猫が目を覚ますと、ねむねむさんの腕に抱かれていた。
「久しぶり、猫さん」
 少年しか持ち得ない無垢な笑みが猫に向けられる。けれどもやっぱり、ねむねむさんからは生き物の気配がしなかった。ふわふわした水色のガウンに密着しているのに、猫はねむねむさんの心音を聞けない。それでも安心できる温かさがねむねむさんにあることが、猫には不思議だった。
 どことも知れない草原をねむねむさんは歩いている。
 風が心地良い。初夏の香りがした。地面ではタンポポが揺れている。それが猫の胸をちくりと刺した。
(ずっと一緒に居たかったのかな)
 黒衣の老女を、猫は思い出していた。
「猫さんは少し変わったね」
 青草を踏みながら、ねむねむさんが呟いた。
「ここに居ない誰かを思い出すことなんて、前に会ったときの猫さんからは考えられない。君はとても猫的な猫だったから」
(ぼくはぼくだよ。いつだって)
「そうだね。でも僕は君がどんな君なのかを完璧には知らないんだ」
 ねむねむさんは歩みを止める。猫は顔を上げた。
 正面には青色の風船がある。奇妙なことだ。重石はないのに飛んでいかない。地面へ沈むこともない。紐をたらりと尻尾のように、風船は宙に浮いている。
「だから僕は君のことが知りたい」
 猫を地面に下ろしながら、ねむねむさんは微笑む。
(どうして?)
「僕はふわふわのものが好きなんだ。ほら」
 自分の履いているスリッパをねむねむさんは指さす。ガウンと揃いの色をしたそれはふわふわだった。
(ぼくの尻尾のほうがふわふわだよ)
 猫は自慢のふわふわしっぽを振る。
「だから僕は君のことが好きだよ」
 小さな柔らかい手が猫の頭を撫でた。そこはそんなに気持ちいい場所じゃないんだけどな、と猫が思うと、ねむねむさんは喉の下を掻いてくれる。猫はごろごろと喉を鳴らした。
「好きだから、もっと知りたいんだ。ねえ、君はどんなところで生まれたの?」
(山だよ。とても高い山の中で生まれたんだ)
「素敵なところだった?」
(どうだったかな。素敵でもあったし、そうではないようでもあったよ)
「じゃあ、確かめてみよう」
 まるで待っていたかのように、触れてもいない風船が割れた。
 景色が変わる。
 懐かしい山嶺の景色。ぽろぽろと生えているパセリみたいな木、乾いた土、太陽は近いのに涼しい風、嫌いなコーヒー豆の香り。
 ねむねむさんは深呼吸する。
「ここが君の故郷か。とてもいいところだね。あっ、あれがコーヒー豆?」
 ポフポフとスリッパを鳴らして、ねむねむさんは付近の小屋へ向かう。直に地面の上を歩いているけれど、スリッパに土は付かない。
 色々なことが不思議だった。けれども猫は不思議が慣れっこになっている。だから懐かしい故郷を、ぼんやりと眺めた。
 麻袋に詰まったコーヒー豆に手を突っ込んだりして遊んでいたねむねむさんは、しばらくしてから引き返してきて、猫と目線を合わせるようにしゃがみこむ。
「いいところだね」
(そうかな)
「うん。猫さんはそう思わない?」
(分からないよ。本当に分からないんだ)
 周囲に人は居ない。鳥も居ない。生き物の気配はどこにもなかった。ここは故郷と同じだけれど、また少し別なのかもしれないと猫は思う。
「ここは君の記憶だよ」
 猫の思考に答えるように、ねむねむさんがそう言う。
「本物でもいいけれど、本物はもう君の知る故郷とは別な場所になっているんだ。何かも変わってしまう。変わらないではいられない。猫さん自身と同じように」
(ぼくはぼくだってば)
 反駁を、ねむねむさんは微笑しながら聞き流す。
「猫さんはここでどんな風に育ったの?」
(どんなって、普通だよ。ごはんを探して、食べて、寝て、育ったんだ)
「お母さんやお父さんは? それに、兄弟は?」
(知らない。会ったことないもの。自分で餌の取り方を覚えて、自分で寝場所を探して、ずっと独りだったよ)
「独りぼっちで寂しくなかった?」
(全然。だって最初から独りだもん)
「そうだね」
 緑色の風船がどこからか現れる。
 それは最初から景色の中にあったかのような自然さで、先程と同じように上昇も下降もせず、中空を漂っていた。
「君は孤独を知らない孤独だ。だからきっと、北極星に選ばれたんだろうね」
(難しい話は嫌いだよ)
「そんなに難しくないから平気だよ。ねえ猫さん、君はこれまでの旅でどんなものを見てきたの?」
(北極星になる前? それとも後?)
