結婚祝いに、同期から天然木のまな板をもらった。わたしが所望した品だ。
 実家が木のまな板だったので、なんとなくプラスチックのまな板に抵抗があり、ずっと木製のものが欲しかったのだが、値段が高くて買うタイミングを逃していたのだ。それを同期がくれるという。結婚するのもいいものだな、と思った。
 サイズは結構大きい。具体的には四二〇×二四〇×三〇ミリメートルである。これはシンクの手前側のへりと奥側のへりの間の長さと一致しており、そのためシンク上に橋をかけるようにしてまな板を利用できる。つまりキッチンの中央、調理スペースに、まな板を置く必要がない。代わりにボウルやトレイを置けるわけで、極めて便利だ。また、厚みがあるので曲がったりたわんだりせず、シンクのへりにしか乗っていなくても、安心して食材を切ることができる。
 わたしはすぐにこのまな板が気に入った。

 しかし問題もあった。
 天然木でできているが故に、このまな板は原則、水洗いしかできないのである。中性洗剤は使用不可だ。木が傷んでしまうらしい。
 正式な洗い方は、水をかけ、まな板専用のたわしでこする、というもの。じつにシンプルだ。木自体に殺菌作用があるため、表面の汚れを落としておけばそれだけで大丈夫らしい。汚れがひどいときは粗塩をまぶしてたわしでこすれとのこと。
 仕方ないことではあるのだろうが、これには困った。なにしろ調理の過程で生じる洗い物は大半、油やたれにまみれているので、中性洗剤をつけたスポンジでがしがし洗うのである。欲をいえばまな板もそのままの流れでがしがし洗いたい。だが正しい洗い方に則るならば、そのタイミングで一度スポンジを置き、手を洗い、拭き、まな板をシンクの底に置いて、粗塩をまぶし、専用のたわしで擦る必要があるのだ。じつに面倒くさい。
 だが愛するまな板である。同期がくれたまな板である。天然木である。正確にはヒノキだ。大切に扱わねばならない。
 横着したい気持ちはあれど、わたしは愛を持ってまな板に接し、専用のたわしと粗塩で擦り続けた。

 けれどもある日、考え事をしながら洗い物をしていたら、ついにやってしまった。
 中性洗剤でまな板を洗ってしまったのである。
 気付いたときにはもう遅かった。まな板の表面は泡で真っ白だった。「あっ、あーっ!」と思わず叫んだ。
 慌てて水で洗い流し、まな板立てに立てかけ、表面の様子を観察する。
 痛んでいる様子はない。表面が荒れていることもない。問題なさそうだった。継続的な中性洗剤の使用がよくないだけで、うっかり一回ぐらいなら大丈夫なのだろう。わたしは胸をなで下ろした。
 そこで、ふと思い出す。
 そういえば、実家の木のまな板、たわしで洗っていた記憶がない……いつも中性洗剤でがしがし洗っていたような……。
 実家では洗い物をちっとも手伝わなかった親不孝者のわたしである。まな板をどう洗っていたのか、電話で母に確認した。
「あぁん? 洗剤でがっつり洗ってるよ」
 ということだった。わたしは改めてまな板を見る。いい感じにつき始めた表面の傷については、水洗いだけのときよりも綺麗になっている気さえした。
 実家のまな板が傷んでいた記憶はない。使ったこともあまりないので定かではないが、母は二十年近くあのまな板を使い続けているし、使用上問題ないことは確かだ。
 それがわかると、駄目なわたしは途端に横着をし始めた。
 木のまな板も中性洗剤でがしがしと洗う。洗い物がじつに楽になった。スポンジとは別に保存しないと、と目線の高さにいつもぶら下がっていて邪魔だったたわしも、不要になったので棚の奥にしまい込んだ。
 見た目も手順もすっきりして、わたしの厨房生活はすこぶる快適になった。

 それからしばらくして、わたしはまな板の変化に気付いた。
「なんだろうこれ……染み?」
 まな板の表面に、うっすらと黒い染みが生じているのである。染みは複数あり、横一列に並んでいて、どれも十円玉くらいの大きさだった。
 野菜の汁かな、と思うだけで、そのときは特に何もしなかったのだが、思えばこのときにはもうまな板はわたしに語りかけていたのだ。

