猫が目を覚ますと、山より高い本棚が見えた。
とてつもない量の本だ。横幅およそ五メートルほどの通路を挟んで、てっぺんが見えないほど背の高い本棚に、隙間なく本が詰められている。てっぺんが見えないので、つまり天井も見えないのだけれど、しかし外に居るというわけでもない。だって空の青色は見当たらないのだ。本棚の間に見えるのはのっぺりとした黒色だけ。太陽も電気も、光源らしきものは一つも見当たらない。けれども不思議なことに、目の前が真っ暗だなんてこともない。確かに暗くはあるのだけれど、それでも周囲の景色を見るのに支障はなかった。
(なんだか変なところに来てしまったぞ)
ひとまずあたりを確認しようと、猫は歩き始める。
しばらく歩くと、やがて四つ辻に辿り着いた。四つの本棚に挟まれて作られた交差点だ。ここで新たに出会った二つの本棚も、やっぱりてっぺんは見えない。しかも驚いたことに、横を見てみるとそんな本棚が数え切れないほど並んでいた。
頭を振って、猫は四つ辻を直進する。再び本の背表紙の間を駆けると、また四つ辻に差し掛かった。今度もやっぱり同じような景色が広がっている。数え切れないほどの、てっぺんが見えない本棚たち。
何百、何千、それ以上の本棚があるみたいだ。しかもその全てが、てっぺんが見えないほど背が高い。すると本は何冊あるのだろうか。何万、何億、何兆、もっと?
(なんだか頭がくらくらしてきたぞ)
どこまで行っても景色は変わらない。難しい迷路みたいに同じ風景が続く。変わるのは本の背表紙だけ。同じ本は一つとして存在しないのだ。異なる装丁、色調、言語。時代も種類も違う。何もかも新品みたいにパリッとしていて、なのにどうしてか今にも崩れそうなほどボロボロで、よく見てみればそのどちらでもない。
猫自身が発する足音や呼吸音以外は何も聞こえなかった。
景色は薄暗くて、生き物の気配はない。
ただのっぺりとした黒色の天蓋と、終わりのない本棚の行列だけがある。
(なんだか怖くなってきた)
気分を落ち着かせようと、猫は自慢のふわふわしっぽを舐める。
そのとき、背後で何かが落ちる音がした。
猫は振り返る。一冊の本が、表紙を床に向けて落ちていた。パラパラとページが捲れている。
本に近づいて、猫はどこから落ちたのかと本棚を見上げる。目の届く範囲には本一冊分の隙間も見当たらない。遙かな上空から落ちてきたのだろうか。
それとも、これを持ってきた誰かが落としたのだろうか?
周囲を見回す。誰も居ない。居るはずがないのだ。だって生き物の気配はない。だから誰かが落としたなんてことは有り得ない。有り得ないはずなのに、でも本棚に隙間はなくて、見えないほど高いところから落ちてきたにしては、本に傷がないし、落下音も小さかった。
誰かが、居たのだろうか?
猫は活字に目を落とす。文字なんて猫には読めない。それは人間のもので、猫のものではないからだ。なのにどうしてか、本の活字を猫は読むことが出来た。
ページにはたった一言だけ記されている。
『怖がらなくていいよ。今から、僕が案内してあげる』
背後で本の落ちる音。
振り返って、猫は本の位置を確認する。すぐに見つかった。四つ辻の中央、本が落ちるはずのないところに、ページを上にして落ちている一冊がある。
不可解な位置にある本だけれど、猫はもう怖くなかった。近づいて活字を読む。
『左に二十七。右に曲がって、五つ目の交差点』
示されるがままに、猫は本棚の間を歩く。
(一つ、二つ、三つ。ええと、十の次は十一で)
ゆっくり確認しながら、なんとか指示された交差点に辿り着くと、そこにまた本が落ちていて、同じような指示が書かれていた。
歩いたり走ったり休んだりしながら、猫はゆっくりと進む。
(あっちへ行ったりこっちへ行ったり、なんだか無駄に歩いているような気がする)
文句を伝える相手にまだ辿り着けないので、猫はときどき本棚の隅で爪研ぎをしながら進んだ。
するとやがて、四つ辻の中央に本ではなく、男の子を見つけた。
姿形は人間のものだけれど、人間ではない。生き物の気配が全くないのだ。でも恐怖は感じない。それどころか、なんだかこちらを安心させる雰囲気をその子は纏っていた。膝下まである水色のガウンや、ふわふわのスリッパや、縞模様のナイトキャップを身につけているからかもしれない。
「こんにちは、猫さん」
男の子が挨拶する。そして、にっこりと笑った。
「君の名前は?」
(名前なんて持ってないよ)
「それなら、名前を付けてあげようか?」
(ぼくの考えていることが分かるの?)
「分かるよ。僕に分からないことなんて、本当に少ししかないんだ」
ポフポフとスリッパの踵を鳴らして、男の子が猫に近づく。頭を撫でてくれた。小さい手なのに、猫は包み込まれるような安心感を持った。柔らかくて温かいからというだけではない、何か不思議な感覚だ。
(ぼくは名前は要らないよ、今のところは)
「そっか。なら、猫さんって呼んでもいいかな」
(いいよ)
「ありがとう。僕はねむねむさん。よろしくね」
(ねむねむさん?)
「そう。他にも色々な名前があって、色々な人が色々な意味合いを込めて呼んでくれるんだけど、この名前が一番気に入っているんだ。だから僕はねむねむさん。さんは省略しちゃ駄目だよ」
(どうして?)
「ねむねむ、だなんて可愛くないじゃないか。ねむねむくんでもねむねむちゃんでも駄目。僕はねむねむさん。よろしくね、猫さん」
猫を抱き上げて、ねむねむさんはポフポフと本棚の間を歩く。
すると不思議なことが起きた。
薄暗かったはずのあたりが、すうっと青く染まって、また黒に戻る。けれども戻ったときの黒は元の平面的な黒とは違う、奥行きを持った色合いだった。
やがて黒の中のそこかしこで炎が弾けて、光が灯る。それは猫の瞳に、産声を上げる星のように映った。
まるで宇宙の中に浮かんでいるよう。あるいは万華鏡に閉じ込められたのだろうか。ついさっきまでどこか恐ろしかった黒色が、今は吸い込まれそうなほど綺麗に見えた。
(ここはどこ?)
「どこでもないどこかだよ。かつて訪れた場所で、いつか訪れる場所。間違いなく言えるのは、ここは君じゃない」
(ぼくじゃない?)
「そうさ。同じように、君もここじゃない。ここには全てがあって、君もここにあるもののほんの一部だけで出来ているけれど、ここが君を包み込むことは出来ないし、君はこの中に収まりきらない」
(難しい話は嫌いだよ)
「ごめんね。でも大切なことなんだ。問いかけなくちゃいけないからね」
(何を?)
「どこから来てどこへ行くのか。君は誰なのか」
(どこから来てもどこへ行っても、ぼくはぼくだよ)
ねむねむさんは笑みを浮かべる。それが何を意味するのか、猫には分からない。
「君は北極星で、旅はまだ始まったばかり。だから、次に会うのはもう少し先のことだ」
ねむねむさんは猫を撫でる。
ちっとも眠くなかったはずなのに、なぜだか瞼が重かった。猫は目を閉じてしまいそうになる。
「微睡みの合間には真理だけが見えるんだ。僕も君も、誰だってね」
謳うように呟いて、ねむねむさんは猫を抱きしめた。
「おやすみ。またいつか」
子守歌のように声は響く。だから瞼を閉じたらすぐ、猫は眠りに落ちてしまった。