死者の蘇生が技術的に可能になってからも、生き返らない人間は発生した。
 多くは人生に満足した者だ。つまり生きているうちにやりたいことはすべてやった者たちで、その九割九分は過去に複数回、蘇生している。他には人生がつらすぎてもう生きたくない、となった者もいる。いずれにしろ共通しているのは生より死のほうに価値を見いだし、能動的に死んでいったことだ。
 そうでないものもいる。
 蘇生のための要件を満たさずに死んでしまったものたちだ。突発的な事故死などで亡くなった者がこれに該当する。
「息子は、息子は五歳だったんです」
 K藤の目の前で、裕福な身なりの女性がさめざめと泣いている。かれこれ二時間、ずっと泣きっぱなしだ。
「まだ、ひらがなも全部書けなくて、だから文字なんてほとんど……それで、それで蘇生に必要な文書が、なくて」
「それは災難でしたね」
 真顔でK藤は言う。同じ台詞をすでに十六回言っていた。最初の二、三回は心底から同情していたが、いまはもう何の感情もなかった。
 窓の外に目をやる。雨が降っていた。煙る東京の空は綺麗だ。だがK藤のいる事務所は古い木造建築なので、雨が降ると極端に湿度が上がり、居心地が悪くなる。そのせいかソファのシートの裏側にはカビが生えていて、だが代えるには所長決裁が必要なので、所長不在のいま代えるわけにもいかず、未だにカビが生えたまま使っている。
 そんなカビありソファに座って女性は泣きながら言う。
「お願いです。息子の遺書を、偽造してくれませんか?」
 K藤はうんざりしながら答えた。
「お気持ちはわかりますが、出来ません。偽造できる所長は、昨日、車に轢かれて死んだんです」

          ◆

 蘇生のための要件はたった一つ。『肉筆の遺書が存在すること』だ。
 字には魂が宿ると誰かが言った。それは真実だったらしい。十二年前、ある科学者が肉筆の遺書から、生きたいと願う強いエネルギー……すなわち魂を抽出することに成功した。抽出した魂を物体に定着させることが可能になったのがその翌年。
 死とは魂が消えることだ。
 肉体はこの世に残っている。だから魂を何らかのやり方で抽出し、物体に定着させることができれば、死の克服は簡単である。残っていた肉体に、抽出した魂を定着させればいい。
 技術革新によって人は死を克服した。
 そして同時に、いくつもの新しい産業が生まれた。肉体をいつまでも若く保つのではなく、肉体のスペアをいくつも持てばいいという発想に切り替えた美容業界は、擬体の生産を開始。今では、羽を生やしたり鱗を付けたりといった、生体には難しい加工を施した特殊な身体も売られている。最後には観客が死んで終わるアトラクションも生まれたし、一酸化炭素中毒死の気持ちよさを普及する団体なんてものも登場した。
 K藤が勤める事務所で行われていた業も、そうした現代社会に特有のものだ。
 遺書の偽造である。
「生まれつきの障害でペンが持てないもの、識字能力のないもの、単純に遺書を書くことができない状況で死んだもの……様々な理由で、遺書を書くことができなかった人間が存在する。K藤くん、残された遺族は何を望むと思うかね?」
 採用面接のとき、所長はそう問い、そして自分でこう答えた。
「それでも生き返ってほしい、ああ、誰かがあの人の遺書を書いてくれれば……だよ」

 魂の抽出に必要なものが肉筆の遺書でなければならない理由は今も不明だ。
 ただ他のものではうまくいかなかったという結果がある。肉筆であっても買い物のメモ書きやノートの数式では駄目。遺書であってもデジタルデータや新聞の文字を切り貼りしたものでは駄目。
 あくまでも肉筆の遺書でなければならない。
 魂の抽出所の職員は語る。
「エネルギーの問題と思われます。魂とは、人間の魂とは、とても高純度のエネルギーだ。それを取り出そうと思ったらそれだけ密度の高い情報でなければならない。それが遺書なんです。最も死を恐れ、最も生を望んだ文書。肉筆で、自分の身体で、魂の宿った身体で書いたそれだけが、高純度のエネルギーを取り出すことの出来る情報なんです」

