごつごつした手だ。
「なにしてるんだネ。溺れているじゃないカッ」
男の人の怒鳴り声。神経質そうな尖った響き。
「だって猫は汚れてたんだもん」
涙声で女の子が反論する。
「なるほど。それなら池に投げ込むのは合理的だネ」
猫を抱きかかえた男の人は納得したのか頷いた。その反応に納得がいかない猫は不機嫌になる。
あたりは芝生だった。整備されていて、なだらかな緑は画一的に広がっている。猫が居るのは芝生の中に設けられている池で、外縁は削られた石で囲まれていた。幼い女の子がその石の傍に立っている。
あの子が猫を池に放り込んだのだろう。猫は声を上げて女の子を威嚇した。
「怒ってる」
「そりゃあ、溺れ死にするかもしれなかったんだから、怒るヨ」
ざぼざぼと水を蹴って、男の人が池から上がる。猫は顔を上げて、自分を助けてくれた男の人を見つめた。
銀縁眼鏡の男性だ。もじゃもじゃの髪を生やしている。ワイシャツの襟は折れていて、纏った白衣は黄ばんでいた。声と同じく神経質そうな、蛙そっくりの顔をしている。
「乾かしてあげなきゃネ。この子、キミの猫?」
「ううん。違う」
「ならボクが預かるヨ」
全身びしょ濡れの猫を持ったまま、神経質そうな男性はずんずん歩いて行く。向かう先には大きな四角い建物があった。さっきは猫の背中側にあったせいで見えていなかったけれど、あたりの芝生はこの建物を中心に作られたもののようだ。
男性は真っ直ぐ建物の入口へ向かう。すると、入口に居た警備員が男性に会釈した。
「こんにちは博士。その猫は?」
「拾ったんだヨ。乾かしてやらないと可哀想だからネ」
どうやらこの男性は博士らしい。やっぱり博士っていう生き物は眼鏡で神経質そうで両生類みたいな顔なんだな、と猫は思う。
建物は研究所だったようで、中には金属加工場や木材の積み上げられた部屋、そしてビーカーやフラスコといった実験器具が目一杯並べられた大部屋などが設けられていた。
大部屋にはいくつものデスクが並んでいて、神経質そうな博士はそのうち一つに紙を敷き、その上に猫を置く。紙を敷く際にグラフの記された方眼紙や天秤をどかす手伝いで他の博士が二人呼ばれたけれど、その博士らはいずれも優しそうな顔立ちをしていた。眼鏡は掛けていたけれど、神経質そうではないし両生類にも似ていない。博士にも色々居るんだな、と猫は考えを改めた。
「珍しいですね。貴方が猫を助けるなんて」
「実家で猫を飼っていてネ。猫を大切にしないと祟るって、祖母がよく怒鳴っていたんだヨ」
「おや、幽霊なんて非科学的なもの、よりにもよって貴方が信じているのですか?」
「祖母は生きているヨ。だから怖いのサ」
二人の博士はけらけらと笑いながら、それぞれのデスクに戻っていった。
神経質そうな博士はそんな彼らの背を見て鼻を鳴らす。
「たまにいつもと違うことをしただけで笑うなんて、失礼なヤツらだヨ。他人をそんなに気にする前に、自分の研究を進めたらどうなんだネ」
ぐちぐちと文句を言いながら、神経質そうな博士は猫の身体をタオルで拭いてくれる。手つきは乱暴だったけれど、痛くはなかった。さっき持ち上げてくれたときもそうだったから、実家に居るという猫とよく遊んでいたのだろう。
猫はこの博士のことが気に入った。
しかし神経質そうな博士は猫を拭き終わると、来た道を引き返して外に戻り、芝生の上に猫を置いた。
「ほら、好きなところへ行って寝たり食べたりするといいヨ。ボクは研究が忙しいからネ」
なんて残酷な台詞だろう。猫は神経質そうな博士を気に入ったというのに。
(お腹いっぱいだし眠くもないよ。遊ぼう)
白衣の裾に引っ付いて、猫は遊んでほしい気持ちをアピールする。
けれども神経質そうな博士は知らぬ素振りで研究所へ引き返していった。猫は憤慨する。もちろん後を追いかけた。
(遊んでったら、ねえ)
文句の鳴き声を上げても神経質そうな博士は振り向かない。こうなったら絶対に遊んでもらうぞ、と猫はむきになる。
結局、さっきの大部屋まで戻ってきてしまった。神経質そうな博士は机に図面を広げる。猫はなんとかして自分に興味を引かせようと、机の上に飛び乗った。
(遊んで)
「研究の邪魔をするなら、本格的に追い出すヨ」
つれない返事が寄越された。どうあっても遊んでくれないらしい。それでも猫は遊びたかった。だから段々と苛立ちが高まる。このままでは精神衛生上良くないので、ひとまず爪研ぎをして心を落ち着かせることにした。
