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 海の音について、母は何度も語りました。寄せては引いていく波、歩く度に踵を打つサンダル、踏みしめる砂、髪をさらう風、彼方から聞こえる汽笛。その一つ一つを、囁くような小さい声で、宝石箱から取り出すように。
 母は海を愛していました。
 朝焼けの橙が青に溶けて、ゆっくりと一日が始まる頃に、牛乳配達のアルバイトをしていた母は、合わせ鏡みたいな空と海をよく眺めたといいます。目を閉じると今でも、網膜に映り込んだその青色が思い出せるそうです。
「耳に残るのは潮騒だけで、目覚ましの音も犬の吠え声も、ずっと鳴っていた嫌な言葉も、すうっとどこかに消えてくの。あとにはただ、どこまでも澄んだ青色と、それを眺める私が居るだけ。ほんの一瞬、朝のはじめの、あの潮騒が好きだった」
 やつれた頬にえくぼを作って、母は私の手を握りました。
「貴方にも見せてあげたかった」
 それが母の最期。
 遺言に従って、母は父と同じお墓に入りました。不思議なことに母は、あれほど好きだと語った海ではなく、父と一緒に眠ることを選んだのです。きっと、海以上に父を愛していたのでしょう。もっと時間があれば、私は母から惚気話を聞くことが出来たのかもしれません。そうすれば、私が生まれたばかりの頃に交通事故に遭った父のことも、もっと知ることが出来たでしょう。けれども結局、聞けずに終わってしまいました。
 母は素敵な思い出を、いくつも持っていたのです。
 その全てを知ることが出来なかったことが悔しくて、悲しくて、私は少し泣きました。

          ○

「へえ、岐阜の出身なんだ。どうしてまた埼玉に?」
「父方の祖母の家がこっちにあるんです。一緒に居たいと思って、高校入学を機に越してきました」
 入学式の直後から暗い話をしたくなくて、私は両親の死を告げずに説明します。隠し事をしたことで、胸がちくりと痛みました。
「ふうん、にゃるほど」
 隣席の小松さんは納得したように頷きます。ついさっき初めて会話した、入学してから最初に出来た友達が彼女でした。大きな両目と、生まれつきらしいくるくるの茶髪と、気ままそうな雰囲気、それらが全て猫を連想させます。
「じゃあお祖母ちゃんと暮らしてるん?」
「はい、二人暮らしです」
「いいなー、静かそう。うちなんかすっごい大所帯だからさ」小松さんは唇を尖らせます。「お祖父ちゃんでしょ、お祖母ちゃんでしょ、おとんとおかんとお兄とお姉、あと妹と、猫が二匹、金魚と亀とハムスター。毎日すっごいうるさくて。自分の部屋もないしさあ」
 不満たらたらといった口調で、椅子を斜めに傾けながら、彼女は愚痴をこぼします。けれどもきっと本心は、そんな家族を気に入っているのでしょう。優しい表情を浮かべていました。
「楽しそうな家ですね」
「えー? 脱衣所でおとんと鉢合わせするんだよ? 信じらんないよ、もう」
 彼女の唇がさらに尖ります。まるで鴨の嘴みたいに。
 そのとき、教室の前の扉が開いて、担任の先生が入ってきました。丸いお腹をした、開口一番に「念のため言いますが、妊婦ではありませんので」と言い放った先生です。その後ろから背の高い、黒縁眼鏡を掛けた細身の男性も入ってきます。
 その男性を見て私は声を上げそうになり、慌てて両手を口に当てました。
「皆さん、入学式お疲れ様でした」
 担任の先生は労いの言葉と簡単な連絡事項を述べ、一年間よろしくと、改めて挨拶しました。
「最後に副担任の先生を紹介します。如月先生」
「はい」
 細身の男性が一歩前に出ます。
「如月光太郎といいます。一年間よろしくお願いします」
 そう言って、如月先生は丁寧に礼をしました。その顔が上げられたとき、先生の視線と私の視線が、真っ直ぐにぶつかります。私は、咄嗟に、顔を逸らしてしまいました。俯いて、目を隠そうと、前髪を引っ張ります。
 頬と耳が熱くて、心臓の音がいつもより大きく聞こえました。

