1

 深海鉄道の車掌に就任して、じき三年になる。
 僕はこの仕事が嫌いだ。

          ◆

 朝は十時に起きる。基本的に遅番なので、出社は午後からだ。
 朝食は決まってソースクレープ。薄力粉を水に溶き、千切った野菜と肉を入れ、鉄板に広げ、焼く。簡単だ。だから僕にも作れた。むしろこれしか作れない。僕の食生活からソースクレープを除くと、残りは水とビタミン錠剤ぐらいだろう。
 食べたら家を出る。移動は徒歩だ。人工太陽の生ぬるい日差しを浴びながら出社する。
 会社に着いたらまずは引き継ぎ。それを終えたら着替えて車庫に向かう。機器のチェック、ダイヤの確認、周辺塩分濃度の把握、その他もろもろの準備を済ませたら、機関車をホームへ移送。客を乗せ、警笛を鳴らし、僕の動かす深海鉄道は発進する。
 あとは終業時刻まで決められたルートの往復だ。半透トンネルの中から出ることなく、決められた速度、決められた時間で、ただ淡々と乗客を運ぶだけ。機転や発想力は必要ない。必要なのは知識と忍耐と体力だ。
 給料は悪くない。
 奨学金を返しながら貯金が出来るほどだ。
 それなのに満足できないのは、業務がつまらないからだった。
 とにかく単調極まりない。ほぼ全て機械任せなのだ。異常の感知、燃料補充と煤煙処理の時機確認、ブレーキに至るまで、全て自動となっている。だから車内の職員は僕だけで、会話するということがない。乗客とは接するけれど、大抵はチケットを確認するだけだ。走行中に景色を楽しむにも、見えるのは暗闇かマリンスノウ、運が良くて気色悪い深海生物だけ。新鮮味は欠片もない。
 小さい頃の夢は探検家だった。美しい世界を見てみたかったからだ。
 人間にとって、深海は狭い。なにしろ街の中でしか生きられないのだ。そして僕の育った街は特に小さかった。美しさを育む余地もないほどに。暗くて無機的で、食用動植物と人間を除くと、残るのは灰色ばかり。
 もしも両親が生きていたなら、そんな街でも愛せたのかもしれない。けれども父も母も、僕を残して死んでしまった。僕は施設の片隅で、薄暗い街を見つめながら、歯を食いしばって生きるしかなかったのだ。
 だから美しい世界に憧れた。
 一面の花畑を、満点の星空を、もしも見ることが出来たなら、何もかもを許せるような気がしたのだ。
 とはいえ物事、そう上手くはいかない。僕にはお金が無く、街が出してくれる補助金はほんの僅かで、奨学金を借りなければ学校には行けなかった。学校で読み書きを習わないことには、職に就くことも出来ないのにだ。僕は奨学金を借りるしかなく、借りた以上は返さなくてはいけない。
 探検家の夢を諦めて、僕は車掌になった。
 車掌なら、お金を稼ぎながら知らない場所へ行ける。妥協点としては十分だ。実際、僕は車掌になってから、色々な景色を見ることができた。
 でも、美しい世界は見当たらない。
 もちろん、花畑や星空が深海にないことはとうに知っていた。けれども期待していたのだ。それに代わる何かはあるんじゃないかと。でも代わる何かはどこにも無かった。少なくとも僕の深海鉄道が走る経路には、何も。そして探検家じゃない僕には、それ以上探す自由なんてなかった。
 仕事中、一番嫌になるのは、機関車を車庫に収めるときだ。
 車庫に向かうと、窓の外には僕の住む街の明かりが見える。暗闇とマリンスノウ、たったそれだけの狭い世界を巡った僕が帰る、無機的で小さい街。しかも点いている明かりの中に僕の家はない。一人きりの四畳半で食べる晩ご飯は、またしてもソースクレープ。
 仕事をやめてしまおうかと考える度、奨学金の返済を思い出して、頭痛がした。
 帰社して事務作業を済ませ、服を着替えて鞄を持つ。一日の仕事はこれで終わりだ。
 明日もまたこれの繰り返しか、と落ち込みながら、僕は何気なく掲示板を見た。社員旅行のチラシや労基のビラの間に、目を引くポスターが貼られている。
『開拓者募集。地上へ行きたい者、集え』
 ポスターの発行元は海理研という、国から予算を受けている高名な研究所だった。

