猫が目を覚ますと、埃っぽい風が喉を流れた。
 ドライフードから旨味と質量を取り除いたような空気だ。猫はげんなりする。潤いたっぷりの生き餌が好物なのだ。カリカリは嫌いじゃないけれど好きでもない。
 樹の上に居る。眠る前と場所が変わっていないぞ、と猫は一瞬だけ思ったけれど、ちゃんと目を開けてみると明らかに樹の種類が違った。傘みたいに上部が広がっていて、枝の表面はトゲトゲしている。確かアカシアとかいう種類だ。猫の故郷にも生えていた。
 興味本位で猫は枝の棘に触れる。
 ちくちくした。当然だ。しかしびっしりと生えているわけではないので、木登りに支障が出るほどではない。
(上り下りの邪魔にはならなさそうだ)
 そう猫が安心したとき、目の前に茶色い鼻先が現れる。
 ここは樹の上なのに鼻が出てくるなんてと猫は驚いたけれど、なんてことはない、それはキリンの鼻だった。長い首に茶の斑点、長い睫とつぶらな瞳、黄と茶の外皮で偶蹄類の、高血圧な気取り屋だ。トゲトゲした枝を気にする様子もなく、アカシアの葉を美味しそうに食べている。
(こんなの食べるんだ。変なの)
 猫に気付いていないのか、気付いているけどどうでもいいのか、キリンは黙々と葉を食む。
 その向こう側には他にも数頭のキリンが見えた。このキリンが属している群れだろう。乾いた大地に筋肉質の足を立て、それぞれが異なる方向を向いて、外敵を警戒しながら過ごしている。
 群れは全部でどれぐらい居るのだろうか。そういえばたくさんのキリンは見たことがないな、と猫は棘を避けながら樹を下る。
 降りながら気付いたのは、猫を気にせず葉っぱを食べていたキリンのお腹が、他のキリンよりもちょっぴり大きいことだった。
 景色が変わる。
 時刻は夜。月が明るい。猫の瞳孔が拡大する。周囲からは夜行性の動物たちが息づく気配を感じた。
 キリンの群れはいない。一頭だけ取り残されたのか、挙動不審なキリンが一頭だけ目の前に居た。
 奇妙なシルエットだ。キリンは尻尾が一本しかないはずなのに、お尻のあたりから何かもう一つ、だらりと出ている何かがある。
 目を凝らす。月明かりに照らされたそれを猫は視認した。
 子どものキリンだ。今まさに新たなキリンが生まれようとしている。だらりと出ているのは前足と頭部だった。羊膜を纏った白濁した姿は、命の誕生という神秘よりもむしろ呪術的な不気味さを連想させる。
 もうじき母親になろうというそのキリンは動かない。おそらく動けないのだろう。子どもキリンはかなりの体積を大気中に晒している。群れが外敵を恐れて去った後も、この母キリンだけは動けなかったようだ。
 直後、重力に手繰られて子どもキリンが全身を露わにした。
 べしゃりと音を立てて産み落とされる。衝撃は前足の蹄が吸っただろう。その落下で肺が目覚めたのか、子どもキリンは呼吸を始めた。母キリンは不要になった胎盤と羊水とを排出すると、労るように子どもの羊膜を舐め取る。しかし長いことそうはしなかった。すぐに子どもから離れると、母キリンは周囲を睥睨する。外敵の気配があるからだろう。
 初乳を求めて子どもキリンは立ち上がろうとする。
 しかし上手くはいかない。生まれたての脚は朽ち木みたいに細くて、自重を支えられずに震えていた。怯えるような起立と呆気ない転倒とが、幾度となく繰り返される。
 そこに現れたのは四頭のハイエナだった。
 樹上の猫がそれを視認すると同時、母キリンも身構える。
 通常ならば大型動物であるキリンをハイエナは狙わない。小柄な自身にとっては手に余る獲物だからだ。だからハイエナらの狙いが子どもキリンにあることは明白で、もちろん母キリンはそれを悟っていた。
 子どもキリンがまた自立に失敗し、朽ちた樹木みたいに倒れる。
 息を荒げたハイエナらの脚が強く地を蹴った。四方に分散し、それぞれが異なる角度から子どもキリンを目指す。
 母キリンの対応は早かった。
 後ろ脚が銃弾のように煌めき、一頭のハイエナを仕留める。次の瞬間には稲妻じみた機動力で跳び、もう一頭のハイエナを踏みつぶす。これを間近で見た残る二頭の内、一頭は脅威を覚えてか後ろに飛んで距離を取った。