「如月先生、すっごい背高かったね」
 帰り道、小松さんは脈絡もなくそう口にしました。二人とも電車通学であることが分かったので、私たちは一緒に帰ることにしたのです。
「えっ!? あっ、はい」私は彼女から目を逸らして、前髪をいじります。「そうですね、はい。長身でした」
「何センチくらいだろうね。一八〇は超えてるとして、一九〇あるのかな」
「どう、でしょう。あるかもしれませんね、はい」
「……どったの。挙動不審だけど」
「いえ、そんなことないですよ?」私は首と手を振ります。「ないですとも」
「ふうん?」
 小松さんの目がきらりと光りました。けれども彼女は言葉を続けません。にやけながら私を見つめるだけです。それは修学旅行の夜に友達の意中の人を聞いているかのような表情でした。
「違います」私は思わず否定しました。「入学式が始まる前に、偶然会話した先生が、如月先生だったんです。あの人が副担任だなんてすごい偶然だって、そう思っただけで、決してそういうあれではありません。違います」
「逢沢よ。逢沢潮よ」小松さんは私の肩に手を置きます。「あたしは何も言っておらぬ。何を慌てておるのだ」
「……話題を変えましょう」
「オッケー。じゃあ呼び方なんだけどさ、逢沢さんのことはどう呼んだらいいかな。あっ、あたしのことは小松でも頼子でもどっちでもいいよ。あだ名を付けてくれてもいいし。ただこまっちゃんって呼ぶのだけはやめて。困ったちゃんみたいで嫌だから」
「私も、逢沢でも潮でも、どちらでもいいです。あだ名は……前にシオちゃんって呼ばれてたことがあります」
「いいじゃんそれ。ならあたしもシオちゃんって呼ぼう。いい?」
「もちろん。私は頼子さんって呼んでもいいですか?」
「いいともシオちゃん。ふふ、これで呼びやすくなった」
 頼子さんは微笑みます。つられて私も頬を緩めました。
 そんな和やかな流れに乗って、頼子さんは尋ねてきます。
「シオちゃんってああいう冴えない感じの人が好きなの?」
「……やっぱり呼び方、こまっちゃんでもいいですか?」
 気持ちが緩んだ隙を突いてくるだなんて。油断も隙もあったものではありません。

