猫が目を覚ますと、すぐ近くに海が見えた。
渦巻きの世界はどこにもない。時間も空間も温度も大気圧も一様、あるいはなだらかにしか変化していなくて、よく知る地球と何も変わりなかった。
(どうやら、どこかに止まれたみたいだぞ)
もう二度と秩序だった物理法則が支配する場所には帰れないと思っていた猫は、予想外の幸運に、自慢のふわふわしっぽを舐めて喜んだ。
しばらくの間そうしていると、お腹が減っているのを思い出す。
何か食べられるものはないかと、猫は周囲を見回した。
足下には赤茶色の屋根。視界には木組みの家が、玩具みたいに並んでいる。髭をそよがせる潮風は爽やかで、海にはサーフィンを楽しむ人々が何人も居た。
けれども、食べられそうなものは見当たらない。
(屋根の上には何もないみたいだな)
鶏肉が食べたい気分だったけれど、一羽も近くにいないのでは仕方がない。近くの木の枝に飛び移って、猫はするすると地上に下りる。
すると、どこからかいい匂いが漂ってきた。オリーブでマグロを炒める、たまらない香りだ。
(こんなときこそ、ぼくの鼻は大活躍だ)
猫は駆け足で香りの元へと向かう。通りの端に面した家、開け放たれた窓の向こうで、キッチンに立つブロンドの女性がマグロを炒めていた。
窓枠に飛び乗って、猫は女性をじっと見つめる。瞳を潤ませながら人間を見つめれば、大抵の場合はなんだって手に入れられるのだ。
「あら、猫ちゃんだわ。ごはんが欲しいのね」
猫に気がついたブロンドの女性が、すぐに微笑みを返した。自分の気持ちが上手く伝わったことで、猫は満足感を覚える。
「ちょっと待っててね。出来上がったら、一口あげましょう」
言いながら、ブロンドの女性はフライパンの上に赤色の粉を撒いた。
(そんな、トウガラシは嫌いなのに)
人間の食べるものはほとんど大好きな猫も、辛いものと酸っぱいものだけは苦手だ。特にトウガラシなんて、とても食べられたものじゃない。
唸り声を上げながら、けれども猫はとりあえず料理を見守る。もしかしたらこのあと何か魔法が起こって、辛くない料理になるかもしれないと期待したのだ。
ブロンドの女性は手際よく調理を進める。フライパンに白ワインをさっと加えてアルコールを飛ばした後、マグロを一度取り出してニンニクやタマネギ、ししとう、トマトなどを炒め始めた。
(タマネギまで入れたぞ)
猫は不機嫌を隠せない。だってタマネギは悪魔の食べ物なのだ。ニンニクも似たようなものである。これでは食べることなんて、髭が虹色になっても有り得ない。
(この女の人はぼくに嫌がらせをしているんだな。ふん、それならぼくにも考えがあるぞ)
たくさんの悪戯が猫の頭に浮かぶ。椅子の背もたれで爪研ぎをするとか、お皿の上で寝てしまうとか、そういうのだ。
そんな猫の胸中も知らず、ブロンドの女性はマグロをフライパンに戻して、満足そうに腰に手を当てた。
「マグロの煮込み完成っ」
(こんなのが完成しちゃうだなんて)
不満の唸り声を上げる猫に、ブロンドの女性はにっこりと笑いかける。
「猫ちゃんにはこれをあげましょう」
そう言ってブロンドの女性が取り出したのは、まだ炒められていない、生のままのマグロの欠片。
「貴方のために、美味しい部分を取っておいたのよ。さあ、お食べなさい」
小皿に盛られたマグロが窓の脇に置かれる。
脂の乗っている柔らかな赤色に、猫の機嫌はすっかり良くなった。さっそくマグロを食べ始める。美味しくて髭が抜けそうだった。
その横ではブロンドの女性が煮込みを腕に盛りつけて、テーブルに並べていた。テーブルクロスは屋根と同じ赤茶色で、二脚の椅子がその脇にある。
「ごはんが出来たわよ、下りてらっしゃい」
部屋の奥の階段を向いて、ブロンドの女性は叫ぶ。すぐにドタドタと足音がして、ブロンドの女性とそっくりの男の子が駆け下りてきた。
「今日はなに?」
「マグロの煮込みよ」
「やったっ」
男の子は手を叩いて喜ぶ。ブロンドの女性は、手を洗いましょうと言って、男の子をキッチンの流しに向かわせる。
「あ、猫だっ」
猫を指さして男の子が叫ぶ。その声があまりに大きいものだから、猫はびっくりして飛び上がってしまう。人間の子供は苦手だ。やかましいし、何をするか分からないし、うるさくて、やかましい。
食べるのを邪魔されない内に逃げてしまおうと、猫は残り一欠片になっていたマグロを咥えて、再び窓枠に飛び乗る。
そのとき、なんだか変な感じがした。
さっきとは違って、窓枠に埃が積もっているのだ。
(あれ?)
