猫が目を覚ますと、花畑の中に居た。
 濃霧が立ちこめている。白い大気を背景にした花弁には水滴が付着していて、色彩をより煌びやかに魅せていた。
 身体は痛くない。猫は立ち上がって近くに咲いていた桜草に鼻をくっつける。瑞々しい質感だった。カーネーションやチューリップも近くに生えていて、見目の華やかさに猫は多幸感を覚える。
(素敵な場所だな)
 花の香りを縫うように、猫はのんびり周囲を歩く。
 そのとき頭上から女性の声がした。
「これ。おぬしはじっとする気はないのか」
 鐘の音に似た優雅な響き。老女のようにも童女のようにも聞こえる、年齢という概念から逸脱した声だった。
 顔を上げ、猫は花弁の隙間から女性を見る。
 表情は見えない。纏っているのは麻のワンピースだ。柔らかそうな乳白色の肌が印象に残る。
 女性は猫を抱きかかえた。
 物理的に距離が近づいても、猫にはまだ女性の顔が把握できない。そこだけ深い霧に覆われているのだ。まるで思い出せない記憶のように。
「わらわを覚えておるか?」
 猫はこくりと頷く。クリームのほとりで出会ったことは覚えていたのだ。
 女性は嬉しそうに笑う。
「ありがとう。実はなかなか覚えてもらえなくてな。皆がわらわを忘れてしまう」
(どうして?)
「さて。外側に居るからだろうか。有形、無形、わらわはその外側に居る。ねむねむとクオはわらわの子どもだ」
(会ったよ)
「喜んでいたぞ。おぬしに出会えてよかったと」
(でも、ぼくは怖くて逃げてしまったんだ。また会えるかな)
「それは難しい。おぬしはまだ還らないからな。ここと同じで、あの子らの居る場所は少し特殊なのだ」
(ここはどこなの?)
「命の果てと呼ばれている」
 その言葉に猫の心臓が大きく跳ねる。
(ぼくは死んでしまったの?)
「まさか。確かにおぬしは大怪我を負ったが、命に別状はない。しばらくは痛むだろうが、そのうちほとんど元通りなる。前ほど速くは走れないだろうが、それぐらいだ」
(本当に?)
「本当だ。言っただろう、おぬしはまだ還らない。おぬしがここに来られたのはそうだな、さしずめ退職旅行といったところか」
(退職?)
「代替わりだ。おぬしはここで北極星を引退する。今までご苦労。素敵だったぞ」
 女性は猫のうなじを掻いてくれる。気持ちよくて猫はごろごろと声を上げた。
「さて、引退に際してわらわからおぬしに贈り物がある」
(ごはん?)
「いや、そうとは限らないのだが、空腹なのか?」
 猫は頷く。思い返してみれば、空腹だったのにしばらく何も食べていなかった気がするのだ。
 女性は花の間を歩く。
「わらわは祝いの品を贈ろうと考えたのだ。一つだけ、どんなものでも。例えばおぬしのなくなったしっぽでも、耳でも、一つだけならなんでも」
(なんでも)
「そう。何が欲しい?」
 温かな両腕に抱かれながら、猫は考えた。
 自分の欲しいもの。なんでもと言われて、猫は迷った。欲しいものが二つあったのだ。でもしばらく考えて、一つに絞った。
(ごはんが欲しい。マグロがいいな)
 返答に女性が驚いたのを、猫は感じ取る。
「そんなものでいいのか?」
(そんなものなんかじゃないよ。美味しいもの)
「それは美味しいだろうが、しかし他にもあっただろう。迷ったりしなかったのか」
(迷ったよ)
「何と」
(名前。でも付けてくれそうな友だちが居るから、マグロがいい)
「本当にマグロでいいのか?」
(ううん、クロテッドクリームも欲しいけど、一番はマグロ)
 猫は素直に答える。
 女性はしばらく黙っていたけれど、そのうちにクスクスと笑い出した。
「そうか。なら、目覚めたときおぬしが食べられるように用意しておこう」
 小川のほとりで女性は立ち止まる。
 水が飲みたくて、猫は女性の腕から飛び降りた。うっかり花の上に落ちそうだったけど、なんとか避けて地面に着地する。そして川縁に近づくと、川向かいに一匹の猫を見つけた。
 その猫に尻尾はない。左耳は欠けていて、ソレルの被毛はそこかしこが乱れている。眼光は暗く澱んでいて、卑屈な性格が表に滲み出ていた。
 猫にはそれが誰だかすぐに分かる。
 だから座って姿勢を正し、川向こうの猫を真っ直ぐに見つめた。
(こんにちは)
〝うん。こんにちは〟
 真っ直ぐに見つめる猫とは対照的に、川向こうの猫は視線を落とした。
(どうしたの?)
〝ぼく、目を見て話せないんだ〟
(そっか。そうだったね)
〝怖くなっちゃうんだ〟
(うん。分かるよ)
〝だから、ぼくはここでお別れしようと思うんだ〟
(どうして?)