          ○

 正直なところ、私は如月先生に惚れていました。恥ずかしながら一目惚れです。一目見た瞬間に好きになったわけではないので厳密には違うのかもしれませんが、一度会っただけで恋してしまったので、一目惚れといっても過言ではないでしょう。
 あれは今朝のことでした。
 正門をくぐる前まではそうでもなかったのですが、くぐった瞬間から、私の胸中は不安でいっぱいになっていました。住み慣れた地元を離れ、親しくはあるけれどまだどこか他人行儀な祖母と暮らしながら、まだひとりも友達の居ない学校に通う。小、中と生まれ育った街の公立校に通っていた私にとって、それは初めてことでした。考えると不安で、涙が出そうなほど怖くなることもあって、だからなるべく考えないようにしていたのですが、正門をくぐるとどうしても、これから先の学校生活に思いを馳せてしまいます。
 友達はできるのか。勉強に付いていけるのか。周りを見ると私と同じ新入生が、入学式なので親と連れだって歩いています。けれども私はひとりぼっちです。祖母は足が悪いので、一緒に来ることは出来ませんでした。
 きゅうっと胸が痛くなって、私は立ち止まってしまいます。無力感が、まるで夕立みたいに身体に降りかかってきました。何一つ上手く出来ないのではないか。誰とも馴染めないのではないか。周りが賑やかなこと、ひとりぼっちで佇んでいること、それらの所為もあったでしょう。
 私は人の流れから離れて、静かな場所に逃げました。
 敷地の端の校舎まで走って、その裏手に回り込んで、私は膝に手をつき、切れた息を整えます。それから何度か深呼吸をしました。それで気分は少し落ち着きましたが、無力感は消えません。まるでお皿の端によけた嫌いな給食みたいに。
 如月先生から声をかけられたのは、そのときでした。
「あの、新入生の方ですか」
 落ち着いた響きの、話しているのに物静かな印象を受ける声。けれどもこんなところに人が来るなんて思っていなかった私はびっくりして、跳躍するバネみたいに振り返ります。
「すみません。驚かせてしまいましたか」
 申し訳なさそうに、如月先生はそう言いました。
 背が高くて、ひどく痩せていて、黒縁眼鏡を掛けていて、そのレンズの向こうに優しい目がある、そうした特徴をすぐに捉えます。大人の男性はどちらかというと苦手だったのに、如月先生のことは不思議とそう感じませんでした。たぶん、あまりにも痩せているからだと思います。もし取っ組み合いになっても、私のほうが勝てそうなぐらい、如月先生は細いのです。たぶん細身の型であろう紺のスーツを、先生は相当なゆとりをもって着ていました。
「迷ってしまったのですか? 新入生の教室はあっちですよ」
 先生は私が元来た方角を指さします。私は俯きました。行きたいとは思えません。怖かったのです。入学式がというよりは、これから始まる学校生活や、もしかしたらこれからの人生全てが。けれども私は新入生で、入学式に出ないわけにはいきません。私は諦めて元来た道を引き返そうとして、
「あ、ちょっと待ってください」
 なぜか、如月先生に呼び止められます。
「あれ見てください。見えますか? あそこの、校舎の壁面」
 先生は私の頭上を指さしていました。その指の先に視線を送ります。
 そこにはお椀型の、泥か何かを固めたようなものがありました。それが何かはすぐに分かります。過去に何度か見たことがありました。
「ツバメの巣」
「そうです」如月先生は微笑みます。「実はこのあいだ、あの巣にツバメが帰ってきたんです。いまは留守にしているようですが、餌でも取っているのでしょう。たぶん四月の終わりから五月中頃ぐらいには、あの巣に卵を産むと思います。そうしたらその二週間後には雛が生まれます」
 まるで親友の子供が生まれるかのように、とても嬉しそうに先生は語ります。聞いているこっちまで幸せな気分になるような口調でした。
「よかったらまた観に来てください。人が近くを通るというだけで、天敵のカラスが寄りつかなくなったりしますから」
 如月先生はそう言いながら、腕時計に視線を落とします。
「引き留めてしまって申し訳ありません。じき入学式が始まります。新入生は一斉に入場するので、一度教室へ向かってください」
 頷いて、私は元来た道を引き返します。
 もう怖くはありませんでした。
〝よかったらまた観に来てください〟
 この学校に居てもいいのだと、そう思えたと同時に、無力感はすうっと消えてなくなったのです。
 入学式が始まってからもずっと、私は先生のことを考えていました。
 そして私は、先生に恋していることに気付いたのです。

          ○

「学校はどうだった?」
 夕食を作るのを手伝っていると、味噌を溶かしていたお祖母ちゃんがそう尋ねてきました。
「楽しかったです。友達も出来ました」
「そうかい。それなら良かった。それが何よりだからね」
 しわくちゃの口元をもっとしわくちゃにして、お祖母ちゃんは言います。
 お祖母ちゃんは、田舎で薬草を煎じているような、善良な魔女の雰囲気を持った人です。いつも黒い服を着ていて、植物の知識が豊富で、庭で採れたハーブでお茶を作るのが趣味。キッチンでおたまをかき混ぜる姿は、神秘を成しているかのよう。寿命で亡くなってしまったそうですが、少し前までは黒い猫を飼っていたそうです。今年で六十五歳という年齢のわりにはしわが多いですが、背筋は真っ直ぐに伸びていました。外出するときはお洒落なハットを被って、右手に英国製のステッキを持ち、ヒールを履いて、胸を張って歩きます。ですから、魔女みたいな人でした。
 母が亡くなるまで、私はほとんど祖母と会ったことがありませんでした。そのため黒ずくめのお祖母ちゃんのことが、少し怖くもあったのです。
「お友達、いつでも連れてきていいからね。美味しいお茶菓子、買っておくからさ」
 微笑みながらお祖母ちゃんは言います。
 強張っていた心が、その笑顔に解れていくのを、私は感じ取ります。今ではもう、お祖母ちゃんを怖いとは感じませんでした。それどころか、すぐに仲良くなれるような、そんな予感さえ覚えます。
「あとは好きな人さえ見つかりゃあ完璧だね」
 歌うようにお祖母ちゃんは言います。私はなんだか気恥ずかしくて、その場で少し足踏みしました。

