猫が目を覚ますと、少年と少女が並んで歩いていた。
 どちらも十代中盤の面立ちだ。少年は詰め襟を、少女はセーラー服を着ていて、二人とも紋章が入った鞄を持っている。どうやら学校からの帰りらしい。
(変な歩き方)
 少年の歩行がぎくしゃくしているのに猫は気がついた。まるで誤動作を起こしているロボットのようだ。具体的には右手と右足が一緒に出ている。
 次は左手と左足を一緒に出すのかと思いきや、少年は唐突に立ち止まった。そして地面にしゃがみ込み、路傍の猫じゃらしを引き抜く。少女はやや前を歩いていたので、少年の停止に気付かず歩を進めていた。
「言うぞ。今日こそ、言うんだ」
 手にした猫じゃらしを祈るように持ち、少年は独り言を口にする。
(猫じゃらしだ)
 大好きな植物の登場に猫の心は躍る。揺れる猫じゃらしを触ると幸せな気分になるのだ。だから遊んで貰おうと、猫は少年の足下に近寄った。
「あっ、猫だ。よしよし」
 さっきまでぎこちなかった表情が嘘みたいに、少年は満面の笑みを浮かべて猫じゃらしを振った。猫はその先端にねこパンチを見舞って遊ぶ。楽しかった。
「こら」
 不満げな声。少年はバネ仕掛けの玩具みたいに立ち上がる。
 いつの間にか引き返してきていた少女が腰に手を当て、口を一文字に結んで少年を睨んでいた。
「急に立ち止まるのは困るな。あたし独りで喋っちゃったじゃない」
「ご、ごめん。猫が居たから、つい」
「え、猫?」
 少女の顔が途端にぱっと輝く。東を向いた向日葵みたいだ。そして猫の正面にしゃがみ込む。膝丈よりも短いスカートの裾が、空気抵抗で蝶々みたいに揺れた。少女の白い太股が眩しかったのだろうか、少年がさっと視線を逸らす。その口元は緩んでいた。少女はそんな少年の変化に気付くことなく、微笑みながら猫の頭を撫でた。
「可愛い。あたし、こういう赤茶色の猫、好き」
「あ、一緒だ。僕も大好き。この色はソレルっていうんだ」
「ソレル?」
「うん。シナモンとかチョコレートとかレッドとか言う人もいるけど、僕はこの色合いはソレルって呼んでる。綺麗だよね。ほら、尻尾のティッキングなんてすごい」
「ティッキング?」
「毛の一本一本に入ってるグラデーションのこと。これがあるから猫の被毛は波打ってるように見えるんだ。芸術的だよね」
(ふふん、そうでしょ)
 見知らぬ人間二人にまじまじと見つめられるのはむず痒いけれど、褒められて悪い気はしない。猫は心中でにやついた。
「耳の先にタフトもあるし、アイラインも鮮やかだし、本当に素敵な猫だな。わあ、ポーが小さい」
 褒め口上はまだ続く。少年は嬉々として猫の全身を讃えた。猫はますます上機嫌になって、ごろごろと喉を鳴らす。
 一方、そんな少年の隣で少女は目を丸くしていた。
「猫、そんなに好きだったんだ」
「え? あ、えと、うん。家でたくさん飼っててさ、昔から。ごめんなんか、勝手に盛り上がっちゃって」
「謝ることないよ。それより、君が何かを熱く語るところ、初めて見た」
「そうかな」
「そうだよ」
 少女は微笑む。少年は頬を染めて目を逸らした。だからきっと、少女が直後に寂しそうな目を浮かべたのには気付かなかっただろう。
 立ち上がって、少女はスカートの折り目を整える。
「そこまで好きなら将来、猫に関わる仕事をしたりとか?」
「うん。だから動物生態学を学べる大学に進むつもりだよ。出来たら猫の保護をしたりする仕事に就きたいなって、考えてる」
「そっかあ」
「君は?」
「あたしはもう決まってる。酒蔵を継ぐの」
「え、酒蔵?」
「そう。代々酒造をやって来た家の一人娘なんだ、あたし。だから選ぶ余地ないの。ここだけの話ね、もう利き酒できるのよ」
「それは、凄いね」
「でしょ。でも、こんな特技要らなかったな。普通がよかった。そしたら、臆病にならなくてよかったもん」
「何に?」
「恋に。だってほら、あたしと付き合った男はさ、最終的には婿入りするか別れるかの選択を迫られるんだ。もしその男に夢があったりしたら、なんだろうね。なんていうかさ」
 語尾は沈んでいく。空を見上げる少女の顔は見えなかった。
「ごめん。なんか、しんみりしちゃったね。忘れて、今の」
