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「もうここには来ないでください」
 五月下旬、大雨が街をずぶ濡れにした日、先生は私にそう言いました。
「同好会は解散です。僕は君とはもう会えません」

          ○

 四月の終わり頃、生物同好会における私の研究テーマが決まりました。
「ただ闇雲に動植物を調べるだけでは、活動が散漫なものになってしまいます。ですから生物部……もとい生物同好会では、一人が一つ以上テーマを持ち、そのテーマについて調査することになります」
 過去に扱われたテーマは様々でした。例えば近隣河川の変化を定点観測するものであったり、ある植物の発芽から枯死までの観察であったり、中には自分の頬に一年間どれだけの微生物が付着するのかを調べるといったユニークなものもありました。
「逢沢さんには一年間、この生物を観察してもらいます」
 そう言って先生が指し示したのは、理科準備室の隅に置かれていた小さな水槽でした。そこで何か生き物が飼われていることは知っていましたが、何かは知りませんでした。正直、興味もなかったのです。恥ずかしい話ですが、先生と一緒に居て、お話しできるだけでよかったのです。学校周辺を散策したり、ツバメの巣を観に行ったり、そういうことだけで幸せで、頭はそれでいっぱいでした。
 この日、私は初めて水槽を覗き込みます。
 水槽は立方体で、一辺の長さは三〇センチほど。五センチぐらいの厚さで白くて粒の細かい砂が敷いてあり、その上に一五センチぐらいの深さで水が張ってあります。砂の上には土管や石がいくつか置いてあり、数本水草が生えていて、その脇でエアレーションがぽこぽこと空気を供給していました。
 目的の生物は壁面にこびり付いています。
 それは貝でした。それも今まで見たこともない、空のように青い貝です。大きさは、真上から見たときに一番長い箇所が五センチくらいでしょうか。タニシのように、壁面にこびり付いているほうは生身で、その上に帽子のように貝殻を被っているという見た目をしています。身の色は鮮やかな黄色で、貝の空色と対になって、よく自然界でこんなに目立つ格好をしていられたものだと感心するほど綺麗でした。
 貝殻の形がまた、変わっています。
 喩えるならハープでしょうか。表面が平仮名の「つ」のような形に隆起していて、その間は梯子の足みたいに繋がっています。
「綺麗でしょう? アノナツモドキガイといって、僕の実家、海辺の街なのですが、そこの近辺にしか生息していない固有種です。寿命は七年前後で、この子は三歳。食性が面白くてですね、雑食なんですが、見ていてください」
 そう言って先生は、右手を水に浸けました。
 すると数十秒後、貝はおもむろに壁面から離れ、先生の手に向かって泳ぎ出しました。そして身から管のようなものを伸ばして、それで先生の手に触れます。管の先で突っつくようにしばらくそうしていると、飽きたのかまた壁面に戻り、張り付いて静かになりました。
 先生は水中から手を出します。
「このあたり、触ってみてください」
 貝に突かれていた位置を指さして先生は言います。私は少しどきどきしながら先生の手に触れました。指が長くて、関節は骨張っていて、細いけれどごつごつとした、男の人の手。触れた肌は赤ん坊みたいに滑らかで、すべすべとしていました。
「滑らかになっているでしょう。ではこのあたりを触ってみてください」
 先生は次に、水に浸けなかったほうの手を出します。私は自分の頬が熱くなるのを感じながらそちらの手にも触ります。肌は先程と違って滑らかではありませんでしたが、さらりとしていました。掌は大きくて、その手で頭を撫でてほしいと、考えてしまいます。
「滑らかではないと思います。これはですね、アノナツモドキガイの食性によるものです。この貝は人間の古くなった角質を食べてくれるのです。一昔前に、ドクターフィッシュというのが流行ったことを知っていますか? あのようなものだと思ってもらえば大丈夫です」
 水に濡れた手を振っている先生に、私はハンカチを貸します。ありがとう、と笑って、先生はハンカチで手を拭きました。
「逢沢さんにはアノナツモドキガイを観察してもらいます。ちなみに逢沢さん、海に行ったことはありますか?」
「いえ、海には……」
 母の話を思い出します。
 私は海に行ったことがありません。一人で行くには、まだもう少し、時間が必要だと思います。
「……行ったことがありません。一度も」
「そうですか」
 先生は微笑みます。
「ではぴったりですね。貝の世話は今日から逢沢さんがやってください。きっと面白い生態が観察できるはずですから。餌は自分の角質をあげるもよし、スポイトで人工プランクトンをあげるもよしです。水は必ずカルキ抜きをして、塩分濃度を……」