          ○

 恋したから告白するとか、デートに誘うとか、そういった具体的な事柄についての欲求は、私の中にはありませんでした。先生の傍で、先生のことを見ていられるのなら、それでいいと思ったのです。
 けれども、ぼんやりと日々を送っているわけにはいきませんでした。
 如月先生は私のクラスの副担任であると同時に、生物の授業の教師でもあります。生物の授業は週に三回。月曜日と木曜日と金曜日に、それぞれ五十分ずつ。朝礼と終礼は担任の先生が行うことが多いので、如月先生を見ることができるのは、実質週に一五〇分だけ。
 あまりにも短すぎます。
「シオちゃん、部活決めた? というか部活動に興味ある? よかったら部活見学に付き合ってほしいんだけど」
 こまっちゃんにそう頼まれて一緒に部活見学をしている間も、私は如何にして如月先生と会う時間を増やすか考えていました。けれども妙案は浮かびません。
 茶道部、演劇部、美術部と巡ったところで、こまっちゃんは困り顔で立ち止まりました。
「うーむ、おしとやかなおんにゃの子を目指そうとしたけど、やっぱあたしは文化部タイプじゃないっぽいなー。あとは吹奏楽部、書道部、生物部……いまいちだなあ」
「……あの、その一覧表見せてください」
 生物部、という言葉が気になって私は一覧表を見ます。そこに顧問の先生の名前は書いてありません。けれども生物部という名前を冠しているのですから、生物教師が務めている可能性は高いでしょう。

 広い第一理科室を科学部が、狭い第二理科室を生物部が利用しているとのことでした。私はソフトボール部を観に行くこまっちゃんと別れ、一人で第二理科室に向かいます。
 この学校はマンモス校で、各学年に十以上の学級が存在します。そのため校舎も複数あるのですが、建築時期には差があるため、新旧の校舎でかなり使い勝手が違います。新しい校舎では廊下は広く、ロッカーはぴかぴか、トイレも白くて清潔ですが、古い校舎では何もかもが狭く、くすんでいます。
 第二理科室は古い校舎の隅に位置していました。
 とこどころが欠けたリノリウム。何かで擦ったような黒い汚れが目立つ壁。元は白かったであろう蛍光灯の傘はクリーム色になっていて、壊れた蜘蛛の巣や綿埃がくっついています。お世辞にも綺麗とは言えませんし、無理して言えば失笑を買うでしょう。そんな廊下を歩いて、第二理科室へ向かいます。窓が北に面しているので昼でも薄暗く、第二理科室以外は資料室や倉庫ばかりが並んでいる区画であることも相まって、人の気配は希薄です。
 歩く度に足下のリノリウムは軋み、時には割れて音を立てました。
「うう……」
 ホラー映画は決して見られない私です。こうした場所は得意ではありません。夜には決して来られないでしょう。昼で、外から笑い声や吹奏楽部の練習が聞こえるような時だから、何とか歩けているのです。
 おばけだとか怪談だとかの発想を頭から閉め出しながら歩いて、ようやく第二理科室の扉の前に辿り着きます。中から物音は聞こえません。人の声や動く気配は一切ないです。部員募集の張り紙や、活動を示す看板なども一切ありません。
「活動してないんでしょうか……」
 呟いても答えは返ってきません。
 怖い思いをしてここまで来た以上、手ぶらで帰るのは癪というものです。私は勇気を出して扉をノックします。
「ごめんください」
 返事はありません。再度ノックします。けれどもやはり返事はなし。
 何気なく扉に手をかけると、鍵はかかっていませんでした。
「……お邪魔します」
 第二理科室に足を踏み入れます。怖いので扉は閉めません。
 室内は暗く、ひやりとしていました。クーラーを付けているわけでもないのにです。六つある机の上には木製の椅子が乗せられていて、窓側には顕微鏡やビーカー、メスシリンダーが行儀よく並んでいます。
 人の姿はありません。やはり生物部は活動していないのでしょうか。一覧表には毎日活動とあったのですが……。
「……お邪魔しました」
 帰ろうと踵を返します。
 そのとき、扉のすぐ裏側に置かれていた、人体模型と目が合いました。
「きゃーっ!」
 半身が骨、半身が筋肉、ぎょろりとした目と絡みついた血管。薄暗い理科室、それも人の居ない第二理科室でそんなものを見て悲鳴を上げなかったらそれは相当の強者でしょう。私は違いました。尻餅まで付いてしまいます。
 同時に、背後からがたがたと物音。誰も居なかったはずなのに!
 私は震えながら縮こまります。膝を抱えて丸くなりました。背後なんか見られません。今にも涙が出そうです。
「どうしました!?」
 聞こえたのは、覚えのある声でした。体格のわりに高くて、でも落ち着いた響きのある声。
 私は目を開けて振り返ります。
 そこには、髪をぼさぼさにした如月先生が立っていました。

