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私が風邪を引くと、お母さんは決まっておじやを作ってくれました。
「土鍋に水を張り、出汁作り、ごはんを入れてネギ入れて、醤油めんつゆ溶き卵、火を止めかき混ぜ出来上がり」
そうやってレシピを歌いながらお母さんが作ってくれるおじやは美味しくて、本当に美味しくて、風邪を引いていてつらくても、食事の時間だけ私は嬉しくなるのでした。
でももう、お母さんはいません。
そして私は、自分一人では、おじやを作ることもできないのです。
○
ごほごほ咳き込みながら寝ていられたら楽なのですが、一人しか居ないのでそうも言ってられません。
服を脱ぎ、身体を拭いて、清潔なパジャマに着替えます。歯を磨き、ベッドの脇に塩の入った小瓶と水、それと洗面器を用意します。電気はとっくに復旧していたようなので学校に連絡を入れて欠席すると伝え、ついでに如月先生に代わってもらうよう頼みますが、生憎先生は席を外していました。アノナツモドキガイの様子がおかしいので質問したいことがある、と先生に伝えるようお願いして、私は電話を切りました。
なっちゃんの様子を確認します。人工プランクトンをスポイトで多めに滴下すると、いつも通り食べました。すぐさま死んだりはしないだろうと当たりを付け、そのあたりで意識が朦朧としてきたので諦めて布団に潜り込みます。
体温は四十度。こんなに熱が出たのは初めてです。
「えほっ、げほっ」
咳をしても一人、といったのは誰だったか。ぼやけた頭ではそれさえ出てきません。
死ぬかもしれない。冗談ではなくそう思いながら、気絶するように眠ります。
○
お父さんについて聞くと、お母さんはいつも泣きそうな目をして押し黙りました。きっと傷が癒えていなかったのだろうと思います。ですから私は父についてほとんど何も知りません。写真もロクに見たことがありませんでした。けれども、そのことで母を恨んではいません。私だって、今誰かにお母さんのことを聞かれたら、きっと同じような反応をします。
ですから、お祖母ちゃんからお父さんの話を聞けたことが、私はとても嬉しかったのです。
「いい子だったよ。素直で、優しくて……まあ、ちょっと野暮ったいとこあったけどね。ファッションとか。わたしが言えた義理じゃないけどさ。いっつも黒か紺の服着て、黒縁眼鏡で、でもまあスタイルよかったからね。背高くて細くて。モテたみたいだよ。あんたのお母さんが嫉妬するくらいにね」
背が高くて、黒縁眼鏡で、痩せていて。
ああ、なら――きっと、私のお父さんはとても素敵な人だったのでしょう。
会いたいと思いました。話がしたかった。聞いてもらいたいことがたくさんあるのです。でも出来ません。決して会うことは出来ないのです。
胸がきゅうと痛みました。
ひとりぼっちです。私はちっぽけで、皆が当たり前のように出来ることさえ、一人じゃ何にも出来なくて、何にも知らなくて、だから、ひとりぼっちなのでしょうか……?
○
おでこに誰かの掌が触れるのを感じて目を覚まします。
骨張っていて、ごつごつとした、男の人の手。
「誰……?」
夢うつつのまま問いかけます。声は掠れていて、発すると喉が痛みました。
目を開けます。視界はぼやけていて、よく見えません。でも、黒縁眼鏡をかけた細身の人が私の傍に居るのは、見えました。
「……お父さん?」
「すみません。起こしてしまいましたか」
返ってきたのは、私のよく知る声でした。体格の割に少し高めの、優しい響きを帯びた声。
私の大好きな声。
「こんばんは、逢沢さん。こうして二人で話すのは、久しぶりですね」
夢だと思いました。こんなに都合のいいことが起こるはずないって。
先生がここに居るはずなんかないって。
「どうして……」
「伝言を受け取ったのです。アノナツモドキガイと、貴方の体調が優れないと。心配になって来てしまいました。インターホンを鳴らしたのですが応答がないので、最初は返ろうと思ったのですが、貴方の家庭事情は私も聞いていまして。何気なく扉に手をかけたら開いたので、失礼を承知で上がらせていただきました」
「……なっちゃんは、アノナツモドキガイは……」
「平気ですよ。命に問題があるようなことは何もありません。むしろ貴方のほうが大変です。少し失礼しますね」
先生は私の頭を抱えるようにして起こします。
「口を開けてください」
言われるがままに私は口を開けます。そこにストローが差し込まれました。
「はい、吸って。スポーツドリンクです。水分をちゃんと取らないと駄目ですから」
私はストローを吸いました。ぬるくなったスポーツドリンクが口に入ってきます。水で薄めてくれているのでしょう、喉を通っても痛くありませんでした。
頭の下にある先生の腕は、見た目よりずっと逞しくて、私を包み込んでくれます。
そうして飲み物を吸っていると、なんだか赤ん坊の頃に戻ったようでした。お父さんが居て、お母さんが居て、私が居る……。
そう考えると、次第に悲しくなってきました。
お父さんはもう居ません。お母さんも。それなのに私はまだ、赤ん坊みたいに何も出来ないまま……。
「はい、終わりです」先生が私を下ろします。「また眠ってください。次に起きたとき、立ち上がれるようでしたら、ごはんを作ったので食べてください。リビングに置いてあります」
先生は立ち上がります。
「鍵はかけて、郵便ポストに入れておきます。勝手にお邪魔してすみませんでした。僕はこれで」