「へえ、なる前にも旅をしていたんだ。じゃあ、なる前の話から」
 ねむねむさんの問いかけと同時に、緑色の風船が弾けた。
 景色が変わる。
 甲板に立っていた。足場は揺れている。潮騒が鼓膜を撫でた。ウミネコの鳴き声。生物の腐臭。海の青。
 高らかに汽笛が鳴った。
 しかし船員の姿は見えない。足下を鼠が駆けていくので、猫は咄嗟にその尻尾を踏んで捕まえ、食べた。
「船に乗ったのかい?」
 ナイトキャップを海風に揺らしながら、ねむねむさんが問いを発する。
(毛織物にくるまって遊んでいたら木箱に閉じ込められて、なんとか出られたときには船に乗っていたんだ)
「きっと積み荷と勘違いされたんだね」
 口元に手を当てて、ねむねむさんはクスクスと笑う。
「出荷されたんだ。変なの」
(変じゃないよ)
「そうかなあ」
 どこかで風船の割れる音。
 景色が変わる。
 煉瓦造りの倉庫が並んでいた。海底を目指す錨綱が見える。猫たちは波止場に立っていた。物欲しそうな顔をしたカモメが数羽、舫い綱に止まっている。
「外の国に出たんだね」
(うん。ここには長く居たよ。クロテッドクリームが美味しかった。博物館も面白かったな)
「でもずっとは居なかったんだ?」
 またどこかで風船が割れた。それも、幾度も。
 連続して何回も景色が変わる。ブロッコリーに似た森、割れた卵みたいな海辺、玩具箱じみた住宅街、フライパンを逆さにしたような台地、痛いほどの静寂を纏った湖畔、夕日に染め上げられた山頂。
(寒かったから貨車で寝たり、ダチョウに追いかけられて一生懸命逃げたり、色々あったんだ)
「そのたびに別の場所へ行ったんだね」
(うん。そうしている内に、気がついたら北極星になっていたんだ)
 景色の変化が止まる。
 渦巻きが見えた。あの小さな熊と出会った場所。北極星だと言われたときの思い出。
「猫さんはずっと一匹で旅をしていたんだね」
(うん。でも、ううん)
「どうしたの?」
(ぼくは旅をしてきたけれど、でも旅をしてきたような気はしないんだ。だってそのとき居る場所が、いつだってぼくの住処になったから)
「つまり、旅ではなくて引っ越しをなんども繰り返してきたっていうことかな」
(うん)
「故郷は帰る場所じゃないの?」
(生まれた場所だけど、帰る場所ではないよ。だって好きでも嫌いでもないし、たいした思い出もないもの)
 どこか近いところで再び風船が割れる。
 記憶に新しい景色が、現れては消えていった。赤い屋根、砂の大地、巨大な研究所、それらは流れるように移り変わり、直近の出来事へと近づいてくる。
 いくつかの事柄が猫の胸を締め付けた。
 クリームへ至る厳かな行列、蒸気を上げて走った馬、天文学者の優しい横顔、鏡の顔を持つ人間、天へと泳ぐ水のない海。
「記憶と思い出には違いがある」
 景色はいつかの図書館で停止した。
 宇宙みたいな背景では、今まさに一つの恒星が死を迎え、鮮やかな光を放っている。
「前者だけなら『個』で十分だけど、後者には『他』が必要だ」
(難しい話は嫌いだよ)
「なんとなく隣に居るだけだったはずの猫さんが、今はそうではないってことだよ。胸の奥がぎゅうってなったり、しているでしょ?」
(ちょっとだけしかしてないもん)
「でもちょっとはしている。些細なことかもしれないけれど、それは関わりなんだ」
 てっぺんの見えない二つの本棚に挟まれた場所で、ビロード張りの一人がけソファにねむねむさんは腰掛ける。手招きされたので、猫はその膝の上に飛び乗った。お座りの姿勢を取って、ねむねむさんと間近に目を合わせる。
「どこから来てどこへ行くの?」
(分からない)
「君は誰?」
(ぼくはぼくだよ)
「どうして君は君なんだろう?」
(理由なんてないよ。それに要らない。困ってないもん)
「そうかもしれないね」
 ねむねむさんは淡く微笑む。
「地球からは北極星が動いていないように見える。では北極星から地球はどう見えるだろうか?」
(前に聞かれたよ。答えは分からないけれど)
「じゃあヒントを上げよう。北極星からはね、地球の北半球しか見えないんだ」
(南半球は見えないの?)
「見えないよ。もし見たいのなら、北極星はじっとしていちゃいけない。動かないといけないんだ」
(動いたら北極星じゃなくなっちゃうよ)
「そうだね。地球にとって特別でも何でもない、ただの星になってしまう」
(あ、でも、熊さんは北極星が少しだけ動いてるって言っていたよ)
「北極星は動いてはいけないけれど、完璧に止まってもいけないからさ。ほんの少しの可動性、いつか訪れる伝承への期待もまた必要なんだ」
(難しい話は嫌いだよ)
「簡単に言うと、君は孤独を知らない孤独だったから選ばれたってこと」
(まだ難しい)
「これ以上簡単には言えないよ。言えるけど、言えない」
 優しい力でぎゅうっと、ねむねむさんは猫を抱きしめる。
「ねえ、僕たちは孤独だよ」
(違うよ。一緒に居るもの)
「だからさ。だから、孤独なんだ」
 寂しそうにそう言って、ねむねむさんは猫から離れた。
「君にも分かるときが来る。次に会えるのは、そのときだ」
(お別れなの?)
「大丈夫だよ」
 ねむねむさんは猫の顎の下を掻く。
「大丈夫」
 もう一度そう繰り返すと、ねむねむさんは紫陽花みたいに笑った。
 景色が変わる。
 水色のガウンも、揺れるナイトキャップも、ふわふわのスリッパも見当たらない。猫はどこかの海岸に座っていて、足下では灰色のカニが鋏をふりふり歩いていた。
 打ち寄せる波の音が眠気を誘う。
 なんだかたまらなく不安になった猫はカニを蹴っ飛ばすと、手近な樹の上へ駆け上った。艶々と生い茂った葉っぱの中で息を吸うと少し安心して、だから瞼を閉じたらすぐ、猫は眠りに落ちてしまった。