軟らかすぎず硬すぎない、後ろ足で立ち上がったときに丁度いい高さの取っかかりはないか、猫は周囲を見渡す。
そのとき、とんでもない人間を発見してしまった。さっき猫を池に投げ込んだ女の子だ。
「パパっ」
女の子は優しそうな博士に抱きついた。そして満面の笑みを浮かべる。
「遊んでっ」
「いいとも、ちょっと待っててね」
優しそうな博士も満面の笑みを浮かべた。それまでしていた作業を中断すると、引き出しから色紙を取り出して何かを作り始める。
さっき自分にひどいことをした女の子が、遊んでほしい相手に遊んでもらえているので、猫はますます女の子のことが嫌いになった。苛立ちがさらに増す。しかし爪研ぎ場所の目処は立たない。
「うるさい子供だネ、まったく。これだからこの研究所は嫌なんだヨ。個室にしてほしいネ」
神経質そうな博士がぼやく。
やがて優しそうな博士は、できた、と言って顔を上げた。
「ほら、君にぴったりだ」
「わあ、パパ、ありがとう」
女の子が嬉しそうに受け取るのは、色紙を切り貼りして作られた薔薇の花だった。花弁だけでなく、がくや茎まで模されている。
「パパすごい。こんなのすぐに作っちゃうなんて」
「ふふふ、すごいだろう」
「魔法みたい。あ、もしかして、パパは魔法使いなの?」
「よく見破った。実はそうなのだ。そしてその薔薇は魔法のステッキでもある」
「本当?」
興奮した様子で、女の子は握った薔薇の花を見つめる。
一方、それを遠目に眺める神経質な博士は、不機嫌極まりないといった表情を浮かべた。
「魔法だなんて、非科学的にもほどがあるヨ。あんなのが同じ科学者だなんて、むかむかするネ。何が薔薇の花だヨ。あんなの、三角形に切った赤色の紙を貼り合わせただけじゃないカ」
猫が女の子を嫌いなように、神経質そうな博士は優しそうな博士のことが嫌いみたいだ。
しかし他の博士は皆、優しそうな博士のことが好きみたいだった。
「薔薇の花ですか、美しいですね」「良かったなあ、お嬢さん。素敵な花だ」「いいパパを持ったね、羨ましい」「貴方はなんでも素敵なものに変えてしまいますね」「どれお嬢さん、私に魔法をかけてみて下さいな」
どの博士たちも優しそうな博士と女の子を微笑ましそうに眺めていて、かける言葉は柔らかい。まるでピクニックを楽しむみたいに、温かな空気を醸し出していた。
「馬鹿馬鹿しいヨ。みんなみんな、何であんなやつを持ち上げるんだネ」
神経質そうな博士はとことん不愉快げだ。
そこに、何か資料を携えた若い博士が近づいてきた。
「あの、質問したいことが」
「自分で考えたらどうだネ」
「し、しかし」
「ボクは忙しいんだヨッ」
「す、すみません」
若い博士は頭を下げると、小声で文句を言いながら離れていった。
「これじゃあちっとも集中できないヨ」
片手で頭を掻きながら、それでも神経質そうな博士はペンを握る。
しかしそれを邪魔するように、優しそうな博士が声を上げた。
「皆さん、お茶にしませんか? 美味しいお菓子があります。リラックスすればアイデアも生まれますよ」
優しそうな博士の隣では、あの女の子がいかにも小腹が減ったという表情をしている。
号令を聞いた博士たちは、みんな嬉しそうに頬を緩ませて、優しそうな博士の元に集う。
猫も美味しいお菓子に興味があったのでそうしたかったけれど、女の子に近づきたくなかった。それに神経質そうな博士が椅子を蹴って立ち上がり、逆方向にある出口へと歩き出してしまう。
少し迷ってから、猫は神経質そうな博士を追いかけた。
「非科学的だヨ」
猫が追いついたとき、神経質そうな博士はさっき猫が溺れかけた池に、淡々と石ころを投げ込んでいた。
「リラックスすればアイデアが生まれる? そんな根拠のない意見が、どうしてこうも受け入れられるんだネ。あいつらときたらなんだヨ。しょっちゅうお茶を飲んで、お菓子を食べて、ちっとも研究しないじゃないカ。やっぱりこんなところ、来なければ良かったヨ」
そんな文句を繰り返しながら、神経質そうな博士は石ころを投げ込み続ける。やがて手近に石ころがなくなると、芝生を千切って投げ入れ始めた。
猫はいい感じの木を池の横に見つけたので、心ゆくまで爪を研ぐ。すると気分はずいぶんマシになった。
「はあ。他の研究所に移りたいヨ」