先生は踵を返して去ろうとします。
私は重たい腕を懸命に動かして、そのスラックスの裾を掴みました。
「行かないで……」涙が零れます。「一人にしないでください……」
「しかし、もう日が暮れました。これ以上居たら……僕は……」
「嫌……嫌……!」
子供みたいに、赤ん坊みたいに、私は駄々をこねます。
涙が溢れて止まりません。何の涙かも分からないのに。
「ここに居てください……私、私、何にも出来ない。怖いんです。お願い、私は、一人は嫌。でも、何にも出来ないから、私、誰とも一緒に居られない……!」
自分でも何を言っているのか分かりませんでした。ですから先生にはもっと、何を言っているのか分からないでしょう。
けれども先生は私の枕元に座って、布団から出した私の右手を握りました。それは強くもなく、弱くもない、ただ傍に居ることを示すためだけの、柔らかな握手。
「君が思っているほど、僕は大層な人間ではありません」
呟くように、先生は言いました。
「高校に上がるまで、ずっと泣き虫でした。スポーツは出来なくて、勉強も算数以外は何も出来なくて、人付き合いも苦手で……休み時間はいつも図書室に逃げていたんです。そこで色々な生き物の図鑑を眺めるのが好きでした。でも好きなことをしているだけではやっていけないんですね。学校には色々なイベントがあります。運動会、球技大会、合唱祭、マラソン大会……皆の足を引っ張ってしまったり、皆の前で恥をかいたり、そういうことがしょっちゅうでした。それが僕は嫌だった。プライドが高かったんです。何も出来ないくせに。だからしょっちゅう泣いて……泣き虫太郎、というのが僕のあだ名でした。名前の光太郎からきたものでしょう。そうやってからかわれて、また泣いて……。
小、中とずっとそうでした。だから高校に進学するとき、少し遠くの学校を選んだのです。自分を知ってる人が誰も居ない場所で、一から始めようと思いました。でもとても不安だった。なにしろ泣き虫でなかった頃がないのです。どんなに頑張ったところで、自分は泣き虫太郎以外の何者にもなれないのではないかと思いました。同年代の男はもう人前で泣くことなんかなくなっているのに、自分だけが泣き虫で、だから皆から馬鹿にされて、小、中と同じように、一人も友達が出来ないんじゃないか……一生こうなんじゃないか……そんな不安でいっぱいになって、入学式の会場に行けなかった。怖かったのです。
そのとき、入学式に合わせて部員勧誘に来ていた、生物部の先輩と出会いました。
先輩は部員勧誘の準備そっちのけで、ダンゴムシを捕まえていました。何のためなのかは結局最後まで分からなかったのですが、とにかくダンゴムシを捕まえていたのです。入学式をサボってぼーっとしていた僕は先輩に見つかってしまい、それを手伝わされました。ノルマは十匹だ、と先輩は言いまして、僕は二十三匹捕まえたんです。そうしたら先輩は大喜びしまして……おまえは見所がある、絶対に生物部に来い、と……嬉しかった。親以外の誰かに必要とされたのは初めてだったのです。ここに居てもいいんだと……何にも出来ない自分も生きていていいんだと、そう思えました。
僕は生物が大好きになりました。必死に勉強して、環境生物学を深く学べる大学に進みました。才能がなくて研究者にはなれませんでしたが、運良く教職に就けまして、生物学に携わって生きることができるようになったのです。
教師になった僕は、こう思いました。かつて先輩が僕にしてくれたように、いつかは僕も、生徒に生きる希望を与えられるような教師であろう。それがとても自然なことだと思えたのです。僕が学んできた生物とはそういうものでした。受け取って、与えて、生き物は巡っていくんです。
そして今年の四月、僕は君に出会いました」
先生が私を見つめます。いつしか私は泣き止んでいました。
そして、互いに互いの手を、とても強く握っていました。
「同じだって、すこし話して気が付きました。僕は君と同じだと。だから君が生物部に入りたいと言ってくれたとき、とても嬉しかった。先輩がしてくれたのと同じことを、自分も出来ていると思えたのです。
でも違いました。君は僕のことを好きだと言ってくれた。
あれから、君のことばかり考えています。見える景色が、吸い込む空気が、こんなに素晴らしいものだとは思わなかった。与えるなんておこがましい。僕は君から、とても大切なものを受け取ったのです。君は僕に、とても大切なものを、与えてくれたのです……」
開いたほうの手で、先生は私の頬を撫でます。
涙で乾いた私の頬に、先生の手の温もりが伝う。
「何にも出来なくなんかない。君は、僕のことを好きだと言ってくれたではありませんか」
視界がまた滲みます。
「先生」私は呼びます。「先生」
「はい」
「好きです」
「はい」
「大好き」
「はい」
「一緒に居てください」
「はい」先生は答えます。「もちろんです」
○
翌朝には熱は引いていました。
私は立ち上がってリビングに向かいます。丼に冷えたおじやが入っていました。レンジでチンしてそれを食べます。刻み野菜がたくさん入った、食べ応えのあるおじやでした。母の作ってくれたものとは違うけれど、とても美味しいおじやでした。
家の中はしんとしていて、私以外の人は居ません。
扉の郵便受けから家の鍵を回収します。そして私は、夜の内にこっそりと帰る先生の姿を想像しました。
「嘘つき」
呟いて、しゃがみこんで、私は泣きました。