猫が目を覚ますと、馬の背に居た。
 夜の冷気の中で、馬は蒸気のように体温を放出している。走り終えてからそう経っていないのだろう。接触しているお腹が蒸れるのが嫌で、猫は馬の背から飛び降りた。
 あたりは暗い。けれども目映い星明かりと付近の焚き火、それに優れた猫の目があるので、周りの様子はよく見えた。
 草原だ。背の低い草が一面に生えている。丘陵と月光の支配する風景は、幼い子供が描いた絵みたいだ。のっぺりとしていて、どこか間抜けなほど単調なのに、他のどこにも存在できない。
 いい匂いがしたので、猫は焚き火に近づく。
 そこでは羊の肉が焼かれていた。木製の串に刺されたそれらは焚き火を取り囲むようにして設置され、時間の経過と共に油を滴り落としている。付近には臓物と骨が転がっていた。つい先程解体されたばかりなのだろう。
 また、焚き火の付近には肉の他にも、三人の男たちが居た。
 男たちは簡素なゲルを立てている。眠るときに夜風を凌ぐためのものだろう。遮蔽物のない草原では、風が容赦なく体温を奪っていくのだ。特に気温の低い夜は、命の危険を感じさせるほどに、風は厳しい。
 ゲルの隣では馬が休んでいる。さっきまで猫が乗っていた馬を含めて、全部で六頭の馬が居た。草を食べたり、用を足したり、隣の馬の尻に顔を乗せたり、それぞれが思い思いの行動を取っている。どの馬も左後ろ足の付け根に、毛を刈って象られた模様があった。三頭は同じ模様で、二頭はまた別の同じ模様、一頭はさらにまた別の模様だ。
 猫が先程まで乗っていたのは、同じ模様の仲間が居ない馬だった。
 一頭だけ少し離れた場所で、静かに東を見据えている。何を見ようとしているのかは分からない。けれどもその表情は凜々しくて、なにか決意を秘めているように見えた。
 やがてゲルを張り終えた男たちが、焚き火の前に腰を下ろす。
「おい、猫が居るぞ」「なんだって?」「ほら、そこに」「本当だ。不思議だな、こんなところに猫なんて」
 これといった特徴のない二人の男が、猫を撫でる。分かるのは、彼らが旅人であるということだけだ。馬しか連れていないし、羊の内臓を無駄にしている。スープにすれば食べられるのにそうしないのは、きっと鍋を持っていないからで、鍋を持っていないのはこのあたりに住んでいない証拠だ。
 けれども彼らが旅人かどうかは、猫にとっては大した問題ではない。
(問題は、ぼくに肉を食べさせてくれるかどうかだ)
 猫は声を上げて、お腹が空いたことをアピールする。
「鳴いてるぞ」「そうだな。あと、肉を横目で見てる」「食いたいんだろうな」「分かりやすい猫だ」「卑しい猫だなあ」
 特徴のない二人の男は、哀れむような目を猫に向ける。猫は憤慨した。
(こんなに可愛らしいぼくを、よりにもよって卑しい猫だと言うなんて、ひどい)
 恨みを心に溜め込んで、猫は二人の男を睨む。
「いいじゃねえか、食わせてやろうぜ」
 二人の男の背後から、そんな台詞が発せられる。
 言ったのは一番若い男だった。特徴のない二人とは違って、その男の顔は印象深い。艶やかな肌に、口元の黒子。おっとりした形の目に、それとは不釣り合いな強い眼光。顔立ちは整っていて、その男が美しい人間であることが猫にも分かった。
「腹が減るのはつらいだろ。運良く羊が捕れたんだ、もしかしたらその猫が幸運をもたらしてくれたのかもしれねえ。分けてやろう」
 その言葉を聞いて、猫は美しい男に駆け寄る。自分に優しくしてくれる人間は大好きなのだ。美しい男は近寄った猫を優しい手つきで撫でた。