          ◆

 訪れてくれた幸運は二つ。
 一つ、街の法律改正があり、奨学金の返済負担割合が全額から八割に変わった。二つ、僕が業務指導官に昇格することが決まった。つまり奨学金の返済額が大幅に減って、なのに給料はぐんと上がったのだ。もう半年で完済できるほどに。
 地上への挑戦は過酷だ、と取り寄せた応募用紙に記載されていた。帰ってこられない可能性が低くなく、出発から数分後には海の藻屑となっていることも考えられると。
 だから何だ、と僕は思っていた。
 暗い深海を出られるならそれぐらい、妥当なリスクだ。応募を躊躇う理由にはならない。けれども僕が奨学金の完済前に無茶をすると、いま施設にいる子供たちが次に借りられなくなるかもしれなかった。そこまでの勝手は出来ない。
 けれども幸運が二つ続いた。
 選考結果が出るのは半年後。出発はその翌年。奨学金の完済には十分な期間だ。
 地上になら美しい世界が広がっているかもしれない。
 僕は丁寧に履歴書を書いて、応募先に提出した。

          ◆

 最近の新入りはレベルが落ちている、と上司は言う。僕も同意見だった。
 昇格して二ヶ月。僕は五人目の指導に当たっていた。つまり四人辞めたのだ。仕事のきつさに耐えられなかったようで、ある日いきなり姿を見せなくなった。
 車掌の仕事は単調だけれど、慣れるまではきついのだ。
 万が一機械が故障したときに備えて、運転士としての技能も兼ね備えていないといけない。さらに燃料補充や煤煙玉作製、貨物の大量輸送のために、少なくとも自分の体重くらいは持ち上げられる筋力が必要とされる。勤務時間は長いし、その中のほとんどの時間は真っ暗な深海で一人きり。精神的にも肉体的にもつらい仕事だ。
 だから、やめる気持ちも分からなくはない。でも僕ならば、少なくとも一言ちゃんと伝えてから辞める。突然消えたりはしない。
 そして今朝、五人目の新入りは出社しなかった。翌日も来ず、電話にも出ない。
「それじゃ、君には六人目の新入りを回すよ。明日からよろしく」
 上司は慣れたもので、動じることもなく言う。僕は力なく頷いた。
 一生懸命教えたのだ。それなのに居なくなるのだから、落ち込みもする。
 だんだんネガティブになってきて、次はいつ居なくなるんだろうと考えながら、僕は六人目の新入りと対面した。
「逢沢シアンです。よろしくお願いします」
 凛とした声で挨拶したシアンを見て、僕は驚いた。
 なんと六人目の新入りは、女性だったのだ。

          ◆

 シアンはタフだった。
 大の男でも怯える暗闇での走行を淡々とこなす。客同士の揉め事もきちんと収めるし、エンジントラブルが起きても動揺せず、僕の教えた通りに修復した。これらを最初から出来る新人は少ない。
 加えて、シアンは弱音を吐かなかった。
 過去に例がないほど優秀な人材、というわけではない。計器の読み違えや、忘れ物や、とにかく人並みにミスはする。でも叱られて落ち込んでからのリカバリが見事だった。言い訳せず、卑屈にならず、きゅっと口元を引き結んで、ミスの取り返しにかかる。そのときの瞳はサファイヤの原石みたいに見えた。
 新人研修は、最低でも半年はかかるとされている。
 けれどもシアンは努力家だ。だから四ヶ月経つ頃にはもう、一人で仕事ができるほどになっていた。

          ◆

 仕事の傍ら、僕は何度も大きな街へ出かけた。選考試験があったからだ。
 書類審査をパスしても、知力検査や体力測定、環境適応特性調査、対人交流能力テストなど、様々な種類の試験が控えていた。休日を潰したり、有給休暇を消化したりして、僕はそれらの試験に臨んだ。そして一つずつ、着実にパスしていった。緊張したし、完璧に全てをこなせたわけではないけれど、なんとか基準には到達できていたのだろう。
 そして応募から半年。
 最終試験にパスした僕は、晴れて地上行きのメンバーに選ばれた。