 残る一頭が子どもキリンに迫る。牙が月光を反射した。
 しかしその鈍い灯りもすぐ消える。
 子犬のような悲鳴を上げて、ハイエナが子どもキリンの前から弾き飛んだ。その長躯ゆえに最高速度こそ優れているものの加速力に乏しいはずのキリンだけれど、その定説を覆すように、母キリンは驚異的な俊敏さを発揮したのだ。
 けれども代償は重い。
 退いていたハイエナが背後から母キリンに襲いかかり、その脇腹に牙を立てたのだ。
 二つの影はもつれ合って崩れ落ちる。獰猛な呻き声。夜に血のにおいが混ざった。月明かりが妖艶さを帯び、背筋が凍るほど淫らに光る。
 不吉な予感に猫は縮こまった。
 けれどもこの予感はすぐに裏切られる。宙へ射出されるロケットのように、最後のハイエナも母キリンに蹴り飛ばされたのだ。
 藻掻きに藻掻いて隙を生み出したのだろう。脳が軋むほどの苦痛の中にあっても、母キリンは幽かな生への可能性を決して見逃さなかった。動けない子どもを守りながら、四頭ものハイエナを相手に、たった一頭で勝利を毟り取ったのだ。
 その原動力はどこから生まれたものだろうか。
 二十分後、子どもキリンが自立に成功した。覚束ないながらも確かな自信を滲ませた足取りで母キリンに近づき、子どもキリンは初乳を吸う。それを見守る母キリンの全身は慈愛の雰囲気に溢れていて、先の勝利がどこから生まれたものであるかを雄弁に語っていた。
 羊膜を全て払ってからも、母キリンはしきりに子どもキリンの首を舐める。それは最初の歩行を褒める儀式にも、傷んだ箇所を気にする所作にも見えた。
 景色が変わる。
 今度は昼だ。キリンの群れが見えた。獰猛な息づかいは聞こえない。じりじりと地面の焦げる音がした。
 真下からの気配を感じて、猫は視線を下げる。そこに子どものキリンが居た。生まれたてではなく、ある程度の筋力を身につけた体躯をしている。しかしまだ背は低く、アカシアの下部、子どもキリンの背で唯一届く枝から葉を毟って食んでいた。
 その首が一部だけ奇妙な毛並みをしているのが気になって、猫は樹下に飛び降りる。
 地面に脚を付け、下方から見上げると、そこだけなぜ毛並みが違うのかがよく分かった。傷痕があるのだ。かつて鋭利な何かで抉られ、今では完全に塞がったといった風である。
(ひょっとして、あのときお母さんキリンに守ってもらった子どもキリンなのかな)
 首を傾げながら猫が見上げていると、もしゃもしゃと口を動かしていた子どもキリンがふいに下を向いた。
 視線が絡まる。それはほんの一瞬のこと。
 けれどもその一瞬、子どもキリンが目の奥に浮かべた嘲笑を猫は確かに感じ取る。
 それは、豆みたいなチビ助が居るぞ、とでも言うかのような侮蔑だった。
(なんだと、失礼なヤツめ)
 猫の心に火が灯る。矜恃を踏みにじられたのだ、このまま黙ってはいられない。馬鹿にされたままでは猫の沽券に関わる。
 アカシアに爪を立てると、猫は再び樹上へ跳び戻る。
 そして子どもキリンが食べている葉よりも少しだけ高い位置の枝で止まり、にやりと笑ってみせた。
(豆みたいなチビ助がいるぞ)
 あらん限りの嘲笑は絶大な効果を及ぼした。子どもキリンは湛えた睫を上下させると、瞳に悔しさを浮かべる。猫は満足した。
 そこに群れの中からもう一頭、子どものキリンがやって来る。
 首に傷のあるキリンより一回り大きい。二本の角の内、一本が少し捻れていて、それは力強さを演出するのに買っていた。
 角の捻れたキリンは首に傷のあるキリンを押しのけて、アカシアの葉を食べ始める。
 自身がまだ食事中なのだから怒って然るべきところだというのに、首に傷のあるキリンは応戦しない。先程猫に対して見せた敵愾心はどこへやら、ただ項垂れて立ち尽くすだけだ。
 やがて角の捻れたキリンは食事を終え、群れの中に戻っていく。母親らしきキリンの隣に付くと、子どもらしく甘えていた。
 一方、首に傷のあるキリンは依然として項垂れたままだ。
 猫はキリンの群れを見回す。ハイエナに噛まれたような傷を持つ大人のキリンは、一頭も見当たらなかった。きっとこの群れにはもう居ないのだと猫は悟る。ここから見えない場所には居るのかもしれないけれど、首に傷のあるキリンの姿は、そんな想像をさせてくれなかった。
