猫が目を覚ますと、なんだか嫌なにおいがした。
つんとする汗のにおいだ。鼻の奥で土色のこびとがツルハシを振るっているよう。くしゃみしそうになるのを堪えながら、猫はふらふらとその場を離れる。
砂だらけの土地だった。あたりの家々は土と煉瓦で出来ている。被毛を脱いでしまいたくなる暑さだ。喉の内側が干からびて、紙やすりで削られているみたいに痛み出す。そのうえ呼吸すると砂の粒が口に入ってきた。
(ひどい場所。嫌だなあ)
弱音を零しながら、猫はにおいがマシになるところまで歩いて、砂を吐き出した。
振り返ってにおいの元を見る。
そこには小高い丘があった。でも砂や土で出来たものじゃない。
靴だ。大小様々な靴がうずたかく積み上げられて、一つの丘を形成している。
スニーカー、サンダル、パンプス、ブーツ、ローファー、ミュール、ハイヒール。あらゆる種類の靴があった。この周囲に住んでいる人のものだけではないだろう。それにしてはあまりに種類が雑多すぎるし、なにより数が多すぎる。千や二千ではくだらない量の靴があるのだ。しかもそれらはどれも履き古されていて、潰れたり草臥れたりしているものばかりだった。
(靴のお墓みたいだ)
墓標もなく、埋められてもいないけれど、どうしてか猫はそう感じた。
しかしそんなことはどうでもいいのだ。猫は一刻も早く暑くなくて砂がなくて水が飲めるところに避難したかった。例えば優しい人間の住む家など最適だ。しかし手近な家に飛び込もうにも、どれも窓や扉を閉め切っていて入れそうにない。
そのとき、一台のトラックが通りを走ってきた。
荷台には山ほどの靴が積まれている。履き古され、寿命を終えた靴たちだ。トラックは靴の丘に近づくと、すばやくその背を傾けて、持ってきた靴をどさどさと落とす。落ちきらなかった靴は運転手が手で放り投げた。そうやってきっちり全部を捨てて、トラックは走り去っていく。
どうやらここは要らなくなった靴を捨てる場所のようだ。世界にはこんな場所もあるんだな、と猫は思ったけれど、いま必要なのは靴捨て場ではなくオアシスだった。
(誰かがここを通ってくれれば、水をねだれるのに)
すっかり砂まみれになった身体がむず痒くて、猫は上体を捻る。
その拍子に、ちょうどよくこちらへ歩いてくる人間が目に入った。背の高い男の人だ。
(なんて丁度いい人)
駆け寄っていこうかとも思ったけれど、同情心に訴えて水をせしめるべく、猫は弱ったフリをして待ち伏せることを選んだ。
しかし男の人はいつまでたっても近づいてこない。姿が段々大きくなるから、こっちに来ていることは明らかなのに、なかなか距離が縮まらないのだ。
痺れを切らして猫は自分から歩いていく。勿論、弱ったフリをしたままで。
すると、こちらから近づいたことで、猫はどうして男の人がなかなか近づいてこなかったのかが分かった。
男の人には右足がないのだ。右太股の中程には包帯が巻かれていて、血が滲んでいる。男の人は松葉杖と、猫が知っているどんな人間よりも筋肉質な左足とでゆっくり、本当にゆっくり歩いていた。けれどもたぶん、意図的にゆっくり歩いているわけではないのだろう。それは浅黒い肌に浮かんだ玉のような汗を見れば明白だった。
男の人が背中に担いだリュックサックには水の入ったペットボトルがささっていたけれど、猫にはとても、それを頂戴とねだることは出来なかった。そんなことを許さないほどに、男の人の顔は必死だったのだ。
ゆっくりでも歩みを止めずに、男の人は靴の丘へと向かっていく。