          2

 最終試験の結果が出た次の日は、シアンが始めて一人で車掌を務める日だった。
 僕は帽子を深く被り、バレないようにシアンの動かす深海鉄道に乗り込む。もちろん仕事だからだ。何か事故が起こって、そのときシアンがパニックに陥った場合、僕が出て行くことになる。つまり、はじめてのお使いを見守る父親役だ。何もなければ何もないで、よくやったね、と褒めに行く務めがある。
 シアンはノーミスではなかった。
 ブレーキが遅かったり、アナウンスを間違えたり、集中が途切れたのかぼーっとしたりしていたのだ。でもその度に自分で頬を叩いていた。気合を入れ直していたのだろう。それが良かったのか、大きなトラブルは一つも起こらなかった。
 そうして一日が終わる。
 最終運行を終えた機関車の中で、僕が客車のボックス席に座っていると、シアンが声をかけに来た。
「申し訳ありませんお客様、当列車は……あ」
「やあ。一日、お疲れ様」
 僕を見たシアンは、一瞬、なんだか泣きそうな顔をした。でもすぐに、元のように表情を引き締める。出発しますね、と言ってシアンは客車を出て行った。
 深海鉄道が動き出す。
 客車は静かだ。エンジンの音だけが聞こえる。しばらくしてシアンが戻ってきた。そして僕の斜め前に腰を下ろす。
「緊張しました」
「最初は、誰だってそうだよ」
「先輩の顔を見たとき、私、すごく安心したんです。泣きそうなぐらい」
「だけど、泣かなかった。よく頑張ったね」
 僕は笑いかける。けれども、シアンはまた泣きそうな顔になった。
「私はもう、先輩の指導を受けられないんですか?」
 客車の鉄板が、エンジンの振動で軋む。
 答える前に、僕はどうしても気になったので、指摘することにした。
「シアン、鼻毛が出てる」
「え!?」
 顔を真っ赤にして、シアンは鼻に手をやった。そのまま素早く立ち上がり、奥のトイレへと駆けていく。
 三分後にシアンは戻ってきた。飛び出していた毛はなくなっている。でも頬は赤いままだった。
「確かに、出てました。その、鼻毛が」
「うん」
「うぅ……いつから?」
「僕が、一日お疲れ様って言ったときには、もう出てた」
「早く言ってください!」
「ごめん」
「どうしてあのタイミングで、ああ、もう……」
 両手を顔に当ててシアンは呻く。僕は質問に答えた。
「もう君の指導は出来ない。僕は辞職することにしたんだ」
 シアンが顔を上げる。両目が大きく開かれていて、綺麗な碧眼がよく見えた。
 僕は言葉を続ける。
「海理研の地上調査プロジェクトへ参加申請したって、前に話しただろう? 昨日結果が届いて、僕は地上行きのメンバーに選ばれたんだ」
「でも、あれ、すごい倍率だって」
「すごかったよ。でも、選ばれたんだ」
「そんな……」
「すぐに辞めるわけじゃないよ。引き継ぎとか、色々あるから。でもそんなに長くは居ない。だからたぶん、僕が君の指導に当たることは、もうないと思う」
 機関車が揺れる。シアンの表情も、複雑に揺れていた。
 沈黙を嫌うかのように、シアンの指輪が赤く光る。運転席の機械が発信した、煤煙玉を作れという合図だ。僕が促すよりも早くシアンは立ち上がって、運転席へ駆けていく。
 戻ってきたときには、もうシアンの表情は揺れていなかった。
「帰ってきますか?」
 問いかける声は、硝子みたいに透明。
「分からない。帰って来られない可能性もある」
「帰ってきてください」
 今度の声は色付いていた。その頬も、声と同じ色に染まる。
「約束してください。帰ってくるって」
「できないよ」
「意地悪です」
「そうかな」
 シアンは再び唇を引き結んだ。僕は背もたれに身体を預ける。
「ごはんを食べに行こう。奢るよ。一人で車掌を務めたお祝いに。ソースクレープ屋以外なら、どんなお店でもいいよ」
「どうして、ソースクレープは駄目なんですか?」
「僕はそれしか作れないから、毎日そればかり食べているんだ。たまの外食ぐらい、違うものを食べたい」
「そうですか」
 呟いて、シアンは斜め前の席に腰掛ける。
「私は料理、上手ですよ。得意なんです。それも、物凄く」
「へえ。食べてみたいな」
 僕が応じると、シアンは笑顔を向けてくれた。
「先輩が帰ってきたら、私、度肝を抜くような料理を作りますから、楽しみにしていてください」
 その笑顔は瞳と同じ青色をしていて、僕は少しだけ切なくなる。

