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 生物同好会の解散から二週間後の金曜日、お祖母ちゃんが心筋梗塞で病院に運ばれました。
 私が学校から帰ると、階段の終わりのところで、お祖母ちゃんが倒れていたのです。いつものように真っ黒な服を着たお祖母ちゃんは、いつもと違った真っ白な顔で、呼吸も浅く横たわっていました。私は急いで救急車を呼び、駆けつけた救急隊員に事情を説明し、お祖母ちゃんと一緒に病院へ向かいました。
 医師は即座に心筋梗塞の診断を下し、お祖母ちゃんは集中治療室に運び込まれました。不幸中の幸いだったのは、たまたまその位置で倒れただけで階段から転げ落ちたのではなかったことと、発症から発見までが非常に早かったこと。どうやら私が帰宅する数分前にお祖母ちゃんは倒れたらしく、結果として処置が早く出来たので容態はそれほど悪くないようです。
「けれども手術の必要はあります。容態次第ですが、おそらく明日には行えるでしょう。その後は入院です。リハビリ含め、退院までには一ヶ月ほどかかると考えていてください」

 お祖母ちゃんはその日のうちに意識を取り戻しました。
「心配かけてすまないね」
 人工呼吸器を付けたお祖母ちゃんは、つらいだろうに、こんな時まで私のことを気遣います。
「お金のことなら心配要らない。蓄えがあるからね。当面の生活費はタンスの中のへそくりを使いな。十万円くらいあるから。後のことは全部医者の先生に任せていい。信頼できるいい先生なんだ」
 私はお祖母ちゃんの手をぎゅっと握ります。お祖母ちゃんは、とても弱い力で握り返してきました。
「一人にさせてすまないね。留守番を頼むよ……」

 翌日土曜日、一日がかりで手術が行われました。結果は成功。私は胸を撫で下ろしました。
 術後の経過は良好で、一週間もすれば一般病棟に移れるそうです。入院期間は当初の見立てより少し短くなって、おそらく三週間ほどになるだろうとのことでした。

          ○

 よく家事を手伝っていたので、見よう見まねである程度のことは出来ます。洗濯、掃除、皿洗い。それらはそんなに難しくないです。
 けれども料理が駄目でした。
 何を作っても美味しくできません。味噌汁は水道水に野菜を浮かべただけみたいな味ですし、野菜炒めはなぜかべちゃべちゃ、炒めた肉は固くてかみ切れず、魚はグリルの中で炭になりました。
 私は早々に自炊を諦め、コンビニ弁当とお総菜に頼りました。
「……美味しくない」
 お祖母ちゃんは料理がとても上手で、それをいつも食べていた私には、やたらと濃いだけの出来合いの料理は、美味しくも何ともありませんでした。
 食べることが楽しくない。それは私にとって初めてのことで、そして、とてもつらいことでした。

          ○

 六月に入り、関東地方も本格的に梅雨入りしました。
 雨が続いていますが、こまっちゃんは毎日忙しなく部活に励んでいます。雨なら雨で室内練習があるようで、朝、昼、放課後、ずっと練習していました。聞くところによるとこの学校の女子ソフトボール部は県内でも屈指の強豪らしく、練習量もそれだけ凄まじいようです。
「やりがいあって楽しいけどね。ただしんどい!」
 こまっちゃんは歯を見せて笑います。
 最近は授業の合間の十分休みぐらいしか話していないので、深い話はできていません。彼女に相談したいことがたくさんあるのですが、ソフトボールに心血を注いでいるところに邪魔をしたくないこともあって、まだ何も言えずにいました。先生とのこと、お祖母ちゃんのこと……。
 如月先生とは、週に三度会っています。
 月曜日と木曜日と金曜日。それぞれ五十分ずつ、生物の時間に。個人的な話をすることはありません。してはいけないわけではないのですが、することができませんでした。そういう雰囲気ではないのです。先生も、私も。
 週に一五〇分。それが先生を見ることの出来る時間。
 十分な時間です。こんなものでしょう。私は先生のことを見ているだけでいいのです。だって、恋人でも何でもないのですから。

