猫が目を覚ますと、ねむねむさんは言った。
「さよならを言いに来たんだ」
 てっぺんの見えない本棚の間。一人がけのソファに腰掛けたねむねむさんは、床の上に居る猫を見つめる。
 水色のガウンとナイトキャップ、それにふわふわのスリッパが、猫の目に留まった。
(ぼくがふわふわじゃなくなったから、ねむねむさんはぼくのことが嫌いになったんだね)
「嫌いになったりしない。僕は今でも君のことが大好きだよ」
(本当に?)
「本当さ」
(もうふわふわじゃないのに?)
「本当だってば」
(それならどうしてお別れなの?)
「時間が来てしまったんだ。代替わりの時間がね。猫さんが北極星で居られるのは、あとほんのちょっとだけ。だから最後に会いに来たんだ。北極星を終えてしまったら、猫さんはここに来られなくなるから」
 ねむねむさんは穏やかな口調で言う。本当のことを言っているみたいだ。でも猫には信じられなかった。心の九割九分は信じているけれど、残りの一分が頑なに信じようとしないのだ。
〝北極星が終わるのは本当みたいだけれど、ぼくのことを好きかどうかは分からないよ〟
(おまえなんか知らない。黙っててよ)
〝信じちゃ駄目だよ。悲しむのは自分なんだから。また裏切られたらどうするの〟
(うるさい、うるさい)
 柔らかな手が猫の背中を撫でる。
 気付けばねむねむさんはソファから降りていて、猫と同じ目線にしゃがみこんでいた。
「次の誰かに代替わりしたら、好きなところへ行くといい。ここみたいな場所でなければどこへでも、猫さんの行きたいところへ行けるはずだよ。動かずに居てくれた猫さんへのご褒美としてね」
(どこにも行きたくない。行く場所も帰る場所もないもの)
 硝子の置物を眺めるときみたいな顔をして、ねむねむさんは撫でていた手を止める。
「名前を付けてあげようか?」
 尋ねる声は静かな口調。
 猫は首を横に振った。
「誰かに呼ばれるときに困るよ」
(誰にも呼ばれたくないんだ)
「そっか」
 ねむねむさんは床にお尻をついて、猫の正面に三角座りする。
「嘘とさよならが怖いんだね?」
(だって寂しくなるんだもの。独りぼっちは怖いんだ。夜でも見えるぼくの目でも、何にも見えない暗闇が、身体をすっぽり包むから。涙が出るほど怖いんだ)
「それでも独りぼっちでいるの?」
(明るい場所を忘れれば、暗い場所にも慣れるから。それにここから動かなければ、今より暗くはならないもの)
「そうだね」
 萎れた朝顔みたいに、ねむねむさんは微笑む。
 本棚の合間に見える宇宙が、今はひどく暗い。
「どこから来てどこへ行くの?」
 幾度も繰り返された問いかけ。
 猫はクリームを思い出す。
(同じところから来て、同じところへ還るんだ)
「君は誰?」
(ぼくは、こんなぼくは、どうしてぼくじゃないといけないの?)
「君は君以外の誰にもなれないからだよ」
(どうして? 同じところから来て、同じところへ還るのに、どうして『ぼく』は『誰か』になれないの?)
「『君』が『誰か』じゃなかったから、『誰か』が『君』じゃなかったから、あらゆる命は生まれてこられたんだ」
(どうしてぼくは生まれてきたの?)
「さあ。どうしてだろう」
(何にも生まれてこなければ、『ぼく』も『誰か』も同じだった。嘘もさよならもなかったんだ)
「その代わり、『僕』は『君』と一緒に居られなかった」
(一緒に居るから、孤独なんだよ。一緒なのに、一緒じゃないから)
「そうさ。見ていることも考えていることも、感じていることも伝えたいことも、僕たちはほんの少しだけしか分かり合えない」
 ねむねむさんは猫を抱き上げる。
 そしていつものように、ぎゅっと抱き寄せた。
「きっと次が最後の旅だよ」
(旅じゃないよ。引っ越しなんだ)
「そうだね」
 周囲の景色に変化が起こった。
 本棚が下方へ沈んでいく。景色と同じような宇宙が、足下にも広がっていた。本棚から飛び出た本が星々の合間に散る。ほつれたページは千々に舞い、遙か彼方へ消えていく。
 そのうちに猫の身体が浮いた。
 それとも、ねむねむさんが沈んだのだろうか。
「さよならだ、猫さん」
 淡い水色の微笑み。
(行かないで。さよならなんてしたくない)
「大丈夫だよ。僕らはもともと、同じなんだから」
 視線が交わる。
 心の裏側までは見えない。
「おやすみ。またいつか」
 言葉が言い終えられると同時、本のページが何千枚も、二者の間を横切った。猫は大きな声で鳴く。けれども視界が開けたときには、ねむねむさんの姿はなかった。
 腕を伸ばして宙を掻く。身体はちっとも進まない。進むべき向きも分からない。
〝またさよならだ〟
(嫌だよ)
〝もう誰も居なくなってしまった。あるのは、綺麗だった頃の思い出だけだ〟
(嫌だ、嫌だ)
 身体はちっとも進まない。それでも猫は宙を掻く。こんなことならもっと以前に、泳ぎを練習すればよかった。そんな後悔が脳裏に浮かんだ。
 そうした意識が唐突に途切れる。
 頭部に鈍い痛み。分厚い革表紙の本が、霞む視界を横切っていく。あれが頭に当たったのだと、そう気付いたときには、猫は眠りに落ちていた。