 遺書を特殊な機械に読み込ませることで、魂は抽出される。
 見た目はシュレッダーに似ているし、実質的な効果も同じだ。読み込まれた遺書は裁断され、細切れになる。その細切れになった紙がミキサーにかけられ、水と混ざり、糊のように粘度を持つまで攪拌され、いくつものチューブを通った先で、魂という名のスライム状の物質になる。遺体の喉にそれを流し込むと、肉体が新鮮な状態に保たれていれば、遺体は息を吹き返す。
 こんな事例がある。
 父親を失った少女がいた。父親は遺書を残さなかったが、少女はどうしても父親に蘇生してほしかった。そこで少女は父親の遺書を偽造する。内容はでたらめだった。
 それを魂の抽出所に持っていって、少女は職員に頼んだ。
「これで父さんを生き返らせて」
 偽造された遺書と知らない職員は、手続き通りに魂を抽出する。そして少女の父親の遺体に、それを流し込んだ。
 遺体はどうなったか?
 結論から言うと蘇生した。だが、その中身は少女だった。
「偽造された遺書では魂は抽出できない。エネルギーが足りないからだ。本人の肉筆の遺書に足るエネルギーを作り出すのは、並大抵の者にはできない。が、稀に、エネルギーが作り出せてしまうケースがある。それだけの思いを持ったものが遺書を偽造した場合だ。だが、悲しいかな、どこまでいってもそれは、書いた人間の遺書だ。自然、抽出できる魂も、本人のものになる……」
 所長は仕事の合間、K藤にそう説明した。
「だから遺書の偽造に必要なのはね、調査なんだよ。本人以外には書けない遺書を書かなければ、その人間の魂は呼び出せない。調査、調査、調査。この仕事に必要なのは本人の肉筆を真似る技術じゃない。本人になりきる技術なんだ」

          ◆

 いつまでも首を縦に振らないK藤に業を煮やして、裕福な身なりの婦人は、ついにK藤の首を絞めた。
「なんで所長がいないのよ!」
「ですから、車に、轢かれて」
 あえぎながらK藤は言い返す。またこれか、と嫌な気持ちになった。首を絞められるのは五回目だ。
「車に轢かれたって、それなら蘇生してもらえばいいじゃない!」
「所長の、遺書は、なくて」
「なんでなのよ!」婦人はより激昂する。「こんな仕事しといて、なんで自分の遺書を用意してないのよ!」
 その通り。それがK藤にも疑問だった。
 遺書はここにあるから、なにかあったら使ってねと、所長はK藤に金庫の番号を教えていた。
 所長の言葉通り、遺書は入っていた。
 だがそれは所長の遺書ではなかった。これまでの仕事で所長が書いてきた遺書の控えがあるだけ。いつも同じ内容の遺書を二枚、所長は書いていて、それがどこにいくのかK藤はずっと疑問だったので、ここにあったのか、と驚いた。そして同時に困惑した。なんでここに?
 所長自身の遺書は、どこに?
「もういい!」婦人はK藤から手を離す。「死ね!」
 口汚く言い捨てると、婦人は事務所を出て行った。おまえが死ねと思いながら、K藤は何度も咳をする。
 首を絞められたことによる息苦しさと頭痛が消えず、そのままK藤はソファに横たわった。シートの裏はかびているが知ったことではない。
 電話が鳴った。機械的に出る。
「組長の娘の遺書を偽造するよう、頼んでおいたはずだが、出来ているのか?」
「ああ……」K藤の頭痛は悪化した。「その、所長が車に轢かれまして」
「二週間後が期限だ。イエス以外の回答はいらない。おまえが自分の臓器を生きたまま切除されたいなら、ノーと言ってもいいが」
 K藤は沈黙した。電話は切れた。
 受話器を床に投げ捨ててK藤は目を閉じた。何も考えたくなかったが、考える必要があった。
 所長に生き返ってもらわなければならない。こんな生活は限界だった。