          ◆

 上司が融通を利かせてくれたので、僕は届けを出してから一週間で退職できた。
 物を溜め込む性分ではないので引っ越しは楽だ。旅行鞄一つに衣類や生活用品をまとめて、入りきらない物は処分した。
 地上行きのメンバーは総勢十二人だ。
 その全員が寮で生活することになっている。これは強制ではないのだけれど、たまたま全員、住まいが遠かったらしい。
 部屋は二人で一つだ。施設に居た頃もそうだったから、共同生活に心配はなかった。しかも今回は施設と違って、狭い海中船で他人と寝食を共にできる、という前提で集った十二人なのだ。上手くやっていけるだろう。
 そしてこの予想は当たった。
「よう。俺は辻堂イェロ、元TSFだ。これからよろしく」
 同居人のイェロは優しい男だった。例えば二人で休日に街へ出たとき、腰を痛めて買い物を続けられなくなった老人に出会ったことがある。イェロは戦艦みたいに巨大な身体で軽々と老人を担ぐと、一日かけて買い物の手伝いをした。
「爺ちゃん喜んでたな。ああ、付き合ってくれてありがとう。今度埋め合わせする」
「いや、いいよ。どうせ僕は暇だったから」
「そうか、悪いな。いやあ良かったよ」
 自分の休日が潰れたというのに、イェロは満面の笑みを浮かべていた。
 そんな例は枚挙に暇が無い。だからイェロは当然のように僕らのリーダーになった。そんなイェロとの同居生活を、僕は楽しんだ。
「イェロはどうして地上行きを志願したの?」
 夜、二段ベッドの下で寝るイェロに、僕は問いかけたことがある。
「見たことのないものを見たかったからさ。おまえは?」
「似た理由だよ。美しい世界を見たかったんだ。でも、意外だな。イェロは世のため人のために志願したのかと思ってた」
「まさか、そんな大層な人間じゃねえよ」
 イェロは苦笑して、それから言った。
「誰かのために頑張るときもあるけど、それは笑顔がみたいからだ。まだ見たことのない、最高の表情をな。俺はいつだって自分本位だぜ」

          ◆

 準備と訓練に明け暮れた半年は、一瞬で過ぎた。
 選抜された十二人はそれぞれが異なる来歴を持っている。だから地上へ向かうにあたり、乗組員にはそれぞれに応じた役割が与えられた。例えば僕は運転士、イェロは現場指揮官に任命されている。僕たちは各々の仕事を確実にこなせるよう、責任を持って訓練に励んだ。
 並行して海中船の調整、探索機器の小型化、携行食糧の多様化なども進められた。これらは僕らが選抜されるより前から進行していたものがほとんどで、つまり数十年の歳月をかけた準備の詰めの部分だ。あらゆる事態を想定し、万難を排した状態で地上へ迎えるよう、海理研の研究者が中心となって作業は進んだ。
 そしてメンバー決定から一年後。
 多数のメディアに囲まれ、研究者たちの期待の眼差しを背に、僕ら十二人を乗せた海中船は、地上へ向けて発進した。
 想定外の事態が発生したのは、出発から一時間半後のことだ。

          3

 最初に反圧装置の停止を知ったのは僕だった。
 深海の水圧は凄まじい。例えば僕が街の外、つまり水深四千メートルの世界に生身で放り出された場合、おそらく十秒と保たずに死亡する。周囲の水の圧力によって身体が潰されるからだ。
 半透トンネルや街の内部は、かつての高度な科学文明が残してくれた遺産によって守られており、一気圧に保たれている。
 けれども海中船はその保護区域から外へ出なければいけない。そこは四百気圧を超える世界だ。そのため海中船は非常に頑丈な作りとなっている。しかし無人実験を行った結果、それ単体で水深四千メートルの水圧に耐えられる海中船は作れなかった。
 そこで考案されたのが反圧装置の改良だ。
 構造の強度だけでは耐えられないならば、そもそも圧力自体を軽減すればいい。反圧装置はそうした発想に基づいて製作され、既に実用化もされている。しかし今回用いる大型船に使えるような反圧装置は、どこも製造していなかった。
 よって大型船にも使える反圧装置を海理研は試作。実験を重ね、実用に耐えうると判断されて、今回実装された。
 そして成果を上げたのだ。
 海中船は潰れることなく街の外へ進行。地上への上昇を開始した。
 通信機の向こうでは喝采の声を上げる研究者たちの声が聞こえ、僕ら乗組員もほっと胸を撫で下ろし、そしてそれから一時間半後。
 水深五百メートル地点で、反圧装置は停止した。