 特徴のない二人の男は不満げに鼻を鳴らす。
「おまえは後先を考えていない」「そうだ、猫になんてやっている場合か」「食い物はまだ干し肉があるからいいが、水はもう余裕がないんだぞ」「羊肉に含まれている水分は貴重だ。分けてやる余裕なんてない」「この旅を言いだしたのはおまえなんだから、もっと考えろ」
「考えてるさ。兄貴の話じゃあ、もう一日も走れば辿り着くはずなんだ」
 苛立った口調で、美しい男が二人に言い返す。
「若いからって馬鹿にするな。ちゃんと考えてる」
「そんな風には見えない」「おまえはいつも考え無しだ。あんな兄貴の話を信じているんだからな」「あと一日で着くなんて、分かるものか。おまえの兄貴は、最期には狂っていたじゃないか」
「なんだと?」
 素早い動作で美しい男が立ち上がる。
 その手には、いつ抜いたのだろう、鋭く光る銀の刃が握られていた。
「狂ってない。兄貴はまともだった」
「待て」「落ち着くんだ」
「いつだってまともだったんだ。おまえらなんかより、ずっとな」
「ナイフを下ろすんだ」「下ろせ、さあ」
「おまえらは利権を逃すのが怖いから、付いてきたんだろ? 兄貴の持ち帰った絹がなければ、付いてきたりはしなかっただろ? 欲に目が眩んでるんだ。まともじゃない」
「悪かった。おまえの兄貴を馬鹿にする気はなかったんだ」「そいつを降ろしてくれ。事情がどうあれ、オレたちはいま、旅の仲間だろう。ここで争ったって益はない」
 三人の間に緊迫した沈黙が漂う。
 それは二十秒ほど続いただろうか。やがて美しい男は腰にナイフを仕舞い、地面に腰を下ろした。
「すまない。熱くなった。確かに俺は考えなしかもしれない。悪かったよ」
 特徴のない二人が安堵の息を零す。
「いや、いいんだ」「オレたちもひどいことを言った。こちらこそ、すまない」
 男たちは無言で食事を始める。
 美しい男は、自分の分の羊肉をいくらか、猫に分けてくれた。全く味付けされていない、ただ焼いただけのそれは、猫の舌には懐かしかった。
「水はあとどれだけある?」
 食後、引きずられていた沈黙をようやく解いたのは、美しい男の言葉だった。
「戻りの分を考えると、進めるのはあと二日。それぐらいの量だ」「もちろんこれは、精一杯節約しての話だけどな。まあ、進むのがあと一日なら、十分な量だ」
 特徴のない二人は、静かな口調で答えた。
 またしばらくの沈黙。
 火は緩やかに勢いを失っていく。
「オレたちはおまえの言う通り、欲に目が眩んだ親父たちに言われて、旅に付いてきた」
 特徴のない一方が口を開く。
「おまえにとってはまともじゃないかもしれないが、オレたちが前に進めるのは欲深いからなんだ。オレたちは、おまえほど強くない」
 焚き火が小さく爆ぜた。
「なあ。おまえはどうして旅に出た?」
 景色が変わる。
 朝靄の中に猫は居た。また馬の背の上だ。右手には手綱を引く美しい男も居る。
 しかし、草原の中に居るものは、それで全てだった。
 特徴のない二人の男と他の五頭の馬は、どこにも見当たらない。ただ静かな丘陵と、風にたなびく草があるだけだ。
 猫は美しい男の横顔を見る。
 目の形とは不釣り合いな鋭い眼差しは、変わらずそこにあった。
「ん?」
 美しい男が猫に気付く。
「なんだ。どこかに行ったと思ったのに、付いてきたのか、おまえ」
 抱いていた寂しさが少しだけ和らいだような、優しい声。
「一緒に行くか、おまえも。どれだけかかるか分からないけどな」