やがて、ようやく丘の麓へ辿り着くと、男の人は崩れ落ちるように地面へ腰を下ろして、洗い息のままリュックサックから何かを取り出した。
それは真新しい靴。
真っ白な、美しい流線型を描いた靴だ。ぎらつく陽の光を反射して、滑らかに輝いている。芸術的なその靴は、歩くためであったり山を登ったりするためではなく、ただ走るために、速く走るためだけに作られたものであることは疑いようがなかった。
けれども男の人は、まだ一度も履かれていないのであろうその靴を、丘へと投げ捨てる。
「どんなもんだ」
乾いた言葉、乾いた笑い。
「ほら、見ろよ。見たかッ」
狂ったような吠え声。目を血走らせて、男の人は叫び続ける。
するとどこからか一台の車が近づいてきて、男の人の真横に停まった。助手席から女の人が飛び出してきて、男の人に近づく。
「来ちゃ駄目って行ったじゃないっ」
怒鳴り声には心配だけが籠もっていた。女の人が男の人を抱きしめる。
「病院に帰りましょう」
「やってやったぞ。オレはやったんだ。捨ててやったッ」
「帰りましょう。さあ」
目に涙を浮かべながらも、女の人は男の人に肩を貸して、二人で車の後部座席へ移動する。
車のドアが閉められるまで、男の人は譫言のように、やってやった、と繰り返し呟いていた。
景色が変わる。
夜だ。日が沈んでからずいぶん経ったのだろう、気温はぐんと下がっている。いきなり氷水に落とされたような感覚だ。猫はくしゃみをしてしまう。
(うう、なんてところだ)
水も欲しいけれど温かいところも欲しい。欲しいものが二つに増えてしまった。でもどちらも手に入りそうにない。あたりの家々は閉め切られたままだし、川の流れる音も聞こえなかった。ひとまず猫は身体を家の外壁にぴったりと寄せる。風に体温を奪われないようにするためだ。しかし片面だけしか守れないので、まだまだ寒かった。
(何かないかなあ)
猫は周囲に目を配る。けれども靴の丘しか見当たらない。
ただ、靴の丘には変化があった。
まずにおいが薄れている。これは気温が下がったからだろう。けれどももう一つの変化は、猫にはどういうものかよく分からなかった。
丘全体がほんのりと発光している。
タンポポの綿毛の群生地みたいだ。丘を形成する靴の一足一足が淡い光を灯していて、とても綺麗だった。
光は柔らかな色合いを帯びている。
(触ったら温かいのかな)
壁を離れて、猫は靴の丘に近づく。
でも近づくとすぐに、多少薄れてはいてもまだ強烈な汗のにおいが鼻孔を突いた。踵を返し、後ろ足で砂をかけて、猫は壁へと引き返す。
(あのにおいは駄目だ。鼻が曲がってしまう)
光はとても温かそうだけれど、これではとても近づけない。
しかし猫は閃いた。長い時間が経っていなければ、靴の丘の中には、男の人が捨てた真新しい靴があるはずだ。
目を凝らす。あの真っ白な靴はすぐに見つかった。猫は男の人が捨てた場所を覚えていたのだ。新品同様なのだからにおいは無いだろう。ちょっとだけ我慢して靴の丘に走り、あの靴を咥えて持ってくれば、においを気にせず暖まれるかもしれない。
そうと決まればすぐに行動だ。猫は息を止めて靴の丘に突進する。目当ての真っ白な靴を咥えて、元の位置まで引き返した。右足用と左足用とが紐で繋がっていたのでちょっと重かったけれど、それでもかかった時間はわずか十秒。あっという間に、猫はまっさらの靴を手に入れた。
(ふふん。どんなもんだ)
壁際に靴を置いて、猫は勝ち誇る。
しかし持ってきたはいいものの、他の靴とは違って、この靴は光っていなかった。ただ真新しくて白いだけの、普通の靴だ。もちろんちっとも温かくない。
(どうして?)