「すみません、気付きませんでした。実をいうと先程まで昼寝をしていまして」
 眼鏡をかけ直しながら先生は言います。言葉通り、先生は今まさに寝起き、といった風体でした。寝癖の付いた髪、袖をまくったワイシャツ、かすかに汗ばんだ肌。決して密着して座っているわけではないのに、先生から香る男の人のにおいが気になって、私は少しそわそわしながら周りを見ます。
 そこは第二理科室のすぐ隣にある準備室でした。第二理科室とは中扉で繋がっている部屋です。準備室には試薬棚や電子天秤など、高価であったり危険であったりするものが仕舞われているようです。先生はその準備室に、少しいい椅子と、足置き、上着掛け、小さな机と本棚を置いていました。まるで秘密基地を作る男の子のように。そしてつい先程まで、ここでお昼寝をしていたそうです。
「あの、内緒ですよ」
 恥ずかしそうに先生は言います。何のことか分からず、私は首を傾げました。
「僕が昼寝をしていたことです」先生は言葉を足します。「校長先生や教頭先生に知られたら、怒られてしまうのです。教師が学校で昼寝をするとは何事か、と」
「怒られてしまうのですか」
「怒られてしまいます。僕はそれが嫌なのです。とても」
 真面目な顔で先生は言います。それがとてもおかしくて、私は噴き出してしまいました。
「言いません、絶対」
 その約束はとても子供っぽくて、だから私はなんだか温かい気持ちになりました。
「それで逢沢さんは、どういったご用があって第二理科室に?」
「生物部を見学に来たのです」
 名前を覚えてもらえていたことを嬉しく思いながら、私は説明します。
「ああ、なるほど、部活見学ですか」先生は頷きます。
「毎日活動とあったのですが、今日はお休みなのでしょうか?」
「いえ、今日も活動していますよ」
「え? ですが……」
「現在、生物部には部員が居ないのです。ですから、活動日に活動しているのは顧問の僕だけなのです」
 遠くを見るような目をして、先生は説明します。
「先月、生物部に在籍していた三年生二人が卒業しました。それを以て当部活は在籍生徒数がゼロになってしまったのです。歴史ある部活なのですが、活動内容は学校周辺に生息する動植物の調査と観察という非常に地味なものです。スマートフォンで手軽にインターネットが楽しめる今日、生徒にとっては面白味がないのでしょう。廃部は免れません。一応部員募集はしていますが、これからの高校生活を謳歌するべき新入生には、正直あまりお勧めできる部活では」
「入ります」
 先生の説明を遮って、私は宣言します。先生は両目をピンポン球のように見開きました。
「あの、入りますとは」
「入部するということです。私をこの部に入れてください」
「いや、しかし、他にも面白い部活は山ほどあります。あるいは学外で習い事に勤しむことだってできるでしょう。ここのような存続も危うい部活を選ぶ必要は」
「あるのです、私には」
 特に部員が私一人だけならば。
 私は狼狽する先生の両目をじっと見つめます。こめられる限りの熱をこめて。
「生物部に入れてください」
 先生は二、三度瞬きをすると、姿勢を正し、背筋をぴんと伸ばして、両膝の上に手を置き、私に頭を下げました。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 こうして私は、生物部に入部しました。

 その年の新入部員は私一人だけで、入部から二週間後には、生物部は生物同好会に格下げされ、活動費が下りなくなりました。
 先生は少し落ち込んでいましたが、私はちっとも気になりません。
 その頃には、第二理科室までの薄暗い廊下が大好きになっていました。