 景色が何度か変わる。
 変わる度に、首に傷のあるキリンは少しずつ大きくなった。けれどもアカシアの樹は十メートル以上あるので、猫はキリンが成長したところで見下すのに困りはしない。
 猫が嘲笑を向けると、いつだって首に傷のあるキリンは悔しがった。しかし懲りずに猫の居るアカシアで葉を食べるので、猫は遠慮なく勝利の味を楽しみ続ける。
 キリンの群れは各地のアカシアを巡って移動を繰り返すので、一つの樹に拘泥することはないはずだけれど、首に傷のあるキリンだけは違うらしい。群れが各所を巡り、猫の居るアカシアの群生地に再び戻ってくると、そのたびに同じ樹で食事をするようだった。悔しがる瞳を見るに、その理由は強い敵愾心にあるらしい。
 けれどもそれを角の捻れたキリンに対して燃やすことは、一度としてなかった。
 景色が変わる。
 いつものように首に傷のあるキリンは草を食んでいた。猫はまた少し枝を上ってその様を見下ろす。
(ふふん、ぼくのほうが高いぞ)
 睫を上下させて、首に傷のあるキリンは鼻息を荒くした。
 そこに一頭のライオンが現れる。
 どうやってこれほど近くまで来たのか。首に傷のあるキリンからおよそ十メートルの距離にまで、メスのライオンは忍び寄っていた。
 姿勢は低い。前足をぐっと下げて、後ろ足に力を溜めている。今にも飛び出してきそうな緊張感だ。群れが固まっているところまではまだ遠いため、ライオンの狙いが首に傷のあるキリン一頭に定められているのは明白だった。
 そのことに、首に傷のあるキリンも気がついたらしい。
 瞳がさっと黒ずむ。最後を悟り、けれども諦めきれないときの色だ。迎え撃つ気概はおろか、逃走手段を模索する素振りすら見受けられない。つまりすっかり怯えていた。同じネコ科の生き物なのに、猫への態度とは大違いだ。
(身体の大きさぐらいしか違わないのに)
 実際は総筋肉量やキリンに対する危険度なども違うのだけれど、猫はそんな感想を覚える。
(それとも身体の大きさがそんなに気になるのかな)
 首に傷のあるキリンが角の捻れたキリンにいつも負けている様を、猫は間近で見ていた。
 ライオンはじりじりと距離を詰めてくる。残り七メートル。いつ襲いかかってきてもおかしくない距離だ。一方、首に傷のあるキリンは動かない。水に囲まれた猫のようだった。全く騒がないので当然、群れに危険事態が伝わったりもしない。そのため応援も望めなかった。
 絶体絶命という言葉が似つかわしい状況だ。一頭のライオンが出現しただけで、これほど状況は一変する。
(やっぱりライオンって凄いんだなあ)
 同じネコ科としては嬉しい限りなので、猫はもっと近くでライオンを見ようと、枝の先端へと移動する。
 そのときライオンがスタートを切った。
 狩人が弓を放つように、鋭い牙が風を切る。獲物の命が消えかけた蝋燭みたいに揺れる瞬間だ。見ている猫も思わず生唾を飲む。
 それと同時、猫の体重に耐えきれず、乗っていた枝が折れてしまった。
(うわ)
 落下する猫および枝。そして二つはまるで吸い込まれるように、これ以上はないという絶妙な角度で、今まさに獲物へ食らいつこうとしていたライオンの眼球に直撃した。構図としては、猫の脚が枝を下方へ押しつける形である。そしてアカシアの枝というのは棘まみれだ。
 子猫みたいな悲鳴を上げてライオンは悶絶した。
(イメージ壊れるなあ)
 地面に降りた猫はのたうっているライオンを複雑な心境で眺める。
 やがて冬眠明け直後の蛇みたいに力なく揺れながら、ライオンは去っていった。どうやらキリンを狩るのは諦めたらしい。猫はまずまず複雑な気持ちになった。
(今のは見なかったことにしよう)
 気持ちを切り替えて猫は樹へと引き返す。そのとき、自分に向けられている熱い視線に気がついた。
 首に傷のあるキリンが瞳を輝かせている。
 なんだか背中がムズムズするような目だ。色々な感情が包含されているような光沢を帯びている。感動や愛情や尊敬や驚愕や、とにかく雑多な想いが鍋みたいに詰め込まれていた。
 あえて一言でまとめるなら畏敬だろうか。