 帰りにツバメの巣へ立ち寄りました。先生は居ません。待ち合わせたわけでもないので当然でしょう。
 ツバメの雛は孵っていました。
 ぴいぴいと鳴いています。親鳥がくれる餌を大口開けて食べていました。
 あの雛たちはどれぐらいの間、そうやって親の庇護下で過ごすのでしょう。巣立ちまでにかかる期間を、私は知りませんでした。

          ○

 夜、ガタガタと窓の鳴る音で目覚めました。
 獣の咆吼みたいな風音が外から聞こえます。台風が近づいているとニュースで言っていたことを思い出しました。寝直そうと枕に顔を埋めますが、一度起きてしまおうと風音が気になって仕方ありません。
 水でも飲もうと立ち上がり、リビングに向かいます。
 お祖母ちゃんの家は、曾祖父と祖父と父がかつては住んでいたこともあって、かなり広いです。二階に二部屋、一階に和室とリビングと客間、という間取りになっています。現在利用しているのは一階だけで、二階はほとんど倉庫になっていました。たまに何かを取りに行くとき以外、二階に上がることはありません。つまり、この家は一人きりだと持て余すものなのです。
 無駄に広い家は、よくありません。最近、ひしひしとそう感じます。
「寒い」
 夜は冷えます。外の気温はさほど低くないですし、私は長袖長ズボンという格好なのですが、それでも冷えるのです。物が少ないから、人が居ないから、合理的に考えるのなら、理由はそういったところでしょう。
 電気を点けます。蛍光灯のスイッチを押す音が反響するほど静かでした。キッチンへ行き、コップを取って、蛇口を捻って水を出します。
 ……例えば、そう、棺でしょうか。
 建物は人が利用するために生まれてきます。そして人が利用しなくなったときに死んでしまいます。死んだ建物の中には生きているものは居られません。棺と変わらないのです。そしてこの家は一人きりだと持て余し、二階はほとんど死んでいます。一階は生きているのでしょうか?
 私が来るまで、お祖母ちゃんはずっと一人で、この家に住んでいました。そして病で倒れてしまった。
 今は私が一人残って、棺の中で生きています。
「……え?」
 水を飲み終え、コップを置いたとき、視界の端に何やら、嫌なものを見つけてしまいました。
 それは黒く、光沢を帯びていて、二本の触覚と六本の脚を持ち、天井へ向かって壁を這っています。
「――嘘。やだ、嘘」
 助けを求めようと周囲を見ます。誰も居ません。当然です。私一人でどうにかするしかありません。
 バルサン、殺虫剤、ホウ酸団子、そういった単語が頭の中を高速で駆けていきます。全部手元にはありません。いえ、あるのかもしれませんが、どこにあるのかは知りません。よって必然的に化学的措置ではなく、物理的措置を取ることとなります。
 それのサイズは頭からお尻までが目測で七センチほど。今まで見たどんなものよりも巨大でした。
 叩けば潰れます。大きさ七センチの昆虫を潰したことはありませんが、どんな感触かはなんとなく予想できました。それがどれだけ不快かも。
「うう、うううう」
 ですがやるしかありません。私は震えながら手近にあった新聞紙を手に取り、丸めて持ちます。
 標的は頭上の食器棚の扉、その表面の天井近くの位置で静止していました。動く気配はありません。私の背丈なら、ジャンプせずとも新聞紙の先端は届きます。
 息を吐き、吸い、止め、私は新聞紙でそれを殴りつけました。
 命中した、最初はそう思いました。それは床に落下して弾みます。死んだ、勝った、私はそう考えました。浅はかでした。それは何事もなかったかのようにカサカサと身体を動かし、素早く床を這い出します。そして、私の足の甲に這い上りました。
「ぎゃーっ! あーっ!」
 足を振り、声を荒げ、私は無我夢中で腕を振りました。