猫はきょろきょろと周囲を見回して、気付く。
トウガラシの香りがない。
テーブルの上に並んでいたはずの料理もないし、ブロンドの女性も、あの男の子も居ない。涼やかだった海風は、今では寒すぎる。真昼だったはずなのに、窓の向こうでは太陽が東の海原から顔を出していた。
(あれあれ?)
混乱しながら、けれどもひとまず猫はマグロを食べきる。マグロは美味しいままだった。
お腹がいっぱいになったので、状況は摩訶不思議だけれど、とりあえず眠ることにした。満腹になったら眠る。これが猫の生活だ。
窓枠の近くは寒いので、温かいところに移動しようと部屋の中に入り、テーブルの上に飛び乗ってあたりを見回す。
そのとき、どたどたと足音がして、誰かが階段から駆け下りてきた。
さっきの男の子によく似ている。けれども、さっきの男の子よりも、その少年はずっと背が高かった。
「あれ? どうして猫が居るんだろう」
少年はテーブルの上の猫を見て首を傾げる。猫も同じように首を傾げて見せた。なんだか真似したくなる傾げ方だったのだ。
猫から開いた窓へと、少年の視線は移動する。そして溜息をついた。
「不用心だなあ」
少年は窓を閉めると、棚からトーストとバターを取り出す。トーストは慣れた手つきでトースターに差し込まれた。
眠ろうと思っていた猫だけれど、バターが出てくるとなれば話は別だ。バターを始めとしたクリーム類の美味しさは格別なので、目を潤ませてねだらなくてはいけない。
椅子に座った少年に、猫はさっそく必殺技を仕掛けた。
「なんだい? バターならあげないよ」
少年は意地悪を言った。猫は拗ねて丸くなる。これだから人間の子供は嫌いなのだ。
やがてトーストが焼き上がる。バターが塗られて、トーストの熱でほんのり溶ける、あの甘い匂いがしたけれど、猫は顔を上げなかった。ますます不機嫌で、少年の顔も見たくなかったのだ。
そのとき、階段からまた足音が聞こえた。誰かが一階に下りてくる。
「あら? どうして猫が居るの?」
女の人の声だった。猫は薄目を開ける。
マグロをくれたブロンドの女性だった。でも髪の長さが違う。さっきは背中まであったのに、今はうなじにかかるぐらいの長さしかない。
「母さん、窓が開けっ放しだったよ。そいつ、入ってきちゃったみたいだ」
「そうなの? 気をつけなきゃ。猫ちゃん、おはよう」
ブロンドの女性が猫の後頭部を触る。掻いてほしい場所からちょっとずれていたけれど、マグロをくれた人なので、文句を言うのはやめておいた。
「今日、試合だったかしら」
何気ない口調で、ブロンドの女性が問いかける。
でもその質問で少年が少し緊張したことは、目を閉じている猫にも分かった。
「うん。初試合」
「頑張らなきゃね」
「うん」
トーストをかじる音。猫はまたバターの恨みを思い出してしまう。
「母さん、応援に来てくれる? 僕、そうしたら、いいプレーが出来る気がする」
食べながら喋るもごもごとした声は、照れくささを一生懸命隠しているように聞こえた。
「行くわ、もちろん。息子の晴れ舞台だもの」
「ありがとう」
少年はそれから、行ってきますと言って家を出るまで、一度も声を発さなかった。
ブロンドの女性が猫の後頭部を掻く。今度は丁度いい場所だった。
「あがり症で、甘えん坊で、照れ屋さん。うちの坊やは、ちゃんと独り立ち出来る日が来るのかしら」
困ったように、けれどもどこか嬉しそうに、ブロンドの女性は呟いた。