 ひらりと馬に飛び乗ると、美しい男は猫を腹のあたりに寄せて、馬を走らせた。
 太陽を目指すように、真っ直ぐ東へ。
 並足から早足、やがて駈足に。
 それはとてつもない速度だった。猫は最初、頬にあたる風や、飛んでいく周囲の風景に怯えて、美しい男の服にしがみついたほどだ。けれども速度になれてくると、恐怖は段々と薄れて、次に爽快感がやってきた。やっぱり服にはしがみついたままだけれど、普段は感じられない空気の味に、猫は感激する。
(口の中がひやりとする。空気って、こんなに喉を流れるものだったんだ)
 美しい男はただ走り続けた。
 停まったのは昼食を取るための一度だけ。干し肉を食べ、ほんの僅かな水を飲んだ以外は、何一つ口にしない。鋭い眼差しで真っ直ぐに東を見据えたまま、美しい男はいくつもの丘陵を越える。その懐で、猫も平原を見続けた。
 一つの丘を越える。
 そこからは何も見えない。草原と、次の丘があるだけ。馬の足が潰れないように速度を緩めて下り、また駆け上る。
 なだらかな丘といっても、その高低差は確実に視界を遮る。だから丘の先を目指すなら、盲目的に上下運動を繰り返すしかない。
 また一つの丘を越える。何も無い。
 一つ、もう一つ、また一つ。何も無い。
 美しい男は鋭い眼差しで、ずっと東を見据えていたはずだった。
 景色が変わる。
 もう、あの鋭かった眼差しは褪せていた。
 東を見つめる虚ろな双眸。惰性で握られている手綱。頬は痩け、肌は裂け、爪はひび割れ、呼吸は喘ぐようなものに変わっている。水は尽きてしまったのだろう。馬は草を食めばその水分で渇きを潤せる。しかし美しい男には、渇きを潤す術はない。
 何を原動力に、足を止めないでいられるのか。
 美しい男は死の行進じみた旅を、まだ止めずにいた。
 けれどもそれは太陽が雲で陰った頃、唐突に終わりを迎える。
 馬上から崩れ落ちる美しい男。緩やかに低下し続けた速度が、ついにゼロとなる。馬は止まり、猫だけが馬上に残される。落馬した美しい男の身体は、指先に至るまで、一ミリも動かない。
 猫は馬から飛び降りる。
(起きて。ぼくも喉が渇いたよ。水場まで頑張って)
 鳴き声を上げるも応答はない。触っても噛んでも、美しい男は動かなかった。
 途方に暮れた猫は、ひとまずとんがり耳を掻く。尻尾と同じぐらい自慢のとんがり耳を掻くと、物事がうまくいくことがあるのだ。しかし今回は何も起こらないし、どうにもならない。
(どうしよう)
 猫は隣で佇んだままの馬に目をやる。
 馬は顔を下げて、倒れた美しい男を鼻先で突いた。
「金が欲しかったわけじゃない」
 消え入りそうな声で、美しい男が呟く。
「絹が欲しかったわけじゃない」
 譫言のように言葉は舞う。
「兄貴が狂ったかどうかもどうだっていい」
 空が一瞬、光った。
「ただ俺は、見たことのない世界を見たかったんだ」
 美しい男の手が、馬の頬を撫でる。
「ごめんな相棒。そんなもん、どこにも無かったみたいだ」
 その手が、木から千切れた林檎みたいに落下した。
 それきり美しい男は動かない。指も口も目も肺も心臓も、何もかも静かになってしまった。
 雨が降り始める。
 思わぬ水の到来に、普段は大嫌いな雨も、猫は喜んで浴びた。口を開けて空を向き、喉の渇きを潤す。
 けれども隣に居る馬は、雨が降っている間、一度も顔を上げなかった。
 やがて雲は去る。
 装飾の消えた空では、泣きつかれた目みたいな夕日が浮かんでいた。
 猫は身体を振って水気を払ってから、馬の背に飛び乗る。そちらのほうが温かいと思ったからだ。けれども馬の身体はまだ濡れていて、足の裏がひたひたと湿った。