 仕留めたのはその三分後。潰れて平になったそれを私はティッシュで幾重にも包んで捨て、割れたコップを片付け、欠けた爪を爪切りで整えました。
 一匹居ると他にも何匹か居るといいます。それが怖くて不気味で、布団に入って瞼を閉じても、身体が震えて眠れません。
 結局、少しうとうとしただけで、私はその日、ロクに眠れませんでした。

          ○

 寝不足の身体に鞭打って学校へ向かいます。
 風はますますひどくなっていて、激しい雨も降っているのですが、まだ公共交通機関は動いているようでした。台風はいよいよ関東に直撃しようとしていて、このままだと帰りの電車が止まるかもしれないのですが、学校からの連絡はないので行かざるを得ません。
 家から駅までは自転車で十五分。そこから電車で二駅移動し、学校まで二十分かけて歩く。これが私の通学経路となります。片道およそ一時間ほどかかります。
 ですから学校に着いた頃には濡れ鼠になっていました。一応カッパは着ていたのですが、安物だったので強風の前には大して役に立たなかったのです。スカートはプリーツが消え、ベストは水でふにゃふにゃ、ブラウスはおろか下着までびっしょりでした。服はジャージに着替えればいいですし、靴下は替えを持っていましたが、下着までは用意していなかったので、椅子に座るととても気持ち悪いです。
 こんなに苦労して学校に来たのに、
「はい皆聞いて。本日は台風の影響で帰宅が早まります。授業は二時間で終わりです。その後は部活動や委員会活動は厳禁、速やかに帰宅してください」
 朝礼で担任の先生は、そんな冗談みたいなことを言いました。
 一部の生徒が歓声を上げましたが、大半の生徒は押し黙りました。皆気持ちは同じでしょう。なにしろほとんどの人がジャージ姿です。
「だったら最初から休みにしろよって感じだよね。ごめん。お役所仕事なんだ、上の人らが」
 先生が申し訳なさそうに頭を下げます。嘆息しながら、私は窓の外を眺めました。景色はほとんど見えません。見えるのは黒い空と雨だけ。
 そのまま流れるように授業へ。二時間だけなのであっという間に終わりました。
「よーし、久々にゲームするぞー」
 部活動が休みなので、こまっちゃんは家でくつろげるようです。
「シオちゃんと一緒に帰るの久しぶりだね、そういえば」
「そうですね」
 そのとき、外がカッと光り、遅れて雷鳴が轟きました。近くに落ちたようです。
「うわー、こりゃひどいね。停電するかも。小まめにセーブしなきゃ」
 ジャージから生乾きの制服にもそもそと着替えながら、こまっちゃんは言います。先に着替え終えた私は外を眺めて、雨で真っ白な外を確認し、そこでようやく思い出します。
「――ツバメ」
「うん? シオちゃん、何か言った?」
「ごめんなさい。こまっちゃん、私用事があるんです。先に帰っていてください」
「え、いや待つけど、あ、ちょっと!」
 脱ぎかけたジャージの内側でブラウスのボタンを止めている彼女を後に、私は教室を飛び出します。

 巣は壁から消えていました。引きちぎられたような跡だけが残っています。親鳥も雛も見当たりません。
「そんな」
 私は慌てて周囲を探します。
 敷地の端、校舎の裏。人通りなんてほとんどなくて、だから整備もされていません。雑草は生え放題で、砕けた巣を見つけるのにも三分ほどかかりました。
 そしてその三十秒後、一羽の雛の死骸を見つけました。
「……あぁ」
 死後どれだけの時間が経ったのでしょう。雛の身体は冷たくて、木の板の上に濡れた毛を付けたみたいな手触りになっていました。
 つい昨日まで、あんなに元気に鳴いて、生きていたのに。
「ごめん……ごめんね……」
 謝罪の言葉が口を突いて出ます。何で謝っているのか、自分でも分かりませんでした。
 それからもしばらく辺りを探しましたが、他の雛や親鳥は見つかりませんでした。私は校舎の根元の雑草を抜き、泥濘んだ地面を手で掘って、雛を埋めます。