          ◆

 息を吐いて、それから吸って、対応を考える。
 まず気になったのは海中船の安否だ。水圧によって潰れることはないか。これは大丈夫だった。なにしろもう装置が止まっているのに、海中船には何の不具合も生じていない。五十気圧程度の圧力ならば、この海中船は反圧装置なしでも耐えられるのだろう。急いで修理する必要はなさそうだった。
 僕はすぐさまイェロに異常を報告した。
「緊急性がないなら、皆に告げるのは地上に着いてからだ。それまでは往路のことだけ考えよう」
 当然だけれど、帰りはまた水深四千メートルまで潜ることになる。だから反圧装置は必ず修理しなくてはならない。
 問題は、直るかどうかだ。
 直らない場合、海中船が深海の水圧に耐えられない以上、僕らに復路は存在しない。

          ◆

 出発から二時間後、僕らは海上に到達した。
 そこから更に一時間かけて付近の陸地へ向かう。その間、さらに二つの異常事態が生じた。
「イェロ、通信機が壊れた。何度呼びかけても深海からの応答がない」
 通信係のグリンが声を上げる。修理は陸地に着いてからだ、とイェロは応じた。
 もう一つの異常事態は、どちらかといえばプラスの事柄だ。
「ねえ……見て、このデータ」
 海中船に窓はない。あると水圧に弱くなるからだ。よって周囲の状況を知る術は機器によるデータ収集しかないのだけれど、その収集係であるブルは目を丸くしていた。
「無人機のデータとは全然違うわ。大気の構成元素のとこ」
「これは……故障の可能性は?」
「ないわ。見てこっちの欄、同時に船内の大気も観測してるの。同じ機器でよ。つまりこの結果は正しいの」
 ブルから受け取った紙を見ながら、イェロは震えた声で皆に言った。
「聞いてくれ。地上の環境は、当初の予想よりずっと清潔だった。この船内よりも、遙かに健康的な環境だ。つまり、防護服を着る必要がない」

          ◆

 着る必要がないとはいえ、それは数値上の話だ。それはよかった、と無防備に外へ飛び出せるかは、また別の話になる。勇気と無謀の話だ。
「俺は生身でいこうと思う」
 イェロは言う。僕らは止めた。あまりに危険すぎる。
「数値上は何の問題もないんだ。だから、いつかは誰かがやらなきゃいけない。そういう仕事だからな。そして、やるとしたら俺だ。リーダーってのはそういうもんだろ?」
 気迫のこもった言葉だった。イェロは覚悟を決めている。僕らは反論をやめた。
「ブル、周囲の状況は?」
「砂地の地面。海岸、ってやつよ。いくつかの生物反応がある。でも巨大な生き物は居ないわ。雨は降ってなくて、時間は夜。雲がなければ、星が見えるはずよ」
「分かった。グリン、通信機は?」
「使える。途絶えているのは海底とだけで、あとは大丈夫だ」
「よし。それじゃ、行ってくるぜ」
 扉は二枚式になっている。僕らはそれぞれイェロとハグし、その背を見送った。
「開けるわ」
 ブルは言い、その言葉から十秒後、ようやくスイッチを押した。
 嫌な沈黙が続く。イェロからの通信はない。そのまま二分が経った。僕らは不安を抱き始める。イェロの生体反応はまだ検知されていた。まだ生きている。五分が経った。なぜ通信が入らない?
「こちらから声をかけてみよう」
 僕が言い、グリンは頷く。
 しかし直後、イェロから通信が入った。
「よう。すげえぞ、これは」
 その声は、子供みたいに澄んでいた。

          ◆

 戻ってきたイェロは一言、直に見たほうがいい、とだけ言った。
 身体検査の結果、イェロの身体に異常はなし。遅効性の毒の存在、放射線の影響、そういったものは一切検出されなかった。その結果を受けて、僕らは全員、生身で地面を踏むことを選んだ。
 そして、イェロがなぜ外の様子を言葉にしなかったのか、その理由を悟った。
「うおぉ……こいつは、たまげたな」
 パプルが感嘆の声を上げた。イェロは微笑み、僕以外の残り九人は息を呑んでいた。
 頭上には、砕いた宝石を散りばめたような空がある。
 美しいという言葉では足りなかった。押し寄せるようなその光に、誰もがただ、頭上を見上げて立ち尽くす。
 その中で、きっと僕だけが、冷めた気持ちで星を眺めていた。
 夢にまで見た広い世界。けれどもなぜだろう、目に映る世界は、期待していたほどの感動をもたらしてはくれなかった。

