猫が目を覚ますと、森の中だった。
 鬱蒼と木々が茂っている。湿り気を帯びた空気は葉の合間から差し込む陽光で、じっとりとした白に染め上げられている。
 大きく欠伸をしてから身体を伸ばして、猫は身体に酸素を取り入れる。なんだか素敵な夢を見た気がするけれど思い出せない。もちろん、また素敵なことを探せばいいだけなので、思い出せないことを猫は気にしない。
 お腹は減り始めている。狩りをして獲物を捕らえる頃には、丁度いい空き具合になっているだろう。猫は餌を捕ることにした。
(鳥が食べたい気分だ)
 頭上では怪鳥の鳴き声が響いている。聞いたこともない恐ろしい声だ。
(鳥はやめにして、なにか他のものを食べよう)
 猫は怖じ気づいた。獲物を探すべく、ひとまずあたりの散策を始める。
 どの樹木も幹が太く、背が高い。倒木や岩は例外なく苔むしていて、霧の立ちこめた視界は幻想的だ。ここだけ時間が止まってしまったみたいに見える。一歩踏み出す度に地面の弾力が足に伝わる。瑞々しい感触に、猫は故郷の山を思い出した。
 緑の濃淡だけで構成された景色を進む。
 しばらく進むと、猫は奇妙な生き物を発見した。
 渦巻く海流のように、小さな羽虫が頭上を旋回している。見たこともない羽虫だ。発光していて、その色合いが絶えず変化している。緑青、鉄色、鶯茶、柳、抹茶、縹色、抹茶、群青、藍、浅黄。円を描いていた飛行も、八の字に、螺旋状に、じぐざぐに、色と連動して移り変わる。
 その飛行を、猫はしばらくの間、じっと見つめていた。
 しばらくそうした後で、猫は再び歩き出す。食べても大丈夫かどうかが分からなかったからだ。知らない生き物を食べるのは勇気が要る。
 進む度、森の中に住む様々な生き物を目にした。
 巨大な梟、真っ赤な蝙蝠、足のない蜘蛛、鈍色のカマキリ、苔を食むリス、オペラを歌う蛙。
 どこか遠い世界に訪れてしまったようだ。猫の知っている生き物とはまったく出会わないから、食べても平気な生き物が分からない。ここでの自分は無知の存在なのだ。所在なくて、猫は次第に悲しくなってきた。いよいよお腹が減ってきて、悲しみは段々増していく。
(お腹が減ると寂しさを思い出すんだ。これほどの不幸はないよ)
 うなだれながら猫は行く。
 そのとき、開けた場所に出た。
 あたりの木は伐採されていて、下草も刈られている。人工的に作られた広場のようだ。中央には白い家屋がある。煙突以外は木で出来ていて、ずいぶんと古びていた。
 家の窓は開いている。何か食べ物があるかもしれないと思って、猫は家屋に侵入した。
 埃の積もった部屋には、忘れ去られた命の香りがある。
 かつて誰かがここで暮らしていたこと。様々な出来事があったこと。大切なものも些細なものも記憶の彼方に消えてしまって、それでも残る何か温かなものがあること。朽ちかけた戸棚から、古びた机から、化石になったランプシェードから、そういった命の残り香を猫は嗅ぎ取る。
 ここに住んでいた人間はもう居ない。
 たとえ何か食べ物があっても、とても食べられはしないだろう。黴や虫に食い尽くされてしまっているか、そうでなくても猫の胃袋では耐えられないほど菌に侵されているはずだ。
 猫は顔を掻いて、床の上に丸くなる。
 何も食べなくても、水さえあれば数日は凌げる。夜には葉っぱに露が溜まるだろう。生き物も眠りに付くから、ひとまず今は眠って、夜にまた動き出そうと考えた。
 欠伸をして手に頭を乗せる。そのとき、おかしなことに気がついた。
(ここには誰も居ないのに、どうしてあたりの草は、つい最近刈られたみたいだったんだろう?)
 気になった瞬間、ぎしり、と床板が軋む音がした。
 反射的に立ち上がった猫は、音の方向に目をやる。そこに、ついさっきまで誰も居なかったはずの椅子に、一人の老人が座っていた。
 これまで何度かあったみたいに時間が飛んでしまったのかと猫は考えたけれど、どうもそうではないらしい。古ぼけた椅子や机は、同じように古ぼけたままだ。外の明るさも変わってないし、さっきの鳥が相変わらず怖い声で鳴いている。
 猫も世界も動いていない。するとこの老人は、煙みたいにそこへ現れたことになる。
(そんなことが出来る人間は、居ないはずだけれど)
 知らないうちに人間も変わってしまったのかな、と猫は首を捻る。
 老人は手にパンを持っていた。甘く、香ばしい匂いだ。パンは焼きたてなのだろう。ほんの一瞬前までは何一つここにはなかったのに。
 猫は机に飛び乗る。
 パンの表面にはクロテッドクリームがたっぷりと塗られていた。器に入った残りのクリームと、パン屑の残る平皿だけが机上にある。
 老人を上目に見ながら、猫はクリームの器に近づく。
(もらってもいい?)