 飛び出してから三十分ほどで教室に戻ると、もう誰も残っていませんでした。こまっちゃんの姿もありません。私の鞄は私の机の上で、捨てられた子犬みたいにぽつん残されていました。
 女子トイレで手を洗い、頬に付いていた泥を落とします。
 トイレから出ると、見回りをしていた担任の先生と鉢合わせました。
「お、逢沢、どこ行ってたんだ。下校時間は過ぎてるから早く帰れ。あ、小松は帰らせたから、連絡しておくんだぞ。心配していた」
「……はい。すぐ帰ります」
 来たときと同じように、役に立たないカッパの上から鞄を背負って、私はひとり、家路に就きます。

 こまっちゃんに連絡する気力は残っていませんでした。電車に揺られ、自転車をこぎ、私はなんとか帰宅します。
 靴を脱ぐことも出来ずに、私は玄関で倒れ込みました。
「疲れた……」
 瞼を閉じたら一瞬で寝てしまいそうでした。けれどもこんなところで眠るわけにはいきません。服を脱いで、身体を拭いて、洗濯機を回して、お風呂を沸かして、ごはん作って、食べて、洗濯物干して、ああ、そうだ、なっちゃんに餌をあげないと……
「餌……」
 絶対に忘れちゃいけないことを最初に片付けようと、私は寝転んだまま靴を脱ぎ、自分の部屋にしている客間へ四つん這いで向かい、机の上の水槽に手を突っ込みます。
 なっちゃんはすぐ手を突っつきに来ました。けれどもその動作は気持ちいつもより緩慢で、調子でもよくないのかな、と私は水槽を覗き込み、
「――え?」
 その変化に困惑しました。
 澄んだ青色をしていた貝殻。それがどうしてか、今はくすんだ茶色になっています。今朝までは確かに青かったのに。
「なんで、どうして」
 最初に病気を疑いました。けれども見たところ、貝殻の色以外に変化はありません。食欲はあるみたいですし、緩慢なだけで動き自体はいつもと変わりません。ですから次に老化を考えました。アノナツモドキガイは加齢と共に貝の色を変える習性があると、ある文献に書いてあったのです。けれどもそれは死の間際になってからのことで、寿命を考えるとなっちゃんにはまだまだ先のことのはずです。
 例えば私が飼育法を間違えていて、既に死にかけたりしていない限りは。
「でも、準備室のときと何も、変えてないのに」
 頭が真っ白になります。先生に聞かなくては、すぐにそう思いましたが、どう連絡を取ればいいのでしょう。電話番号もラインも交換していない……とそこまで考えて、学校にかければ繋がることに思い当たりました。
 すぐさまスマホに手を伸ばします。けれども電源が切れていました。肝心なときに役立ちません。私は家の電話に駆けます。
 次の瞬間、外から耳をつんざくような轟音が聞こえたかと思うと、頭上の蛍光灯が消えました。
「――停電?」
 呟いて、それが意味するところを理解し、私は床に崩れ落ちました。
 電話は使えません。外部と連絡を取ることは出来ないのです。なっちゃんの変調を、私にはどうすることも出来ません。
 けれども、それ以上に。
「……ふっ、うっ」
 久しぶりに先生と話せるって、そう思ったのに、出来なかったことがつらくて。
「うう、ううう、う」
 なっちゃんの安否が分からないのに、そんなことをつらがっている自分が嫌になって。
「うううぅぅぅ」
 お祖母ちゃんが倒れて、家でひとりで、寂しくて、ごはんがちゃんと作れなくて、お腹が減っていて、家にはあの黒い虫が居て、そのせいで全然眠れてなくて、でも頑張って学校行って、ずぶ濡れで、ツバメは死んでて、こまっちゃんと一緒に帰れるはずだったのに出来なくて、なっちゃんは茶色くなってて。
 もういっぱいいっぱいで、限界で。
「あああああぁぁ」
 私は声を上げて泣きました。
 真っ暗な部屋の中で、力尽きて倒れてしまうまで、泣いて、泣いて、泣いて……

 そして案の定、翌朝には風邪を引いていました。