          ◆

 その夜、イェロは反圧装置が停止した件を皆に告げ、翌朝から僕はマゼンタと共にその修理に着手した。
 しかし反圧装置を解体しても、どこにも異常が見当たらない。試しに再度反圧装置を起動させたところ、問題なく動作した。
 では、なぜあのとき反圧装置は止まったのか?
 原因不明の機能不全。これは最悪の事態だった。
 大型船用の反圧装置が実用に耐えうるという大前提が、間違っていたことを示すからだ。

          ◆

「つまり?」
「停止した原因が不明である以上、反圧装置を完全にコントロールすることはできない。だから……」
 イェロがマゼンタを横目に見る。マゼンタは言葉を継いだ。
「前回はたまたま、船の強度で耐えられる水深五百メートル地点で装置が止まった。でも、もしも水深四千メートル地点で止まった場合、この海中船は二分と保たない。三分後には、ボクらはみんな圧死してしまう」
 重たい沈黙が船内に降りる。しばらくしてから、パプルが口を開いた。
「海底と交信して、上手いこと連携を取るってのは?」
「通信が復旧しないんだ」
 応じたのはグリンだった。
「電波障害が起きてるらしい。原因は不明だ」
「万事休すか」
 ディゴが静かに言う。マゼンタは首を横に振った。
「反圧装置が問題なく動作する可能性もある。止まるかもしれないし、止まらないかもしれない。分からないんだ。上手くいけば帰れる」
「確率は?」
 ラックが聞く。少しの間を置いて、マゼンタは答えた。
「五分五分だよ」

          4

 夢を見た。まだ車掌だった頃の夢だ。
 僕は一日の仕事を終えて、機関車を車庫に向けて発進させた。一息つこうと客車に向かうと、そこにはシアンが居る。
「先輩、マリンスノウですよ」
 窓の外を見ながら、シアンは嬉しそうに言う。
「そう」
 僕はシアンの斜め前に腰掛けた。窓の外には、目を向けない。
「綺麗ですよ。箒みたいなのもあります」
「へえ」
「先輩は見ないんですか?」
「うん。見慣れてしまったから」
 飽きてしまって、もう美しいとは思えない。言外に、そんな響きを滲ませた。
 シアンは僕から窓の外へと視線を戻して、
「デトリタスって、知ってますか?」
 静かな声で、僕に問うた。

          ◆

 地上の環境は深海より遙かに良かった。
 多種多様な動植物、広大な土地、豊富な酸素、潤沢な水資源。果実を食べ、動物を狩り、簡単な住居を作れば、きっと寿命で死ぬまで何一つ不自由なく暮らしていける。
「最低二人居れば海中船は動く。もし十一対一になったら、そのときは話し合いだ。だからひとまずは、自分の意思で決めてくれ」
 調査期間の予定は一週間。それに合わせて、調整のための一日を残した六日目の夜に、それぞれが意思表示を行うと決まった。
「地上に残るか、海底に帰るか」
 イェロはそう告げ、同時に期限までは予定通り調査を行うよう指示を出した。
 やることは山ほどある。それが良かった。きっと深く考えすぎたら、誰かがおかしくなっていただろう。けれども調査をこなし、あえて考える時間を減らすことで、全員が正気を保ったまま期日を迎えた。
「始めようか。帰る人は挙手してくれ」
 手を上げた人数を、僕は咄嗟に数えた。
 イェロ、ブル、ラック、ペール。四人。半数未満だ。
「四人だけ……?」
 ブルの唇が震える。その口からさらに言葉が出ようとし、
「やめろ」
 イェロが、強い語調でそれを止めた。
「これは個人の問題だ。口出しはするな」
 ブルは唇を食いしばり、それから俯いた。
 一度息を吐いて、イェロが全員を見る。
「確認のために、もう一方も聞こうか。残る人は挙手してくれ」
 さっき手を上げなかった面々が、それぞれの速度で手を上げる。
 僕も自分の手を上げようとして、