その手の感触が唐突に消える。
猫は目を開けて、あたりを見回した。
雰囲気がまた違っている。ずっとテーブルの上に居たはずなのに、猫が気付かない内に、テーブルクロスは緑色の格子模様に変わっていた。部屋全体の色もどこか淡く、物の数も増えている。
(まただ。これは何だろう)
ブロンドの女性は居ない。少年も居ない。窓の外は赤かった。夕焼けの色だ。
そのとき、扉が開いて、二人の人間が部屋に入ってきた。
先に見えたのはブロンドの女性だ。でもさっきまで、あんなに白髪は多くなかった。その後ろから入ってきたのはあの少年。顔はあまり変わっていないけれど、背はずっと大きくなっている。
二人の間にはどこか険悪な空気が漂っていた。少年は一言も発さないまま、階段を上っていってしまう。後に一人残されたブロンドの女性は、椅子に腰掛けて肘をテーブルに乗せ、疲れた表情でおでこに手を当てた。
猫は首を傾げる。その瞬間、誰かが扉をノックした。
のろのろとした動作でブロンドの女性は立ち上がり、扉を開ける。
「こんばんは。帰ってきたのが見えたんだ。ちょいと夕飯作り過ぎちゃってね、お裾分けに来たよ」
「ああ、いつもありがとう。助かるわ、今日はちょっと、作る気分じゃなかったから」
「何かあったのかい?」
「息子が学校で喧嘩したの。呼び出されてたのよ、さっきまで」
「喧嘩? あの子が? どうしてまた」
「分からないのよ。あの子、何も言わなくて。情けないけど、こんなとき父親が居てくれたらって思うわ」
「居たって変わらないさ。うちのロクデナシ見てりゃ分かる。あんたは立派な母親だ。自信を持ちな」
「うん」
「話してくれるまで待っておやり。あの子は意味もなく喧嘩なんてしない。大丈夫だ、あんたの息子なんだから」
「うん、うん」
「ハンカチ貸そうか?」
「平気。ありがとう」
それからさらに二言三言会話を交わして、来客の人間は帰っていった。ブロンドの女性は受け取った鍋をコンロの上に置く。その後ろ姿は寂しそうだった。
また景色が変わる。
穏やかな日差しが部屋に差し込んでいた。それを浴びているのは、二人の女性。一人はブロンドの女性だ。目元の皺は深くなり、身体は少し小さくなっている。もう一人は白いドレスを着た赤毛の女性で、頬に浮かんだ幸せは、浴びている陽光より眩しかった。
赤毛の女性を薄目で眺めていたブロンドの女性は、頷いて満足げに笑う。
「完璧。これ以上のお化粧はないわ。とても綺麗」
「有り難うございます」
満開の向日葵みたいな顔のまま、赤毛の女性が立ち上がる。そして、くるりと一回転した。
スカートの裾が翻る。反射する陽光が、きらきらと踊っていた。
「本当に綺麗」
目を細めて、ブロンドの女性がほうと息をはく。
「貴方が娘になって、嬉しいわ。ねえ、そういえばどうして、あの子を選んでくれたの?」
問いかけられた赤毛の女性は、ほのかに顔を赤くした。
「学校で嫌がらせを受けてたんです。意地悪な男子に。それを彼が助けてくれたんです。意地悪な男子に、喧嘩を挑んで」
笑顔がもう一度。
陽の光より温かく。
「彼、負けちゃったんですけど、それでもわたしは、嬉しかったんです。だから、彼を好きになりました」
「そうだったの」
ブロンドの女性が涙ぐむ。
「謎が解けたわ。そうだったのね。私が居ないと何にも出来ないと思ってたのに」
皺の増えた指先で、ブロンドの女性は涙を拭う。
「私が居なくても、いいプレーが出来るようになったのね」