          ◆

 失敗すれば遺体には別の魂が宿るという大惨事が起こる。それでも遺書の偽造を望む声は多かった。
 需要があるところには供給があるのが世の常だ。
 遺書の偽造は法的にグレーな分野だが、参入する業者は多かった。けれども大半は実力が伴っていなかった。他人の魂が入ってしまい、大切な肉親の身体を「もう一度殺す羽目になった者」は多く、その過程で心を病んでしまった可哀想な人間も発生した。
「遺書の偽造に失敗は許されない」
 所長は調査のために、依頼人の娘が好んで登ったという山を登りながら、同伴したK藤に語った。
「だから絶対に本人の魂が抽出できるよう、懸命な調査をするんだ。こうやって死者と同じように登山したりね。ポカリ飲む?」
 腕の良い偽造者は非常に珍しいという。そのなかでも、成功率が百パーセントのものは、世界でも十指に満たないという。
 所長はそのなかの一人だった。
「懸命に調査をしても、本人の魂を呼び出せない人は、多いです」
 慣れない登山に息を荒くしながら、K藤は訊く。
「所長が確実に本人の魂を呼び出せるのは、なぜですか?」
「努力さ」所長は微笑む。「ぼくは絶対に本人の魂を呼び出せる。絶対にだ。懸命な調査がそれを可能にする……いつか、君にもわかるよ」
 所長の言葉には説得力があった。
 K藤は彼を尊敬していた。自信に満ちた微笑みもそうだし、高額の依頼だけを受けることも出来るのに、誰が相手でも分け隔てなく、事務所に来た順番通りに依頼を受けるところも好きだった。そのためいつまでも古い木造の事務所に住んでいるのに、それを気にするところがないところも、好ましい。
 ただ、気になることもあった。
「それだけの努力を続けられるのは、なぜですか?」
 金でもない。女でもない。権力でもない。何のために頑張れるのか、K藤は疑問でならなかった。人間は高尚な生き物だと思っていなかったからだ。
 所長はいつものほほえみを浮かべた。
「自分のためであることは確かだよ」
 嘘ではないとわかった。けれども本当のところが何か、K藤にはわからなかった。

          ◆

 そんな所長の仕事ぶりをずっと間近で観てきたのだ。自分にもきっと出来るはず、出来なければ内蔵を生きたまま抜かれる、とK藤は重い腰を上げた。
 所長の調査をする必要がある。
 遺書の偽造には丹念な調査が必要だ。所長は何度も繰り返し語った。だから、まずそこから始めなければならない。

 所長は本名を高砂太一といった。享年三十五歳。男性。独身で、離婚歴はない。
 身長は一八二センチ。体重は七十九キロ。短髪で、髭は毎朝剃っており、いつもシャツとスラックスを着ていた。香水は付けない。整髪料はギャツビーのヘアムース。革靴は嫌いで、アシックスの黒いスニーカーを履いていた。
 子どもがほしいと言っていた。
 けれども女性には恵まれないようだった。正確には、彼の眼鏡にかなう女性に恵まれないようだった。言い寄る女性は多かったが、所長はすべての誘いを断っていた。断る文句はいつも同じ。
「君には本当のぼくは見抜けない」
 本当の彼とは?
 数値で表せる情報をいくつ集めても、K藤は所長の本質に迫っている気がしなかった。時間ばかりが過ぎていく。