〝先輩は見ないんですか?〟

 直後、身体は固まった。
「おまえはどっちだ?」
 柔らかな声で、イェロが僕に尋ねる。
「帰る方だよ」
 どうしてか、僕はそう答えていた。

          ◆

 僕以外の人も、もしも意見を変えたならいつでも帰る側に来て構わない。イェロはそう言ってから皆を解散させた。
 砂浜に腰掛けて、一人で星を見上げる。
 美しい世界が見たい。その夢は叶った。こんなに綺麗な空は見たことがない。でも心は満たされなかった。だから、もっと美しいものを探そうと、地上に残るつもりでいた。帰れない覚悟は出来ていたし、帰る約束もしなかったから。
 でも、僕は帰ることを選んだ。
「よう」
 イェロが僕の隣に腰掛ける。僕は尋ねた。
「どうしてイェロは帰ることにしたの?」
「おまえが帰ると思ったからさ」
 それは迷いのない即答だった。
「皆が星を見て圧倒されてるのに、おまえだけが違った。だから、俺は見てみたくなったのさ。おまえが感動に打ち震えるところをな」
 にやりと笑って、イェロが僕を見る。
 僕は続けて尋ねた。
「どうして僕は帰ることにしたの?」
 この問いかけにも、イェロは即答した。
「その答えを、おまえはきっと知ってるぜ」

          ◆

 僕以外に意見を変えた人は居なかった。
 七日目は五人で海中船を動かすための役割分担を決めて、あとはじっくりと休み、迎えた八日目の朝。僕らは残る仲間と抱擁を交わして、地上を後にした。
 水深五百メートルまでは安全が保証されている。だからそこまでは反圧装置を作動させない。問題はそこから先だ。
 事前実験によって、動作可能時間は一日以上であるとデータが取れている。けれども考えられる唯一の停止原因が動作可能時間の超過なのだ。だから、盲目的にそれが原因だと信じるしかない。
「水深五百メートル突破」
 ブルが報告する。僕は額の汗を拭った。
 ここから先はチキンレースだ。
「六百突破」
 意識を集中させる。船体と同化するイメージ。
「七百五十」
 きしりと、どこかが軋んだ気がした。
 僕は反圧装置を作動させる。動作を示す緑のランプが点灯した。
「反圧装置、正しく動作しています」
 ブルが声を上げ、僕は肩の力を抜いた。
 あとはただ潜るだけ。出来ることといえば、祈ることくらいだ。
「ところで、皆は性格の悪い美形と性格のいいブスだったらどっち派?」
 唐突に、イェロが脈絡のない話を持ち出す。なに言ってるのさ、と突っ込んでから、僕らはその話題に乗っかった。
 なんの役にも立たない、くだらない話だ。水深三千メートルを過ぎるまで、僕らはそんな話をし続けた。
 三千五百を過ぎたところで、誰も何も言わなくなる。
 僕らは緑色の動作ランプを、一心に見つめていた。
「あと百メートル……」
 震える声でブルが言う。
「九十……八十……お願い……!」
 動作ランプが消えたのはそのときだった。

          ◆

 内臓が潰れるように痛んだ。
 次に見えたのは迫ってくる操縦桿。僕は真横に蹴り飛ばされた。イェロの足だ。それが金属の間に挟まって千切れるのが見えた。
 背後の壁に後頭部を殴られる。
 一瞬で視界は混濁した。赤色と鉛色が混ざり合って歪む。倒れると床は水浸しだった。口内に海水が流れ込む。
 身体が動かない。胃がひどく痛む。上手く息が出来ない。
 それらの感覚も、やがて消える。
 あたりには何も無い。深海と同じ黒。そこに僕だけが浮いている。
 寂しいと、久しぶりに思った。
「そうか。僕は、死ぬのか」
 そして、意識が途絶えた。

          ◆

「デトリタスは、マリンスノウの正体です」
 シアンはそう言って、再び僕を見た。
「生物の死骸や排泄物、そこに繁殖した微生物のまとまりのことを、デトリタスっていうんです。それが目に見えるくらい大きくなって、マリンスノウになります」
「博識だね」
「趣味で調べたんです」
 胸をはって、シアンは鼻から息を吐いた。
「そしてですね、デトリタスは光りません」
「光らない?」
「はい。でも真っ暗闇の深海で、私たちはマリンスノウを見ることが出来ます。なぜでしょう?」
「……分かった。機関車の明かりだ」
「正解です」
 目を細めて、シアンは微笑む。
「実を言うと、発光するバクテリアが付着すれば、デトリタスも光ります。でもそのバクテリアも、外的刺激を受けないと光らない」
 シアンの視線が窓の外を向く。
「マリンスノウは、私たちが照らすから見つかるんです。それってなんだか、素敵じゃないですか」
 僕は気になったので、シアンの横顔を見ながら言った。
「シアン、寝癖がはねてる」
「えっ!?」
 慌てて頭を押さえると、顔を真っ赤にしてシアンは席を立った。そしてトイレの方へと走り去る。
 一人残された僕はどうしてか、頑なに窓の外を見なかった。
 美しい世界を見るために、僕は命がけで地上へ向かう。
 でも、本当に美しいものは、照らしさえすればどこにだって――