景色が変わる。
赤毛の女性は見当たらない。ブロンドの女性が一人、開いた扉の前に立って、誰かと会話をしている。逆光のせいで、会話の相手が猫には見えない。でもその声には聞き覚えがあった。
「ごはんはちゃんと食べるのよ」
「うん」
「必ず家事を手伝うのよ」
「うん」
「浮気は絶対しちゃ駄目よ」
「しないよ」
「それと」
「母さん。僕は大丈夫だよ。そんなに心配しないで」
少しの沈黙。
やがて、ブロンドの女性は言った。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
会話の相手が去っていく足音は、ゆっくり小さくなっていって、やがて聞こえなくなった。
扉を閉めて、ブロンドの女性は部屋を見回す。
「あら、猫ちゃん」
テーブルの上で顔を起こしていた猫に気付いて、ブロンドの女性が頭を撫でに来る。ここしかないという丁度いい場所を掻いてくれた。この人は筋がいいぞ、と猫は気分が良くなる。
「どこから入ってきたの? 不思議な猫ちゃんね」
ごろごろと猫は喉を鳴らす。それぐらい気持ちのいい撫で方なのだ。
「嬉しい? よしよし。私も今日は嬉しいの。この日のために頑張り続けてきたのよ。あの子を立派に育てて、ちゃんと独り立ち出来るように、私は一生懸命やって来たの。やっと今日、それを成し遂げたのよ。偉いでしょう」
自慢げにそう語ると、ブロンドの女性は猫を撫でるのをやめて、棚から紅茶の缶を取り出した。続けてポットをテーブルに置いて、やかんでお湯を沸かし始める。お茶菓子が出るかもしれないぞ、と思っていたら、本当にお茶菓子が出てきた。パンプキンマフィンだ。一欠片もらえたので、猫は機嫌良くそれを食べる。
「お茶を淹れるわよ」
ブロンドの女性が階段のほうを向いて声を上げた。
返事はない。やかんが熱膨張する音だけが響いている。
鼻が啜られる。ブロンドの女性の頬に、一筋の涙が伝った。
「あれ? 変なの。今日は嬉しいはずなのに」
涙が拭われる。でもあまり意味はなかった。すぐに新たな雫が零れたから。
「どうして? あの子はもう、私が居なくても大丈夫になったのに」
ついに両手を使って、ブロンドの女性は目を覆った。
「私にはもう、あの子が居ないのね」
泣き叫ぶような音を立てて、やかんから蒸気が噴き出した。
景色が変わる。
部屋はどこか寂しい香りがした。それと同じくらい、古めかしい香りも漂っている。物はますます増えているけれど、そのなかで頻繁に使われている物はわずかしかないみたいだった。
ブロンドの女性はどこにも居ない。でも、よく似た老女なら椅子に座っていた。
髪は真っ白だ。顔には多くの皺が刻まれている。肩にはグレーの毛布がかかっていて、その肩幅はブロンドの女性よりもずっと狭かった。膝にも毛布がかけられていて、こちらは綺麗な青色をしている。海の青色だ。猫の好きな色だった。
白髪の老女はうとうとと微睡んでいる。窓から差し込む陽光を浴びながらのうたた寝は、とても気持ちよさそうだ。
そのとき、誰かが扉をノックする。
目を覚ました白髪の老女は、軽く身体を伸ばすと、膝に掛けていた毛布を椅子に置いて、来客者を出迎えた。
「ああ」
聞こえたのは、幸せな溜息。
「ただいま、母さん」
猫は椅子の上に移動して、青色の毛布に包まる。
陽光は温かくて、とても気持ちがいい。だから瞼を閉じたらすぐ、猫は眠りに落ちてしまった。