せっかく手に入れた靴が役立たずと分かって、猫はがっかりする。
他の靴と一緒にしていないと光らないのだろうか。それとも、最初からこの靴は光っていなかったのだろうか。だとしたら、光る靴と光らない靴との違いは何なのか。そもそも、どうして靴が光ったりするのか。
頭がこんがらがってきた。猫はぶんぶんと頭を振って、全ての思考を捨ててしまう。
(難しい話は嫌いだよ)
そのとき、猫はエンジンの音が段々と迫ってくるのに気付いた。
見覚えのある車が姿を見せたのはそれから数秒後だ。慌てるような走り方をしていたその車は、靴の丘の前で急停車した。ヘッドライトの明かりが眩しすぎて、靴の丘の淡い光はかき消される。
次の瞬間、運転席からあの女の人が降りてきた。ヘッドライトは点けたままで、一目散に靴の丘を上る。そして跪いて靴をかき分け始めた。
「どこにあるの?」
悲しい声で呟きながら、女の人は靴を拾い上げては背後に投げ、拾い上げては背後に投げ、と繰り返す。その姿は、うっかり捨ててしまった大切なものを探しているように見えた。
必死な人に声をかけるのはあまり好きではないけれど、猫の喉の渇きは限界に達している。だから水をねだるために、猫は鳴き声を上げて女の人の注意を引こうとした。けれども女の人はなかなか気付いてくれない。猫はもっと大きな声で鳴いた。
「猫?」
ようやく気付いたのか、女の人が顔を上げる。そして猫を見た。
途端にその目が見開かれる。
直後、女の人はすごい形相で駆け寄ってきた。その唐突な行動にびっくりして、猫は脇に飛び退いてしまう。
「あった、あったわっ」
さっき猫が持ってきた真っ白の靴を抱きしめて、女の人が歓声を上げる。
「ありがとう。猫さん、ありがとう」
油断していた猫をひょいと抱き上げると、女の人はキスをしてきた。猫は悲鳴を上げる。キスは嬉しいのだけれど、いきなりされるのは嫌いなのだ。もっとロマンチックに、優雅な一時を演出してからキスしてほしい。
でも嫌がる猫に構わず、女の人はキスの雨を降らせる。
やがて抵抗を諦めた頃にそれは終わって、ようやく猫は地上に降りられた。不快だったことはちゃんと伝えなくてはならないな、と猫は唸り声を上げる。
「あれ? どうしたのかしら。喉が渇いたの?」
女の人は腰のホルダーからペットボトルを外すと、左手のくぼみに少しだけ水を乗せて、猫に差し出してくれた。
当初の目的が遠回りに達成できたので、猫はとりあえず不満を脇に置いて、水を戴くことにする。一口舐めると、それだけで気分は上向きになった。猫は上機嫌になる。
「美味しい? よしよし」
頭を撫でられる。飲んでいる途中にそれをやられたので、口に含んでいた水を危うく吐き出してしまうところだった。猫は不機嫌になる。
けれども機嫌はともかく、水をくれたのだからお礼を言わないといけない。左手に乗っていた水を一滴残らず舐め取った後、猫は感謝を示そうと顔を上げた。
太陽が昇っている。
また炎天下だ。いつの間にか夜が終わっていた。女の人はどこにも居ない。靴の丘からは汗のにおいが放射されている。
(ひええ、もうこりごりだ)
猫は慌てて日陰に避難する。そして丸くなった。現実がどうにもならないときは寝てしまうに限る。
けれども瞼を閉じる前に、視界の中に気になるものを見つけてしまった。丸まりを中断して、猫は目を開ける。
靴の丘の前に二人の男女が居た。男の人は車椅子に座っていて、女の人はその手押しハンドルを握っている。どちらもこれから老齢に差し掛かるぐらいの歳だ。猫は彼らの姿に見覚えがあった。
車椅子に座る男の人の膝元には、元が何色だったのかも分からないほど履き古された靴と、それと同じデザインをした真っ白な靴とがある。よれよれの方は左足用、真っ白な方は右足用だ。その靴にも、猫は見覚えがあった。
男の人はそれらの靴を掴むと、丘へと投げ捨てる。
先に右足用。次に左足用。どちらも頂上付近に落下して、靴の丘の一員に加わった。
「速く走ることだけが全てだと思っていたよ」
男の人が呟く。
「だから何もかも捨ててきた。身体を軽くするために。捨ててはいけないものさえも」
背中側に顔を向けて、男の人は微笑む。
「君のおかげで気付けたよ」
女の人は微笑みを返した。
靴の丘の前から彼らは去っていく。寄り添う二人の後ろ姿を、猫は目だけで追っていたけれど、やがて彼らは視界から消えてしまった。後にはただ、歩き続ける彼らの思い出だけが残っている。
目映い太陽の下では、靴たちの淡い光は見られない。けれども不思議と、よれよれと真っ白のペアがほんのり輝いていることだけは、見えるような気がした。
猫は目を閉じる。
意識に上るのは柔らかな光。その温もりは、優しい思い出を抱きしめる時の温かさに似ていた。
安心感が胸に満ちる。だから瞼を閉じたらすぐ、猫は眠りに落ちてしまった。