          ○

「如月先生と二人っきり? あやしいですなあ」
 にやにやと笑いながら、こまっちゃんはパックの牛乳を飲みます。
「からかわないでください」
「あんな細っこい人のどこがいいんだか。男っていったらマッチョだよマッチョ。厚い胸板と太い二の腕。腕を組んだとき浮き出る血管」
「先生だって腕を組んだとき血管浮き出ます」
「お、認めるんですか逢沢女史」
「……意地悪です」
「にゃはは」
 学食で二人、女子的な話に花を咲かせます。
 五月も中旬にさしかかる頃には、私たちはかなり打ち解けていました。互いに趣味を言い合い、それが違っても違いを楽しめる、気付けばそんな関係になっていたのです。こまっちゃんの趣味は全体的にアクティブでした。結局ソフトボール部に入り、毎年夏にはキャンプへ行き、好きな男性のタイプはマッチョ。
「そう言うこまっちゃんは、好きな人いるんですか?」
「いますとも。野球部の唐沢先輩」
 恥ずかしがるどころか、少し自慢げにこまっちゃんは言います。
「格好いいんだよー。サードで三番で、バッティングとかすんごいの。狙ったところに飛ばせるんだよ。引っ張ったり流したり」
「引っ張る? 流す?」
「あーっと、とにかく凄いの。格好いいの」
 にこにこと笑いながらこまっちゃんは言います。私まで嬉しくなるような表情でした。
「でも女子に大人気でさ、倍率高そうなんだよねえ。一緒にバッティングセンターとか行きたいなー。まあ、まだロクに話したこともないんだけどさ。これから頑張る」
「応援してます」
「あんがと。そんでそっちは?」
「え?」
「倍率。どうなのよあの先生、恋人とか居るの?」
 恋人。そのフレーズに、私は硬直しました。
 愚かなことに今までそこに思い至らなかったのです。恋人。そうです、あんなに素敵な先生が、もてないはずありません。恋人が居たっておかしくない……。
「二十八歳でしょ、居てもおかしくないよね。指輪はしてないけど、結婚してても指輪しない人いるし」
 結婚。奥さん。私は卒倒しそうでした。
「まあでも、あの奥手そうな先生に限ってそんな……どうしたの、顔真っ青だけど」
「なんでもないです……」
「そう? あ、じゃあ戻りながら話そうか」
 食べ終えたこまっちゃんが立ち上がります。私もお弁当箱を畳んで席を立ちましたが、足がふらついて転びそうになりました。視界がぐらぐらしています。
 その状態で教室へと戻ります。隣を歩くこまっちゃんが声をかけてくれますが、言葉は耳に入りません。
 戻る途中、職員室の前を通りました。扉の前にはスカート丈がうんと短い女子が数人居て、彼女たちに囲まれるようにして、如月先生が立っていました。
 私は咄嗟にこまっちゃんの影に隠れてしまいます。理由は分かりませんが反射的にそうしてしまったのです。
「どしたん」とこまっちゃん。
「せんせぇ、ありがと。すっごいよく分かった!」
 囲んでいる中の一人、ブラウスを第二ボタンまで開けている女子が、甘ったるい声で先生を呼びます。私の心はざわざわしました。
「またいつでも聞きに来てください」先生は微笑みます。
「はぁい。あ、そうだ、あのぉ、せんせぇって彼女とかいるんですかー?」
「お、ホットトピックス」こまっちゃんが呟きます。
 私は息を呑みました。というか、息が止まりました。咄嗟に吸気をやめてしまったので、喉からひぇっという音がしました。
「いませんよ」先生は穏やかに言います。
「うっそだぁ」女子のほうは聞く耳をもちません。
「本当です。さあ、もう戻ってください」
「あ、せんせぇ照れてるぅ」
 きゃっきゃとはしゃぎながら女子三名はその場を去ります。
「へえ、あの先生、もてるんだ」
 こまっちゃんは意外そうに言います。
 私は、たぶん、真っ青な顔をしていたでしょう。