 少年を見て、少女はまた微笑んだ。日陰で揺れるタンポポみたいに。
 それを受けて少年は言った。
「今度の日曜日、映画行こうよ」
 言葉は迷いと惑いを連れて。
「観たいって言ってた映画のチケット、貰ったんだ、二枚。だからよかったら、一緒に」
「ごめん」
 崩れかけた微笑みを、それでもまだ浮かべたままで、少女は答える。
「その映画、もう観ちゃったんだ」
 言い訳は嘘だった。少女をよく知らない猫にもそれが分かる。だから少年はもっと分かっているだろう。
「ごめんね」
 繰り返すと、少女は踵を返して去っていく。追いかけてくるのを拒むような早足だった。
 少年は持っていた猫じゃらしを投げ捨てる。風に揺れて、それから落ちた。猫はその動きを追いかける。でも落ちた猫じゃらしは揺れないのでつまらなかった。
 しばらくじっと佇んでから、やがて少年も歩き出す。その足先は少女が去った方角の逆を向いた。まだ遊び足りない猫は少年を追いかける。
 小さな公園へと少年は入っていった。そしてブランコに座り、膝に肘を乗せて俯く。猫はその足下に近づいて、地面に腰を下ろした。近くに居れば遊んでくれるだろうと考えたからだ。けれども目論見は外れた。どれだけ待てども少年に動きはない。だから猫は他所に行ってしまおうかと考えたけれど、どうせ暇なのでのんびり待つことにした。
 猫は動かず、少年も動かず、そのままゆっくり日が暮れる。
 夜が空を覆っても、まだ少年は動かなかった。おしりが痛いのか時々身体を動かしたけれど、それだけだ。
 すると数時間後、少年を探しに来た人が、公園に入るなり声を上げた。
「見つけた。こんな時間まで何やってるんだ、おまえ」
 声の主は大人の男性だった。スーツにワイシャツ、ネクタイという、会社帰りにしか見えない服装をしている。
「兄貴」
 顔を上げた少年が呟く。けれどもそれだけで、兄に駆け寄ろうとはしなかった。
 そのことで兄は何かがあったことを察したのだろう。最初は身体から放射されていた苛立ちがさっと消えた。やれやれ、と零しながらブランコを囲む手すりに腰掛け、俯いている少年を見つめる。
「どうしたよ。母さん、心配してたぞ。猫たちも。うお、ここにも猫か。モテるなおまえ」
「やめてよ。モテないよ」
「ふうん。まあ、話してみろよ。愚痴ぐらい聞いてやるぜ」
「いいよ。兄貴童貞だもん」
「ほう」
 兄は極悪人のような声を出し、すっと立ち上がって少年に近づく。そして見事なヘッドロックを決めた。
「痛い痛い痛い痛い」
「ふははは、これが童貞の力だ」
 揉み合いはほんの数十秒ほど。しかし兄が離れてからも、少年は両方のこめかみを押さえて悶えた。
「見直したか童貞を」
「見損なったよ」
「うるせえ。いいから何があったか話せよ。さもないと今度はコブラツイストするぞ」
「嫌だ話さない」
「ほう」
「分かった分かった話すよ」
 それから少年は拗ねた口調で少女とのことを話した。
 聞き終えた兄は、ふうん、と言って頷いた。
「そんなに悩むことかねえ。とりあえず付き合っちゃえばいいじゃん。上手くいくかどうかなんて分かんないし、大体高校生の恋愛なんて遊びだろ所詮。難しいこと考えないで欲望のままに生きろよ」
「そんなの不誠実だ。だから兄貴は童貞なんだよ」
「泣くぞ」
「ごめん」
「許す。まあ、誠実に居たいってのは立派なことだ。するとおまえの選択肢は二つだな。その子を諦めるか、夢を諦めるか。あみだクジで決めるか?」
「そんなに簡単じゃない」
「だろうな。じゃ、真面目な話をしようか」
 台詞とは反対にちっとも雰囲気を切り替えないまま、兄は語り出す。
「いいか弟よ。なんでもかんでも手に入る人生なんかない。誰だって何かを捨てたり諦めたりしてる。たとえ何も望まなくてもだ。どんなものも変わっていくからな、そのままでさえ居られない。何かを得ようとするなら尚更、選択を迫られる。しかも何かを捨てたところで、何かを得られるとは限らない。むしろ捨てただけで終わることの方が多いくらいさ。だから選択を迫られたとき、忘れてはいけないことは一つ」
 兄は人差し指を立てて、少年の前に突き出す。
