猫が目を覚ますと、執務室に居た。
 絨毯はふかふかだ。執務机の裏には巨大な旗が立てられている。キャビネット、八つのソファ、ローテーブル、ラックといった家具が並んでおり、小規模な会議と事務処理を行うことに特化した作りになっていた。
 部屋の色調は暗い。絨毯と壁紙は焦茶、家具には黒檀が用いられ、花瓶とカーテンは鉛色だった。ソファの革も烏羽色なので、黙って座っているだけで気が滅入ってくる部屋だった。
 猫は絨毯の上を転がって仰向けになる。点けっぱなしの蛍光灯だけが明るかった。
(いっそ電気が消えてれば、二度寝にぴったりの部屋なのに)
 もう半回転してうつ伏せになり、猫は欠伸する。
 そのとき執務室の扉が開いた。
「なんだ、点けっぱなしじゃないか」
 入ってきたのは壮年の男性だ。艶めく黒髪を後ろに撫でつけている。頑丈そうな体格をしており、胸板は成熟したオークのように分厚い。眼差しは知的で、シャープな輪郭線は無駄をそぎ落とした数学的人格を連想させる。けれども纏った雰囲気は合理主義者のような冷徹さではなく、博愛主義者のような柔和さがあった。
「総理、休憩時間は五分です」
 扉の向こうから几帳面そうな女性の声がした。
 壮年の男性は不愉快げに振り返る。
「分かっている。この五分が今日唯一の休憩だということもな。一人にさせてくれ」
「申し訳ありません」
「いや。すまない、ストレスだ。ついカッとなった。五分だけもらうよ」
「はい。五分後にお呼び致します」
 扉が閉められる。交わされた会話から、猫は目の前の男性が総理大臣であると認識した。
(総理って確か、一番偉い人間のことだっけ。美味しいもの食べてるんだろうな)
 猫はまた半回転して仰向けになる。その物音によってか、総理大臣が足下で寝転ぶ猫の存在に気がついた。
「おや猫が居るじゃないか。これは一体、まさかテロ?」
 顔を真っ青にして、総理大臣は猫を抱き上げる。手つきが乱暴だったので猫は身悶えた。親指がお腹に食い込んだのだ。
「爆弾は付いてない。体内からも異音はない。すると細菌、でもバイオセンサーは鳴ってないか。ふむ、単なる猫らしいな」
 総理大臣は猫を下ろす。不愉快な思いをした猫は唸った。次いで乱れた毛を繕う。
「扉は閉まっていた。窓も、閉まっているな。しかし電気は点いていた。私の消し忘れでないとすると、この猫は誰かが運んできてくれたのか?」
 首を傾げながら、総理大臣は猫を見つめる。猫は睨み返した。
 見つめ合うこと数秒。やがて総理大臣は吹き出し、疲れた笑みを浮かべながら猫の正面に腰を下ろした。
「五分しかないのに、何を悩んでいるんだろうな私は。可愛い猫がたまたま休憩時間に現れてくれた。これはラッキーなことで、それ以外の何でもない。だろう?」
(そんなこと聞かれてもな)
 猫は自慢のふわふわしっぽを舐める。舐めながら、偉い人間でも絨毯の上に座ったりするんだな、とぼんやり思った。
 総理大臣は胡座を掻き、猫背になって、他人が吸ったら過労死しそうな息を吐いた。
「この国はもう駄目だ。他の国と同じように」
 呟きながら、総理大臣は猫の頭を撫でる。
「私にはもうどうにも出来ないんだ。平等な社会は終わった。人口減少もインフレも産業の衰退も止まらない。対策を講ずるにも国費は尽きたし、そもそも世相は無政府主義に傾いている。おまけに隣国とは一触即発の状態ときた。もううんざりだ。私にはどうにも出来ん。私にどうしろと言うんだ」
(そんなこと聞かせてぼくにどうしろって言うのさ)
 怒り心頭といった様子で、総理大臣はさらに続ける。
「大体なんだ、総理は民衆の心が分かっていないって、分かるわけないだろう。朝起きてから夜眠るまで秒刻みのスケジュールが先数年間びっしりだ。休憩は取れて一日数分、飯を選んでる時間もない。腹の具合が悪いだけでだけでSPが細菌テロを疑う。だというのに牛乳の市場価格? 庶民の節約術? サラリーマンの勤務時間? 知るものか。私に分かるのは世界の行く末ぐらいだ」
 唾が飛んできたので、猫は顔を拭った。
 総理大臣はまだ続ける。
「戦争は避けられない。そして始まればすぐ世界規模に広がる。なにしろどこも資源不足だ。行くところまで行くだろう。大気は汚染され、人口は七桁以下にまで落ち、情報は断絶して、旧石器以前に戻って穴蔵の中で生きる、そんな行く末が目に浮かぶよ。もう私にはどうにも出来ない。だから休ませてくれ。疲れたんだ。ああ、こんなこと猫にしか言えない」
 放散されていた怒気はいきなり萎んだ。梅雨明けしたときの紫陽花みたいに、総理大臣は項垂れる。