          5

 目を覚ますと身体中が痛かった。
 消毒液のにおいと、柔らかなシーツ。ベッドに沈み込んだままで、僕は記憶を辿る。そして五秒後、全てを思い出した。
「起きたか」
 イェロの声。僕は軋む身体を起こす。
 隣のベッドに腰かけて、イェロは新聞を開いていた。その右足は膝から下がない。
「生き残れたぜ」
 新聞を閉じて、イェロが僕を見る。
「通信機、受信は駄目だったが、送信は出来ていたみたいだ。こっちの状態を知って、海理研が救出準備をしてくれていた。運が良かったよ」
「他のメンバーは?」
「全員生きてる。俺以外は皆、五体満足だ」
「僕を庇わなければ、イェロも五体満足だった」
「でも代わりにおまえは死んでた」
 イェロはにやりと笑う。
「なら足の一本ぐらい、安いもんだ」
 その笑顔に、僕の心は震えた。
「ありがとう」
「おうよ」
 軽い調子で応じて、イェロは開いた窓へと視線を移す。
 そのとき、僕はベッド脇の小机にある置物に気付いた。
 Nゲージの鉄道模型。僕の乗っていた機関車と、同型のもの。
「その模型は、見舞いに来た後輩が置いて行ったよ」
 外へ視線を向けたまま、イェロは言う。
「君の後輩?」
「いいや、おまえの後輩だ。青い目をした……出てきた、あの子だよ」
 イェロが外を指さす。僕は立ち上がり、窓辺に近づいた。
 病院の正面入り口が見下ろせる。そして、今まさに帰ろうとしている、凛とした後ろ姿が目に入った。
「シアン!」
 呼び止めるために、僕は大声を出す。
 シアンは振り向いた。視線が交わる。次の瞬間、シアンは駆け足でこちらに引き返した。
 僕は早足で病室を出る。転ぶなよ、と茶化すようにイェロが言った。
 院内の間取りが分からなくて、病室を出た直後に立ちつくす。でもその十秒後には、廊下の端にシアンが現れた。
 切らした息を整えるように、シアンはそこで立ち止まる。僕と目を合わせ、何かを言おうとして、でも言葉は出なかった。それより先に顔をくしゃくしゃにしたのだ。
 だから、僕は言った。
「帰ってきたよ。君の料理を食べてみたかったから」
 シアンは唇を噛んで、俯いて、それからまた顔を上げる。サファイヤみたいな青い目が、どんな空より綺麗だった。
 僕は両手を広げる。シアンはすごい速さで駆けてきて、僕の胸に飛び込んだ。
 その身体をしっかりと抱き留める。
 鍛えていてよかったと、僕は思った。

          ◆

 車掌の仕事が慣れるまではきついことを、僕は久々に実感した。
 決められた区間を決められた速度で、決められた作業を行いながら、人と貨物を移送する。真っ暗な深海で一人、黙々とこれの繰り返しだ。決して楽とは言えない。初めて車掌に就任したときのことを、よく思い出した。
 でも、抱く感想はかつてとは違うものだ。
 ありがとうと言ってくれた、もう一度会えるかは分からない乗客。稀に起こるハプニング、改装の始まった駅舎、定年を迎えて退職した上司。
 同じだと思っていたのに、ふと寂しくなる瞬間が増えていく。
 マリンスノウを、飽きもせず眺めるようになった。
 雪はどれも同じようでいて、よく見ると一つ一つ違っている。それらが海底に積もるのを、車庫への道すがらぼんやり眺めるのが、仕事中で一番好きな時間だ。
 車庫が近づいてくると、僕の住む街の明かりが目に入る。
 色違いのマリンスノウみたいなその光を見ながら、今夜の晩ご飯は何だろうと想像するのは、とても素敵なことだった。

          ◆

 深海鉄道の車掌に再就任して、じき三ヶ月。
 僕はこの仕事が気に入っている。