「素直でいることだ。そうすりゃ選択に責任を持てる。自分は常にベストを選んできたから、後悔しても仕方ねえ。たとえみっともなくたって、今の自分が最高の自分だ、ってな」
 にやりと口を歪めて、兄は手を下ろす。
「ただ、素直でいんのもなかなか難しい。下手すりゃ変わることよりな。なにしろ意外と見えねえんだ。だからおまえは不誠実だって言うけど、素直な自分が見えるまでは、とりあえず付き合ってみろよ。選択を下さなきゃいけないとこまでは、ゆるくやっていきゃあいい。その間に悩んで、迷って、喚いて、泣いて、兄貴にお金あげて」
「待って変なの混じった。やめてよ、せっかく見直してたのに」
「すまん、なんか言ってて気恥ずかしくなってきてさ。まあ、とにかくゆるくやれよ。肩肘張らずにさ。そもそもおまえ、付き合えるかどうかも分かんねえじゃん。不細工だし」
「言わないでよ。仕方ないじゃん兄貴の弟なんだから」
「俺の弟なら本来は美男子になるはずなんだが」
「それ本気で言ってる?」
「当たり前だろ失敬だな。まあとにかくだ。結局、考えたって答えなんか出ねえんだよ」
 手すりから腰を上げて、兄は尻についた土埃を落とす。
「動け動け。そんで迷え。動いて迷って鼻水垂らして、ボロボロになって倒れてようやく、素直な自分が見えるかもだ」
「そっかあ」
「以上、兄貴の真面目な講釈でした。有り難かろう? 褒めよ」
「うーん。確かに有り難かったけど、兄貴童貞だしなあ。信憑性が」
「せい」
 兄は少年に再びヘッドロックを決めた。さっきより威力が強いらしく、少年は悲鳴を上げる。
「これほどの屈辱を味わったのは久々だぜ」
 少年を解放してからも兄は怒り心頭といった様子だった。蝋燭の火ぐらいならば消せそうなほど鼻息を荒くしている。
「おら帰るぞ愚弟。晩飯はハンバーグだ」
 頭を抱えて丸くなっている少年を置き去りに、兄は公園の出口へ向かう。
 その足音を聞いてか少年は姿勢を解いて、側頭部をさすりながら立ち上がった。そして兄へと小走りに近寄る。
「ありがと、兄貴」
「おう」
 景色が変わる。
 ブランコがなくなっていた。そこには一脚のベンチがあるのみだ。もともとブランコ以外に遊具はなかったので、今や公園は広場に変わってしまっている。けれども殺風景ではない。砂地だった足下には一面に芝生が生え、柔らかな日差しを反射していて、景色は一枚の絵画みたいだった。
「あっ、部長。見つけました」
「なに、どこだ」
 背後から聞こえた声に猫は振り返る。
 赤い眼鏡を掛けた女性と、手を絆創膏まみれにした男性が、二人で広場に入ってきた。女性はノートとペンを、男性は十センチ四方程度の立方体を、それぞれ手にしている。
(そっくりだ)
 猫は男性があの少年と瓜二つであることに気がついた。少年より十以上は年上で、目つきもずっとしっかりしているけれど、全体像は同じだ。だから少年と同じように遊んでくれるかもと期待して、猫は男性に近づく。
 しかし期待は裏切られた。猫が近づいた瞬間、男性は芝生の上に手にしていた立方体を置き、そこから嫌な音を発生させたのだ。
 堪らず猫は広場の隅まで逃げる。すると音はやんだ。
「はい。百四匹目オーケーです」
「うう、ごめんよ」
 ノートに何かを記入している女性の横で、男性は申し訳なさそうな顔を猫に向けた。
(謝るくらいなら最初からしないでよ)
 苛立ちを紛らわすために、猫は自慢のふわふわしっぽを舐めた。
「これだけデータが取れれば大丈夫ですよ。そろそろ製品化に乗り出しませんか?」
 サイズが合っていないのか、ずり落ちる眼鏡を上げながら、女性は男性に提案する。しかし男性は渋い顔をした。
「まだ早いかな。猫が嫌がるデータは十分取れたけど、他の電子機器への影響が未知数だから。あと三日もすれば検査結果が上がってくるから、それまでは続けよう。百四匹中、六匹は嫌がらなかったわけだし」
「あれは老化ですよぉ、絶対。可聴領域が狭まっただけですって」
「そうだろうけど、内二匹はまだ二歳だったじゃないか」
 二人は議論を始める。話が難しいので猫には何を言っているのか分からない。