 悪い気はしないけれどなんだか居心地が悪いという、不思議な気持ちを猫は味わう。
(ううん、今のも見なかったことにしよう)
 頭を振って猫は樹上へと戻った。
 景色が変わる。
 雨天だ。湿り気が鼻先をくすぐる。こういう日は体毛がしんなりしてしまうので猫の気分は落ちた。
(あのキリンを見下して遊ぼう)
 首に傷のあるキリンを探す。しかしいつもは近くでもそもそ葉を食べているのに、こんなときに限って見当たらない。
(どこだろう)
 樹から飛び降りて猫は周囲を見回す。
 居た。群れの中で一頭のキリンに付きまとって、お尻に頭をこすりつけたり尻尾を舐めたりしている。分かりやすい求愛行動だ。ということは首に傷のあるキリンはオスで、付きまとっているのはメスのキリンなのだろう。
 そこへ角の捻れたキリンが近寄っていく。
 堂々とした歩き方だ。威風が全体を覆っている。首に傷のあるキリンもすっかり大きくなったけれど、角の捻れたキリンはそれよりも更に大きく育っていた。群れの中で一番大きいかもしれない。
 そんな巨躯の接近に、ついさっきまで勤しんでいた求愛行為は止んだ。
 両者の間に牽制し合うような沈黙が漂う。その沈黙は数十秒続いたけれど、逆に言えば維持できたのはたったの数十秒ぽっちだった。首に傷のあるキリンはがっくりとうな垂れると、芋虫みたいな速度で猫の居るアカシアへと足先を向ける。角の捻れたキリンは機嫌良さそうに、さっきまで首に傷のあるキリンが付きまとっていたメスに求愛行動を始めた。
 諦観を従えて戻ってくる哀れな姿を、猫はじっと見つめる。
 すると、俯いていた首に傷のあるキリンと目が合った。
 何を感じたのかは分からない。けれども視線が交わった瞬間、首に傷のあるキリンは足を止め、己よりずっと小さな猫と、かつてライオンが現れた方角とを、交互に見やった。
 荒い鼻息が吐き出される。
 首に傷のあるキリンは毅然とした面持ちで顔を上げ、踵を返した。そして真っ直ぐに、角の捻れたキリンへと突進していく。
 まず脇腹と脇腹とが接触した。角の捻れたキリンは自身の求愛行動を妨げる恋敵の登場に、不快感を隠しもせずに顔を上げる。そして相手が一度も自分に刃向かったことのない首に傷のあるキリンだと認めると、少しだけ驚いたような素振りを見せた。
 次の瞬間、両者の首が鞭のように撓る。
 打ち合わされる首と首。角材同士を叩きつけたような音が響き渡る。メスのキリンは逃げ出した。
 猫はその光景から目が離せない。
 こんなに派手な喧嘩を見るのは初めてだった。幾度となく振われる首はそのたびに鈍い音を鳴らす。痛くはないのだろうか。首の付け根を、前脚を、相手の首を、それぞれが自身の首を以て叩き続ける。
 そうして打ち合いがしばらく続いた頃、互いの状態に差が生じた。
 やはり体格の違いが大きいのだろうか。首に傷のあるキリンは徐々に勢いを無くし、今ではもう倒れてしまいそうだ。角の捻れたキリンも最初に比べて首を振う速度が落ちたけれど、それでもまだ余力はありそうだった。
 そのとき首に傷のあるキリンへ、角の捻れたキリンの痛烈な一撃が叩きつけられる。
 衝撃にふらつき、数歩交代する首に傷のあるキリン。疲労からかその頭は下がり、より一層体格差が際だって見えた。
 この展開で勝利を確信したのだろう。角の捻れたキリンは首をすっと伸ばし、顎を軽く上へ向けて、首に傷のあるキリンを見下ろした。まるで、豆みたいなチビ助が居るぞと言わんばかりに。
 なぜだろうか。
(それは、それは)
 その光景に、今まで一度も沸き上がったことのない感情が、猫の全身を震わせた。
(それはぼくの役割だぞ)
 噛みついてやろうと、猫は角の捻れたキリン目がけて駆け出す。
 しかしすぐに足を止めた。首に傷のあるキリンが動き出すのが見えたからだ。
 首を下げていたのは、数歩後退したのは、疲労のためではなく助走のためだったのだと知る。
 振り上げられた首は高く、それまでで一番のしなりを見せ、背中側まで反り返った。
 精一杯に縮められたバネのよう。
 踏み出す一歩を号砲に、その一撃は振われる。