 声を上げても、老人は猫を見もしない。ただ静かに食事を続けるだけだった。
 これは好都合だと猫はクリームを舐める。クロテッドクリームは大好きなのだ。最初に旅した国ではいつも食べていた。
 お腹がいっぱいになるまでクリームを舐めると、すぐに眠くなる。猫は欠伸をしながら机から飛び降りた。同時に老人が椅子から立ち上がる。
 遠くから鐘の音が聞こえた。
 澄んだ響きだ。幾度も繰り返し、その音は大気を揺らす。森中に響き渡るかのような音量だ。
 老人は手に付いたクリームを舐めながら家を出ていく。
 鐘の音は鳴り止まない。
 背中の毛がざわざわと逆立つのを、猫は感じ取る。
(この鐘の音は何だろう?)
 無視して眠ってはいけない気がして、猫も外に出た。
 草の刈られた広場。老人の姿はない。しかし広場の終わりに、草をかき分けて進んだ跡があった。
 また鐘が鳴る。
 音の在処は、自慢のとんがり耳によると、老人が進んだであろう方角と同じだった。
 出来たての獣道を進む。
 およそ二十秒に一度のペースで、鐘の音は鳴り続けていた。奇妙なことに、どれだけ猫が歩いても、鐘の音は響きが変わらなかった。高低も音量も変わらないから、音源までの距離感が掴めない。進む方角から響いていることだけははっきりと分かるのにそんな風なので、鐘の音は何か特別なものに感じられた。
 猫は何度も鐘の音を聞く内に、不思議な感覚に襲われる。
(ぼくはこの音を、もっとずっと昔に、聞いたことがある気がする)
 それは根拠のない、けれども確かな質量を帯びた実感だった。
 同時に思い起こすのは、柔らかな水の匂い。何かふわふわとした、幸せな思い出。誰か大切な人に、抱っこされているような。
 やがて猫は老人に追いつく。
 追いついたとき、老人は一人ではなかった。他にも何十人という老人がそこには居て、皆が一列に並んでいる。鬱蒼と茂る森の中、膝丈ほどもある草に囲まれながら整然と並ぶ老人たちの横顔は、どこかしら不可思議だ。
 猫は木に登って人々を見渡した。
 男女比は半々といったところだろうか。中には若い人物や子供も居る。人種も様々だ。
 鐘の音は鳴り止まない。猫は木から木へと飛び移って列の前方、つまり鐘の音が鳴っている方角へと、進んでいく。
 進めど進めど列は変わり映えしなかったけれど、しばらくすると大きな変化が生じた。人間が居なくなったのだ。しかし今度は代わりに鹿や熊といった動物が並んでいた。中には見たことのない種類の生き物も居る。
 休憩を挟みながら、猫は列の更なる前方へと進み続ける。
 動物の次には昆虫が並んでいて、その次にはさっきも見た鮮やかな羽虫たちのような、見覚えのない生き物が続いた。それも途切れると今度は光る靄のようなものが線上に宙を漂っていて、列を繋いでいた。
 鐘の音はまだ遠く、姿も形も見えない。
 けれどもさらに進んでいくと、奇妙なものを目にした。
 泉だ。いや、泉ではないかもしれない。なにしろそれは水ではないのだ。近づいて舐めたりしなくても猫の鼻にはそれが分かる。泉はとんでもない量のクリームで構成されていた
(いい匂い。美味しそうだ)
 木から飛び降りて、猫は泉に近づく。
 まるで呼吸をするように、液面は揺れていた。卵と牛乳と砂糖と薄力粉、それに少しのバニラエッセンス。それらで、それらだけで、出来ているはずのクリーム。
(なんだろう。なんだか、不思議)
 猫は首を傾げる。
 目の前のクリームからは、まるで生き物がそこに居るかのような確かさを感じた。
 正直、猫はちょっとだけ舐めてみたかった。クリームは大好きなのだ。でも、ここにある食べきれないほどのクリームは、なんだか食べてはいけないような気がした。
「おや。おぬし、迷い込んでしまったのか?」
 聞こえたのは、女性の声だった。
 あるいは女の子の声かもしれない。老婆の声にも聞こえたし、もしかしたら人間の声ではなかったかもしれない。とにかくそれは女性的な声だった。
 声の主の顔はよく見えない。逆光になっているせいだ。猫を上から覗き込んでいるその女性は、背後に強い光を背負っていた。
「まだおぬしは還らないぞ。おぬしの旅はまだ続くのだから」
 しゃがみこんで、女性が猫の額に触れる。
「微睡みがここに連れてきてしまったようだ。さあ、お戻り。まだおぬしを待っているものが居る」
 女性の言葉を聞いていると、猫は段々と眠くなってきた。
 地面に丸くなって、猫は頬を掻く。女性の声が鐘の音に似ていることが気になったけれど、そのことについて長く考えることは出来そうにない。欠伸が止まらないのだ。だから瞼を閉じたらすぐ、猫は眠りに落ちてしまった。