 そうしてしばらく問答が続いた後、会話は着地点を見つけたのか、納得したように二人は頷いた。そして同時に笑顔になる。
「早く製品化して、猫の交通事故を減らしたいですね」
「うん。一つでも多く減らしたいな。あ、もうこんな時間だ」
 腕時計を見た男性は大きく伸びをして、それから首を回した。
「帰社しないと。そういえばお腹も減ってきたし」
「わたしもペコペコですよぅ。そうだ部長、ご迷惑でなければ、今日飲みに行っていいですか? 久しぶりにたこ焼き器でクルンってしたくて」
「もちろんいいよ。ごはんは一人よりたくさんの方が美味しいもの。じゃあ皆を誘って」
「いえ、二人で。二人じゃないと駄目です、絶対」
「え、どうして? 内緒話でもあるの?」
「そうじゃなくて。そうじゃなくて、ですね」
 ノートを胸に抱きしめて、ずり落ちる眼鏡を上げながら、女性は何度か足踏みする。
「えっと、そのほら、部長、言ってたじゃないですか。すっごい美味しいお酒があるって。わたしほら、お酒大好きですから。飲んでみたいんです。でも皆を呼んでしまったら、すぐにお酒がなくなっちゃうから、だから二人で」
「量なら大丈夫だよ。友だちが作ったお酒でね、定価より安く売ってくれるから」
「とにかく二人で飲むんですっ」
「わ、分かったよ」
 背中を反らせながら男性は返答した。女性が口調だけでなく、物理的にも詰め寄っていたからだ。返答に満足したらしい女性は、よろしい、と言って一歩下がった。
「ところで、酒造家のお友達なんて居たんですね」
「うん。結構、長い付き合いだよ。十年くらい」
「ふうん。女の人ですか?」
「えっ、どうして分かったの」
「勘です。なんか呼び方、優しかったから」
 女性は唇を尖らせて、じっとりとした視線で男性を見つめる。睨んでいるともいえた。男性は湿った風を受けた風車みたいにゆっくり首を回し、視線を逸らす。
「あの、どうして不機嫌そうなの?」
「別に不機嫌なんかじゃないですけど」
 女性は露骨に不機嫌さを示す。雰囲気がギスギスし始めた。
「ところでその友だちって、本当は恋人ですか?」
「ちっ、違うよ。友だち」
「本当に?」
「本当だよ。だって向こうは結婚してるし」
「じゃあ元恋人?」
「それは、ええと」
「元恋人なんだ。でもまだ友だちなんですね。人妻になった元カノと。なんか不潔ですねえ」
「そんな、誤解だよ」
「でも男と女が付き合って、別れてるのに」
「それでも友だちではいられるさ」
「そういうとこありますよね、男の人って。未練たらしいというか。まだその人のこと諦めてないんじゃないですか?」
「いやいや、もう諦めてるよ」
「嘘ですね。本当に諦めてたら、過去のことなんか捨てちゃうはずです。だってつらいだけじゃないですか。その人を手に入れられなかったんだから」
「確かにつらいけど、でもつらいだけじゃないよ」
「そうですかねえ」
「そうさ。だってその道を歩いてきたから、君みたいに素敵な後輩とも出会えたし」
 この言葉に女性は耳まで赤くなった。けれども視線を逸らしたままの男性はそれに気付かない。
「つらいからって、続いてる縁を無理に切ったりはしないよ。お酒好きだし。まあ確かに時々泣きたくなったりはするけどさ。とにかく、ええと、そんなに責められると困っちゃうからそろそろ、あれ。顔赤いけどどうしたの?」
「なっ、なんでもありません」
「そう? でも」
「わあ顔見ないで下さいっ。離れてっ」
「ええ?」
「そう、帰社の時間ですっ。急がないと会議が」
「あっ、そうだった。急がないと」
 男性は早足で広場の出口へと向かう。しかし女性は動かずに深呼吸して、それから自分の頬を数度叩いた。
「うう、不意打ちは卑怯ですよぅ」
 呟きは胸を焦がすよう。ずり落ちた眼鏡の奥で、その瞳は微かに潤んでいた。
「ほら、早く。急がないと会議に遅れる」
「はい行きます。行きますから待ってくださいっ」
 女性は小走りで男性を追いかける。そうして二人は広場から去っていった。
 静かになったので猫は安堵する。すると途端に眠気が襲ってきた。広場の片隅で丸くなる。睡魔の前ではいつだって素直なのだ。だから瞼を閉じたらすぐ、猫は眠りに落ちてしまった。