(寒いから水を払って。身体揺すって)
 正確に伝わることがないことなんて知っているけれど、猫は鳴きながら馬の背を叩いて訴える。
 するとそれまでずっと俯いていた馬は、ようやく顔を上げた。
 身体を揺すって水気を払ってくれるのだと思った猫は、振り落とされないようにしっかりと馬の背を掴む。
 けれども馬の取った行動は違ったものだった。
 夕日に背を向け、東を見据え、長く伸びる影法師を踏むように、一歩。
 荒い鼻息を一度。
 次の瞬間、馬の身体は弓から放たれた矢のように、全速力で駆け出した。
 人の居ない馬上で、猫はその速度を知る。
 風さえ鈍く、空気は尖り、音を隣に息を吐く。あらゆる景色が絵でなく像に、点は線へと変化して、生きていることを思い出す。
 恐怖すら背後に消えていった。
 一刹那ごとに増す高揚が胸を打つ。
 しがみつく背が温かい。
 馬は足を止めなかった。
 ただ東へと、真っ直ぐに。
 朝を置き去りに、昼を追い越して、夜の彼方へと、走り続けたのだ。
 そして、やがて。
 次の朝日が昇る頃に、馬はようやく、足を止めた。
 無限に思えた丘の果て。
 視界の奥には、広大な面積を有する都があった。
 堅牢な壁、雄大な門、行き交う人々、活気ある下町、それらを見下ろす豪奢な城。
 門の前まで馬はゆっくりと歩いていく。
 そして、その数十メートル前まで迫ったところで、もう一度立ち止まった。
 両の前足が上げられる。
 直後、馬は天へと嘶いた。
 猫は馬上から振り落とされ、真下からその威容を目にする。
 青を背にした雄々しい姿。繰り返されるその鬨は、どこか遠くへ宛てられた、餞のように聞こえた。
「おい、見ろよ。やっぱり人が居ない。立派な馬がどっかからやって来てくれたぞ」
 門番と思しき二人の男が、門の脇にあった小さな扉から出てきて、馬を出迎える。
 男たちに刃向かうことはせず、馬はちらりと猫を一瞥してから、開いた門の内側へと去っていった。
 景色が変わる。
 形と色と大きさを変えた門の元には、幾十幾百の荷馬車が集っていた。
「うええ、死ぬかと思った」
 猫の間近に居た禿頭の男が、革袋から水を飲む。
「昔の人たちは本当に渇き死んでたんだよ。死ぬかもしれない、で済むなら有り難いもんでしょ」
 隣に居た長身の女が、呆れたように息を吐く。
「そうだな、本当に。有り難いさ、この道のおかげで貿易が出来る。昔の人たち様々だ」
 草原の方角へ顔を向けながら、禿頭の男は言う。
「どうやって広めたんだろうなあ、この道。だって誰が信じるんだよ。いくつか分からなくなるほど丘を越えた先に都がある、だなんて」
「友情や信頼が成した奇跡なんでしょうよ。いいからさっさと飲んで、早く私にも頂戴よ」
 長身の女が苛立たしげに催促する。しかし禿頭の男はそれを聞いていないようだった。
「本当に友情や信頼で、この道を開拓したのかなあ」
 呟きは中空に浮かび、どこにも引っかからないで落ちていく。
 喉が渇いている上にお腹も空いていた猫は、適当な馬車の荷台に忍び込んで品をいくらか失敬し、食欲を満たした。見つかって怒られないよう、すぐに他の馬車へ移動する。隅にあった衣類が柔らかかったので、その上で丸くなった。
 胸の奥に熱した炭みたいな感情がある。けれども猫がその正体を探ろうとしたら、すぐに微睡みがやってきた。眠気に勝てる猫なんていない。だから瞼を閉じたらすぐ、猫は眠りに落ちてしまった。