 所長の両親は他界している。彼には兄弟もいなかったので、天涯孤独の身だった。
 過去を知るには旧友をあたるしかない。
 けれども所長の過去はさっぱりわからなかった。出身中学、高校、大学、すべて不明。そもそも出ているのかもわからない。学歴自体が不明だった。意図的に過去を消したとしか思えないほど、それは徹底していた。彼の過去のアルバイト先を尋ねても、残っていた履歴書に記されていたのは嘘八百の情報ばかり。住所からなにからすべて出鱈目だった。
 無理だ。
 所長の蘇生なんて、自分にはできない。
 内蔵を抜かれるまでの期限が三日を切った頃、すっかりすべてを諦めたK藤は、ありったけの映画を観ようと、事務所に転がっていたDVDを積み上げて、テレビの前で寝転んでいた。なんでもいいから何かで現実を忘れたかったのだ。そうしないと気が狂いそうだった。
 そのなかに、たまたま、彼を見つけた。
 十年前に撮られた、無名のフィルム。ちっとも話題にならずに消えた、いわゆるクソ映画。実際内容もつまらなかった。けれどもキャストの一人が、K藤の視線を引きつけた。
 所長だ。
 画面の中の役者の一人が、間違いなく、所長だった。

 その瞬間に、K藤の中ですべてが繋がった。

 遺書を偽造し、父親の身体に自分自身の魂を入れてしまった少女。熱心な調査を欠かさなかった所長。金も女も権力も求めず、それでも遺書の偽造を自分のためだと、彼は語った。そして金庫の中身。所長がこれまでの仕事で書いてきた遺書の、肉筆の控え。それを彼は、そうだ、言っていた。
 K藤は金庫の中身、遺書の控えを、上から何通か適当に掴み、事務所を飛び出した。
 タクシーを捕まえて魂の抽出所に向かう。そこで、職員に遺書の控えを手渡し、言った。
「これで、所長の魂を、抽出してください」
 すぐに手続きが行われた。
 冷凍保管されていた所長の肉体が解凍され、搬送される。遺書が機械に読み込まれ、チューブを通り、魂になる。
 確信があった。
 抽出された魂が、所長の喉を通る。横たわる彼の頬に赤みが差した。心臓が動き始める。
「蘇生しました」
 職員が言い、所長の肉体の瞼が開く。
 首が動き、その両目がK藤を見つめる。そして、K藤が何度も見た、あの穏やかなほほえみを浮かべた。
「気付いたんだね」
 所長はいう。K藤は頷いた。職員が退席する。蘇生の瞬間を邪魔しないためだろう。有り難かった。
 K藤は怒りを込めて言う。
「遺書の偽造なんて、所長はしていなかった。あなたが書いたのは自分の遺書だ。そして、遺体には――自分の魂を入れていた。貴方は死者を演じていたんだ。あの丹念な調査は遺書の偽造のためじゃない。演技を完璧なものにするためだった」
「その通りさ。何を怒っているんだい?」
「あなたは嘘つきだ。遺書の偽造をすると言っていたのに。遺族が望んだのは、演技をする貴方の魂じゃない。死者の魂だ。肉親の魂だ」
「そうだね。あれはそういう舞台だ」
「舞台……?」
「死者を演じるのさ。遺族が生に飽きるまで。遺族の誰もが死を選ぶまで、ぼくは演じ続ける。あれはそういう舞台なんだ。そう思っている。舞台の上でだけ、役者は本物になれるから」
「本物ですって?」
「そうさ。観るものがそう信じる限り」
 K藤は困惑した。理屈の上ではその通りだ。嘘は気付かれない限り、まかり通る。けれども、それでは、倫理はどこに?
 第一、嘘だと見抜かれて困るのなら……
「なぜ金庫に遺書の控えを? なぜ、なぜ、ぼくにそれを、自分の魂が抽出できるものだとわかるように、教えたんです?」
 問いかけると、所長はほほえみをやめた。
 虚ろな顔で、幽霊のような声で、
「見抜いてくれると思ったからさ。ぼくじゃないぼくが増えるたび、役者として嬉しいのと同じくらい、怖かった。ぼくの魂が、ぼく自身が、わからなくなっていくんだ……」
 そう、言った。