沈んだ顔を浮かべたまま、神経質そうな博士は研究所に戻っていく。猫もその後を付いていった。改めて遊んでほしいとねだるためだ。
所内ではお茶会がとっくに終わっていた。
博士たちが興奮した様子でめいめいに話し合っている。優しそうな博士の周りでは議論が巻き起こっていた。
「何事だネ?」
近くに居た髭の博士に、神経質そうな博士は問いかける。
「大発見があったんだよ。噴き出す水蒸気を見た彼が閃いたんだ。例えばその圧力で歯車を回したら、人の手を必要としない装置が作れるのではないかとね。もしこれが実用化されれば君、確実に時代が変わるよ。後世まで語り継がれる発明だ。これで研究費用が増えるかもしれん」
髭の博士は、優しそうな博士を指さして、鼻息荒く説明した。
「あんな非科学的なやつが?」
神経質そうな博士は、ショックを受けたように目を見開いた。
周囲の博士たちはみんな盛り上がっているのに、神経質そうな博士だけが静かだ。お祭りで迷子になってしまった子供のように、その姿は寂しげだった。
やがてむっつりと押し黙ったまま、神経質そうな博士は研究所から出て行く。
遊んでほしい猫はその後を追いかけた。何度か鳴き声を上げたけれど、神経質そうな博士は振り向かない。
やがて芝生を抜け、川を渡り、石畳の街路を歩いて、とあるアパートメントの一室に辿り着く。
部屋の鍵を開けた神経質そうな博士は、そこでようやく、振り返って猫を見つめた。
「ここまで付いてくるなんて、物好きなやつだネ」
そう言って、博士は扉を大きく開けた。猫は部屋の中に飛び込む。
殺風景な空間が広がっていた。本棚に理工系の本がぎっしりと収納されている以外は、一つも家具が置かれていない。テーブルも椅子もタンスもないのだ。服は干しっぱなしで、食器は床に直置き。生活感があるのかないのかよく分からない。まるで空き家に誰かが居着いているかのような光景だった。
神経質そうな博士は、皿に載っていた黒焦げの何かを猫に差し出す。
「ほら、食べなヨ」
猫はそれを見なかったことにして、遊んでとねだった。
「なんだ、遊んでほしいのかネ?」
ようやく意図が伝わったようだ。神経質そうな博士は干してあったタオルを一枚手に取ると、猫の目の前でひらひらと揺らす。猫がそれを捕まえようと飛びかかると、さっと避けられた。またひらひらと揺らされる。
(次は捕まえてやるぞ)
身構えて、猫は機を窺う。
タオルを振りながら、神経質そうな博士は嘆息した。
「どうしてボクじゃなくて、あんな非科学的なやつにばっかり、閃きが訪れるのかナ」
まだ早い。気持ちを押さえて、猫はタオルをじっと睨み付ける。
「いつもこうだヨ。ちっとも科学的じゃないやつが、ボクより早く閃いてサ。ボクがどれだけ頑張って研究を進めても、実用化に漕ぎ着けたことなんか一回もないのに、あいつらはお茶を飲みながら、みんなに評価されるような成果を出すんだヨ」
今だ、と猫は飛びかかった。動きが鈍くなっていたタオルに食らいつく。
(勝ったぞ。捕まえた)
欲望のままに、猫はタオルを噛んだり叩いたりする。
神経質そうな博士は床に座り込んだ。
「いつからかナ。いつからこうなっちゃったのかナ。最初はもっと、たくさん閃いていた気がするヨ。勉強する度に何かが分かって、楽しくて、博士になって、色んな閃きがあって色んな研究をして、でも周りに追い越されてばかりで、段々、楽しかったはずなのにサ、今はちっとも、楽しくないヨ」
すね毛を抜きながら、神経質そうな博士は呟く。
「どうして研究なんかしているんだっけかナ?」
言葉は水色をしていて、部屋の隅に落ちて消えた。
「そりゃあ、楽しかったからサ」
自問自答は当て所なく、それでも確かな重みを持って。
「そうだ、科学が好きになったのは、楽しかったからだヨ」
神経質そうな博士はすっくと立ち上がった。
「科学的な根拠なんてない。ただ楽しかったから、もっと楽しみたかったから、ボクは研究をしているんだ」
きらきらと目を輝かせて、猫のことなんか見もせずに、神経質そうじゃなくなった博士は部屋を飛び出していった。
あとには猫が一匹、ぽつんと取り残される。扉を閉められてしまったので、部屋を出られない。仕方がないので眠ることにした。
少し遊んでもらえたから、気分は心地いい。だから瞼を閉じたらすぐ、猫は眠りに落ちてしまった。