〝ぼくなんて居ないほうが幸せだからさ。だってぼくは臆病だもの〟
 川向こうの猫は立ち上がり、猫に背を向けた。
〝だから、さよならだ〟
 それだけ言って、川向こうの猫は去っていく。その行き先にも花は咲いていたけれど、こちらの岸とは周囲の景色に差異があった。向こう岸では霧が出ておらず、木々が生い茂り、荒れ狂う波が海を舞い、多種多様な動植物が居て、おぞましい虫や菌が住み、豪雨が実った作物を腐らし、星々がその全てを見下ろしているのだ。
 目の前の小川を猫は観察する。
 流れは遅い。水深も浅い。水は怖いけれど、ゆっくり一歩ずつ進めば渡れそうだった。
 猫は小川に飛び込む。
 たくさんの恐怖心が呼び起こされたけれど、それでもぐっと歯を食いしばって、向こう岸まで頑張って歩いた。
 対岸に辿り着くと身体を振わし、猫は身体から水気を取る。
〝ぼくを置いていかないの?〟
 追いかけてきた猫に、臆病な猫は問う。
(置いていったりなんかしないよ)
 離れた距離をゆっくり埋めながら、猫は答えた。
〝どうして?〟
(置いていきたくないんだ)
〝でも、ぼくは臆病なんだよ〟
(そうだけど、置いていったりしないよ)
 隣まで近づいた猫は、臆病な猫に鼻をくっつける。
(勇気を出したいって気持ちは、臆病だから生まれるんだ)
 臆病な猫は、やっぱり俯いていたけれど、猫の言葉に顔を上げた。
 そして猫の首元に鼻をくっつけると、一度だけ小さく頷いた。
 猫は振り返って女性を見る。
 渡ってきた小川の向こうで、花畑を背にした女性は、猫の向こう側を指さしていた。
 その指先を猫は追う。
 藍色の空の中に、一つの恒星が輝いていた。
(北極星だ)
 かつて見つけられなかったその星が、今はどんな星より鮮やかに見えた。
 その光を道標に、猫は臆病な猫と並んで、一緒に歩いて行く。
〝素敵な旅だった?〟
 臆病な猫が視線をくれる。
(うん。素敵な旅だった)
 歩きながら、猫はしっかりと頷いた。
 景色が変わる。
 世界が渦巻きになっていた。位置も時間も温度も大気圧も、目まぐるしく変動している。その中で形を変えずに存在しているのは猫だけだった。あの女性も、臆病な猫も、視界の中には見当たらない。
(ぼくしか居ないのかな)
 それなら誰かが来るまで待とうと、猫は背中の毛を繕う。すると一羽の鳥が目の前に現れた。
 アヒルの子どもみたいだ。けれども羽毛は灰色をしていた。
「あっ、いま、俺のことを薄汚いやつだって思ったなっ」
 灰色の鳥はガァガァと喚く。
「俺はそういうところ敏感だからすぐ分かるんだぞっ。謝れこの野郎、俺だって大きくなったらちゃんとしたアヒルになるんだ。真っ白になるんだぞっ」
(薄汚いやつだなんて思ってないよ)
「嘘だ知ってるぞ。俺のことを見たら皆、絶対に、間違いなく、太陽が西に沈むのと同じくらい確実に、薄汚いやつだって思うに違いないんだ。なんだよ好きでこんな風に生まれたわけじゃないのに皆してさ」
 後半はごにょごにょと沈んでいったのでよく聞き取れなかった。気分の上下が激しい性格らしい。
(これはまた賑やかなのが選ばれたなあ)
「おい、ここはどこなんだよっ」
 再び喚きだした灰色の鳥をなんとか宥めながら、猫はいくつかの事柄について説明する。
 ここが危険な場所ではないこと、ごはんの心配はないこと、そして北極星についての知識。かつて熊が教えてくれたのと同じように、猫はそれらについて語った。
「何を言ってるのか全然分からないよっ」
 ガァガァと喚かれる。どうやら説明は失敗したようだ。
 猫は欠伸をした。勿論もう一度話したりはしない。なにしろ説明するのが苦手だし、あと眠くなってきていた。
(ぼくは帰るから、あとは君に任せたよ。たぶん大丈夫だよ君なら。たぶん)
「たぶんたぶんって繰り返さないでよっ。不安じゃないかちゃんと説明してよっ」
 まだ喚いている灰色の鳥に近づいて、猫は鼻先を嘴にくっつけた。
 すると大騒ぎしていた灰色の鳥は静かになって、ちょっぴり恥ずかしそうに俯く。
(今日からは君が北極星だ)
 猫は灰色の鳥から離れて、渦巻きの中で丸くなる。
(次の誰かと出会うまで、素敵な旅をするといい)
 伝えることはこれで全部。だから瞼を閉じたらすぐ、猫は眠りに落ちてしまった。