          ○

「恋人? いませんよ」
 放課後、第二理科準備室で何気ない風を装って尋ねると、先生はそう答えました。
「本当ですか?」
「本当です。そういえば、昼にも生徒から同じことを聞かれて、同じように疑われました。信用ないですか、僕」
「いえ、そういうわけでは……だって、先生」
 格好いいから。そう言おうとして、言えませんでした。言ったらきっとバレてしまいます。私の気持ち。そうしたら……そうしたらきっと、軽蔑されます。
「僕が、何でしょう」
「……何でもないです」
「そうですか。あ、そうしたら、今日はツバメの巣を観に行きましょう。卵、産んでたんですよ。今朝発見しました」
 嬉々として先生は言います。先生は生き物が大好きなのです。ツバメやアノナツモドキガイが。
 私も好きです。でも、先生と違って純粋じゃない。
 不純な動機でこの同好会に入ったとバレたら、先生はきっとがっかりされます。私は生物が好きで来たわけじゃないんだって。
「さあ、行きましょう。きっと親鳥が卵を温めている様子が見られます」
 準備室を出て外へ向かいます。足取り軽く前を行く先生の数歩後ろを、私は付いていきます。少し俯きながら。
 すると、唐突に先生が立ち止まりました。
「こんにちは」先生が頭を下げます。「どうされましたか、こんなところで」
 私は顔を上げます。
 先生の目線の先には、きつい顔をした女性が立っていました。年齢は五十代半ばほどで、首には真珠のネックレス。見るからに上等な仕立ての、薄桃色をしたスーツを着ています。鼻の上にイクラほどのサイズの黒いイボがあるのが印象的でした。
 どこかで見た顔です。ただ、どこで見たのかが思い出せません。
「校舎を見ております」一秒後にヒステリーを起こしそうな声で、女性は言います。「老朽化が進んでおりますから。近々、立て替えを検討しています」
「そうですか」先生の声に落胆が滲みます。「それは残念です。思い出深い校舎でしたから」
「貴方はどういった用事でここに?」
 眉間に皺を寄せて、女性は先生を、次には私を睨んできます。
「なぜ放課後に、このような場所に居るのですか」
「生物同好会の活動をしているのです。活動場所がそこの第二理科室でして。これからツバメの巣を観察しに行くところです」
「そうですか」
「よかったら理事長も一緒にどうですか?」
 理事長という言葉に、私はようやく女性が誰かを理解します。見覚えがあるはずです、入学式のときに壇上で話しているのを見たのですから。
「結構です。そのようなものに興味はありません」
 棘まみれの口調でそう言うと、理事長は踵を返し、カツカツという甲高い足音を立てて去っていきました。後には居心地の悪い、不穏な空気が残ります。
 先生は振り返り、私に向かって微笑みました。
「行きましょうか」
 普段なら私の心を太陽のように照らすその笑みも、今はどうしてか、胸中のもやもやを払ってくれませんでした。

          ○

「総体が始まるの。来月から。だからお昼も練習になったんだ。一年坊は球拾いしないといけなくてさ……一緒に食べられなくてごめんね」
「ううん、大丈夫です。部活、頑張ってください」
「ありがと」
 昼休み、私は食事のお供を部活に取られてしまいました。
 クラスで親しくしている人は他にも居ます。けれどもこまっちゃんほど親しい友人は居なくて、だから私は教室を出ました。他のグループに混ぜてもらってもいいのですが、今は気を遣ったり遣わせたりするようなところから離れていたかったのです。
 一人でごはんを食べていても浮かない場所は、学校にはありません。けれども学食は比較的マシでした。混雑していて、待ち合わせ中の人も含めると一人で座っている人も多いからです。ですからひっそりと、喧噪に溶け込むように学食でごはんを食べます。
 食べながら、同好会での活動を思い出していました。
 学校近辺の散策、ツバメの巣の観察、アノナツモドキガイの世話。それらが活動のメインですが、大して時間はかかりません。残った活動時間のほうがずっと長いです。その時間に何をしていたかというと、お喋りでした。
 先生は博識で、生物のことならどんなことでも知っていました。オオサンショウウオの生態、減りつつあるペンギンの数、南米に生えている悪魔の樹、カブトムシの幼虫の味。綺麗なものから、ちょっぴりグロテスクなものまで、先生は取り留めもなく語るのです。二人きりの薄暗い準備室の中で、目をきらきらと輝かせて、ウルトラマンの人形を自慢する子供のように。
 私はそんな時間が大好きでした。
「会いたいな……」
 お祖母ちゃんの作ってくれた甘塩っぱい卵焼きを食べながら、私は呟きました。