 油断していたのか、角の捻れたキリンは何の回避動作も取れずに攻撃を受けた。衝撃を受け流しきれなかったのか、地面が濡れていて滑ったのか、そのまま地面に倒れ込んだ。溜まっていた雨水が跳ねて、土色の飛沫が舞った。
 首に傷のあるキリンは、すっと鼻先を天へと向ける。
 そして角の捻れたキリンに、本の表紙になれそうなしたり顔で、侮蔑の目を向けた。
 景色が変わる。
 清々しい晴天だ。猫は濡れていた身体は振ってから、のんびりとアカシアの樹に上る。
 首に傷のあるキリンが葉を食べていた。猫はちょっと高いところまで上ると、いつものように茶色い鼻先を見下ろす。首に傷のあるキリンはいつものように悔しさを浮かべた。猫は満足する。けれども首に傷のあるキリンはいつもとは違って、悔しさを浮かべた後に、なんだか嬉しそうにもした。猫の満足は一瞬だけ薄れたけれど、そのあとすぐ、さっきの満足よりもずっと満ち足りた何かが、胸の奥でぽっと光った。
 景色が変わっていく。
 暑いときもあれば寒いときもあった。晴れの日だけではなく、雨の日や風の日もあった。けれども首に傷のあるキリンは、いつも変わらずアカシアの葉を食べていた。猫も繰り返しそんなキリンを見下し続けた。
 首に傷のあるキリンの成長はもう止まったらしい。背は伸びなくなって、だから猫はより一層見下した。首に傷のあるキリンはますます悔しがったけれど、以前の悔しさとはちょっと違った悔しさらしく、瞳の色は温かいものだった。
 そのうちに首に傷のあるキリンには子どもが出来たようだ。ときどき葉を食べに来ないときがあって、そういうときは決まって、メスや子どもの傍に居た。角の捻れたキリンは見当たらなかったので、群れはまた変わったのだろう。それまでにも何度か変化はあったけれど、今の群れでは、首に傷のあるキリンがリーダーみたいだった。
 自力で立つのも精一杯だったキリンは、すっかり大きくなったのだ。
 でもどうやら最近は、その背が少しずつ縮んでいるみたいだった。
 景色が変わる。
 雨上がりのにおいがした。空を見ると虹が出ている。猫は嬉しくなって、地上に飛び降りた。そして自慢のふわふわしっぽをぐるぐると追いかける。
 首に傷のあるキリンもこの虹を見ているだろうか。一緒に空を見上げたくて、猫はあたりを探す。
(どこにいるかな)
 群れは近くに居た。首に傷のあるキリンの子どもが居る。まだ小さいし、目元がそっくりなのですぐに分かった。
 けれども肝心の、首に傷のあるキリンは見当たらない。
(どこにいるんだろう)
 群れの中に入っていって、踏まれないように注意しながら、猫はキリンたちの間を歩く。
 しかしやっぱり、首に傷のあるキリンは見当たらなかった。
(どこ?)
 猫は立ち止まる。
(どこに居るの?)
 本当は分かっていた。
 首に傷のあるキリンは、もうどこにも居ないのだ。
 虹を見上げる。とても綺麗だ。綺麗すぎて、素敵すぎて、だから泣いてしまいそうだった。それがどうしてか分からない。だってこんな気持ちは初めてなのだ。猫は本当に色々な場所を巡って、たくさんの物事を知って、おまけに元々とても賢いけれど、それでもこんな気持ちは知らなかった。
 自慢のとんがり耳を掻く。困ったときはこうすれば上手くいったりするのだ。けれども何も起こらない。
 猫はアカシアの樹に駆け戻った。
 上って、地面を見下ろす。首に傷のあるキリンは居ない。どうして居ないのだろう。ついに怒って、来てくれなくなったのだろうか。
 そうじゃないことは分かっている。
 けれども猫は心の底から、一度くらい負けてやればよかったと思った。
 棘を避けて丸くなる。
 頭の中では色んな景色が、現れては消えてを繰り返していた。猫は唸り声を上げる。消えないでほしかった。どうして消えてしまうのだろう? せっかく現れてくれたのに。
 思考は止まらない。考え事も難しい話も大嫌いなのに、いつまでもなくなってくれなかった。そのせいで次第に頭が痛くなってきて、ついには身体の具合まで悪くなる。関節が痛くて、身じろぎするのもしんどくて、胸の真ん中はぽっかり穴が開いたみたいだった。
 こんな時は眠るしかない。けれども瞼を閉じてもすぐには、猫は眠りに落ちられなかった。