「嘘を吐いて生きてきたよ」
 零れたのは湿った呟き。
「胸を張って、毅然として、大丈夫だって言ってきた。希望に満ちたマニフェストを掲げた。全部嘘だ。でも国民を裏切ったつもりはない。もう駄目だから諦めろなんて言うくらいなら、私は嘘つきの汚名を着るさ。それが国のトップというものだ。ただ、少し疲れたよ」
 猫を撫でていた手が止まる。
「本当は最愛の妻と息子と、静かに釣りがしたかった。でも私は総理大臣なんだ。かつて父がそうだったから。いつか妻が望んだから。息子が誇ってくれるから」
 涙は浮かばない。強い瞳を湛えて、総理大臣は苦笑した。
「難しいな。愛する人を裏切りたくないだけなのに」
 扉がノックされ、直後に開けられる。
「総理、時間です」
 さっきと同じ、几帳面そうな声。その女性は背筋を真っ直ぐに伸ばし、パリッとした白のブラウスを着て、スチール製の眼鏡をかけていた。タイトなスカートから伸びた脚は官能的な曲線を描いてピンヒールに吸い込まれている。隙のない立ち姿だ。
「もう終わりか」
「はい、ちょうど五分です」
「時間に正確な秘書が居てくれて助かるよ」
「申し訳ありません」
「いや。今のは私が意地悪だった。行くよ」
 猫の頭をくすぐってから、総理大臣が立ち上がる。そのとき秘書が猫に気付いて眉をひそめた。
「総理、その猫は?」
「私が戻ってきたら居たんだ。どこからか侵入したんだろう。テロの心配はない。確認した。侵入経路を確認して塞ぐよう、SPに言っておいてくれ。まあ、おそらく誰かが私を猫好きと知って持ち込んだんだろうが、一応な。あと君はこの猫を逃がしてやるように」
「分かりました。あの」
「なんだね?」
 秘書の顔が耳まで赤く染まる。硬い外観はメッキだと示すように。
「今度はいつ、わたしを」
 けれども続く言葉を、総理大臣の怒声が拒んだ。
「やめなさい。君は私の秘書だ。それ以上でも以下でもない。私からの指示を受け、私への要請を伝えるだけでいい。決して自分から発信しようとするな。何かを望むなら私の指示を待つんだ」
 それは猫に零した愚痴に籠もっていたのとは全く異質の憤怒。火山の噴火に似た、聞くものを怯ませる声だった。
 秘書の手足は針金のように固まる。今や隙だらけとなったその姿は、燃え尽きてしまったブリキの兵隊みたいだった。
「では私は行く。その猫を頼むぞ」
 平時の口調に戻ってそう言うと、総理大臣は秘書の脇を通り、速やかに部屋を出て行く。後ろ手に閉められた扉が、音を立てて閉まった。
 その扉に秘書は背中を付ける。
「あぁ」
 零れた吐息は悲しげだけれど、微かに艶めいてもいた。
 秘書は潤んだ瞳でじっと、執務机を見つめている。やがてその身体は扉から離れて、視線の先へと向かった。執務机の縁をピアニストみたいな指先で薄くなぞって、秘書はもう一度、さっきと同じ吐息を漏らす。
「あんなに」
 呟きの意味は猫には読み取れない。けれどもその言葉が堰を切ったのか、秘書は床に崩れ落ち、声を上げずに泣き出した。
 なぜ秘書が泣いているのかも猫には分からない。けれどもなんだか、猫まで悲しくなってきた。そういう泣き方なのだ。鼻の奥をつんとさせるような。
(泣かないで)
 猫は秘書に近寄って頬を舐める。驚いたように身を強張らせてから、秘書は猫をじっと見つめて、そのあと抱き寄せた。
「馬鹿よね、わたし。嘘つきだって知ってたのに」
 もう一度、猫は秘書の頬を舐めた。くすぐったそうに秘書は笑う。
「ありがとう。もう大丈夫よ。貴方のおかげで救われたわ」
 それから秘書は猫を抱き上げて、部屋を後にした。
 彼処に美術品が飾られている豪華な廊下を抜け、建物からも出る。空は夕色に暮れていた。秘書は建物正面の石畳を歩き、巨大な石像の脇を抜ける。そのまま庭園の片隅に向かい、そこで猫を下ろした。
 猫はまた乱れてしまった毛を繕う。
 秘書はしゃがみ込んだ。
「好きなところへお行き。どこにも行くところがないなら、わたしが飼ってあげるわ。ごはん作るの下手くそだけど」
(ごはんが不味いのはちょっとな)
 毛繕いを中断して、猫は秘書から離れる。追いかけてくる気配はなかったので、のんびり歩いて移動した。
「ふん、いいのよ別に。あんなやつとおさらばして、料理の特訓して、可愛い猫飼って、年下のぼうやと遊んでやるんだから」
 背後からは毅然とした声。猫はその響きに不思議な安堵を覚えながら、誰にも見られなさそうな庭の奥へ移動する。
 暮れゆく日差しが温かい。だから瞼を閉じたらすぐ、猫は眠りに落ちてしまった。