 学食からの帰り道、曇っていた空はとうとう、雨を降らせはじめました。
 五月にしては珍しい、大粒の冷たい雨でした。

          ○

 嫌な予感というのは当たるものです。
 第二理科室へ続く薄暗い廊下。はじめは怖かった場所で、今では大好きな場所。けれどもなぜか、今日は歩くのが嫌でした。一歩進むごとに、マラソンの途中みたいに、脇腹が痛むのです。キリキリと締め付けるように。
 けれども私は歩きました。先生に会うために。
 如月先生はもう着いていて、珍しく準備室ではなく理科室のほうにいました。いつもは机の上に置いてある、滅多に動かすことのない木製の椅子を下ろし、その上に座っています。先生の目の前にはもう一脚同じ椅子が下ろされていました。
「こんにちは、逢沢さん」
「……こんにちは、先生」
 声を聞いただけで私は察知します。分かるのです。ずっと、ずっと、聞いていたから。
 これから始まるのは、きっと悪い話。
「座ってください。大切なお話があります」
 促されるままに私は座ります。木製の椅子は座り心地が悪くて、おしりを落ち着けるのに少しかかりました。
 先生は私の目を見つめます。
 いつもは生物の話をしながら、一等星みたいに輝いていた瞳。けれども今は、雨雲よりも暗くて重い。
「もうここには来ないでください」
 前置きもなく、先生は切り出しました。
「同好会は解散です。僕は君とはもう会えません」
 雨が窓を叩きます。第二理科室の外はひどくうるさくて、中は重たいぐらいに静かでした。
「どうしてですか」
 私は聞きます。声はからからに乾いていて、舌はひりひりと痛みました。
「校長から活動停止命令が下ったのです」
「なぜですか」
「活動内容が好ましくないから、という理由でした」
「そうは思いません」
「僕もそう思いますが」
「納得できません!」
 私は拳をぎゅっと握って、叫びます。
「やめたくないです。私、私は、この同好会が好きなんです」
「……この校舎は、じき取り壊しになるそうです」
 唐突に、先生はそう言いました。
「来年か、再来年かは分かりません。けれどもそう遠くない話です。理事長がそう決定されました。地震が来たら崩れそうな建物は危ないですし、汚れた薄暗い場所では、不穏なことが起こりやすいからだと、理事長言っていました」
「……不穏なこと?」
「逢沢さん。僕は二十九歳で、もう若くはないですが、未婚の男です。君は十五歳で、未来ある素晴らしい若者で、一人の女性でもあります」
 丁寧に、適切な言葉を探すように、先生は話します。
 なぜこんな話になったのか、私はようやく、理解しました。
「二人の男女が、薄暗い校舎の片隅に集まることを、好意的な目で見る人は少ないです。ましてそれが生徒と教師であるなら尚更。理事長は心配しているのです。僕と君の間にあらぬ噂が流れたら、僕はともかくとして、君の将来に多大な影響を与えてしまう。それも悪い影響です」
「噂なんて……」
「分かってください。事実の有無は問題ではないのです。僕が浅はかでした。同好の士が見つかって、それが周囲からどう見られるか考えもせずに、ただ喜んで……下手をしたら、君に多大な迷惑をかけてしまうところだった」
「迷惑なんかじゃありません」
「いいえ、迷惑なのです。君が勉学を続けることが出来なくなるかもしれなかった。迷惑以外の何者でもありません。だって君は」
 先生が私の目をじっと見つめます。目を潤ませて、悲しそうに、それでいて嬉しそうに。
「君は生物のことが好きで、ここに来てくれたではないですか」
 私は目を伏せました。
 そうじゃないんです。そうではないんです、先生。
「大学に進めば、好きなことを好きなだけ勉強できます。ここよりも潤沢な予算や、高級な機材を利用して、広い範囲で研究を行うことも出来ます。ですから高校の三年間は、申し訳ないのですが生物同好会としての活動は……」
「噂になってもいいです」
「え?」
「いいんです、噂になっても」
 雨が窓を打ちます。私は声を絞り出します。
 そうしなければ、そうしなくては、大切な場所を守れない。
「私、先生のことが好きです」
 告白して、私は先生を見つめます。
 先生の両目は、眼鏡の向こうで太陽みたいに丸くなっていました。けれどもやがていつもの大きさに戻って、一度私から目を逸らし、もう一度視線を合わせました。照れくさそうに笑って、そして、悲しい目をして先生は言います。
「でしたら尚更、もう一緒には居られません。僕は今年で三十です。君と一回りも違う。僕らは恋人にはなれません」
 傷ついたような声。私は悲しくなりました。ごめんなさいという言葉が、自然と口から零れます。
 私、先生の思っていたようないい子ではありません。私は生物ではなくて、先生のことが好きだったのです。
「君の観察ノートは綺麗でした」
 優しい声で先生は言います。
「よかったらアノナツモドキガイは引き続き君が世話してください。水槽やエアレーションは差し上げます。何かあったら、またいつでも聞きに来てください。ここではなく職員室や教室でなら、会えますから……」

          ○

 アノナツモドキガイは家で飼うことにしました。
 場所が変わっても、貝は特に変化もなく、いつもように水槽の壁面にへばりついています。私は貝になっちゃんという名前を付けました。
 水に指を浸けると、なっちゃんは壁面から離れて、私の角質を食べに来ました。
 アノナツモドキガイは泳ぐとき、時折貝殻の梯子状の部分を水面に出して、ざぁ、という音を立てます。水を掻く音なのですが、文献によると、その音は砂浜に打ち寄せる波音と奇妙なほど似ているようです。
 海に行ったことのない私は、どれほど似ているのか分かりません。先生はきっと分かるでしょう。実家は海辺の街だと言っていました。母にもきっと分かるはずです。海を愛していましたから。
 私だけが分かりません。
 無知で、幼くて、大切な場所を守ることの出来ない無力な私だけが、何も分かっていないのです。