 その少し後、まな板をくれた同期が、突然会社に来なくなった。
 訊けば原因不明の全身の痛みで動くのもつらいのだという。見舞いに応じるのもしんどいということで、わたしには彼の復調を祈る他なかった。
 まな板の染みはどんどん濃くなっていった。

 その数日後、洗い終わったまな板を眺めながら、この染みはどうするかなあと首をひねっていたとき、ついにわたしは気付いてしまった。
 まな板の染みが、文字の形をしていることに。
〝おまえ、せんざい……〟
 と読めた。明らかにそういう形の染みだった。
 思わずわたしはまな板を放り投げた。まな板はシンクに落下し、バウンドして、鈍い音を響かせた。
 おそろしかった。こんなことがあっていいのか、と思った。というか本当にあるのか? と首をひねった。まな板を改めて手に取り、染みを確認した。やはり書いてある。〝おまえ、せんざい……〟と読める。そうとしか読めない。改めて見てみると、不思議ではあるが先ほどのような恐怖はなかった。世の中、大抵の怖いものはそうしたものである。貞子だってよく見ると美人だ。
 文字はそれだけではなかった。
〝おまえ、せんざい……〟の最後のほう、まだ具体的な文字の形をしていないので読めないが、文字っぽい染みがいくつかある。
 ちょうどそのとき、同期から電話がかかってきた。
「もしもし」
「おまえか……あのな、俺……るよ、もう……いたい……」
「なに? 電波が悪くて。もしもし?」
 電話は切れた。最後に聞こえた言葉は「いたい」だった。おそろしさが蘇る。
 わたしは彼がくれたまな板を見る。
 呪いなのだろうか。愚かにも中性洗剤で天然木のまな板をごしごしと洗ったために、まな板の怒りに触れてしまったのだろうか。
 幸いにもこれは厚みのあるまな板なので、表面をかんなで削ることで新品同様の状態に戻すことができる。中性洗剤で傷んだかもしれない表面は綺麗にできるし、その過程で浮かび上がった文字の染みも消せる。やり直せるのだ。
 だがわたしはこうも思った。
 まだ浮かび上がっていない文字がある。つまりわたしはまだまな板の怒りを(仮に怒っているとしたら)正確に把握していないのだ。
 この状態で表面をそぎ落とすことは、果たしてまな板に対する正しい向き合い方なのだろうか。「怒られてるっぽいから、よくわかんねえけど、とりま謝るっすわ。さーせん」みたいな感じにならないだろうか。
 いや、なる。

 わたしはまな板に浮かび上がるすべての文字を読まなくてはならない。
 そのためには中性洗剤でがしがしと洗う必要がある。
 危険もあった。もし同期がまな板の呪いで苦しんでいるとしたら、まな板を中性洗剤で洗えば洗うほど、同期の苦痛が増すことになるのだ。最悪の結末も考えられた。
 わたしは頭に手ぬぐいを巻いた。
 厨房にはまな板とスポンジ、そして中性洗剤。加えて緊急用のかんな。同期には「死にそうなほどきつくなったら電話を鳴らせ」とラインで伝えてあり、既読表示が出たことを確認している。
 準備は整った。
 水をシンクの外に跳ねない程度の水圧で出し、わたしは一心不乱に、中性洗剤を含ませたスポンジでまな板を擦った。擦り続けた。
 一時間が過ぎた頃、ようやくわたしは、すべての文字を確認した。
 こう書いてあった。

「おまえ、せんざい、じょい?」

 原文ママである。ちなみに我が家の洗剤はジョイではない。キュキュッとだ。
「違うよ」
 とわたしはまな板に語りかけ、対話は済んだので表面をかんながけして綺麗にした。
 後日、同期は元気になって会社に出てきた。骨盤のゆがみによって全身に痛みが出ていたのだという。整体に通うことで治ったとのこと。わたしの聞いた「いたい」は「せいたい」のうしろ三文字だったようだ。無論、呪いではなく、長時間のデスクワークによるものである。わたしも予防のため、同じ整体に通うことにした。

 いまは初心に戻って、まな板を水で、専用のたわしと粗塩を用いて洗っている。