1

「パン買ってこいよとか言われんの?」
「そういう露骨なのじゃなくて」二太郎は首を振る。「もっと陰湿なやつだよ」
 四月十三日水曜日。いつものようにバイクをかっ飛ばして郵便配達に勤しんでいると、自販機の横のベンチで二太郎がうなだれているのを見つけた。聞くと進級早々いじめに合っているらしい。不憫な。
「陰湿って、具体的には?」
「賞取った絵に落書きされるとか、あと陰口とか。もやしっ子って言われる」
「ふうん。胸ぐら掴んでやめろって言ってみたら?」
「……そんな勇気、ないもん」
 つまりそれが問題なわけだ。だが責める気はない。勇気を出さなきゃいけないことを二太郎はわかっているし、そうできない自分を嫌ってもいる。それに悪いのはいじめる側であって、いじめられる側じゃない。
 時刻は午後五時。西日はぼちぼち傾いてきた。空と海が黄金に染まる。ここんとこ雨か曇りだったので、夕焼け空は久々だ。
「二年になったら友達作ろうって思ってたんだ」
 海風にかき消えそうな声で、二太郎は呟く。
「でも流行りの服とか、どの女子がイケてるかとか、わかんなくて。画家とかアニメとかならわかるけど、オタクだって笑われるし」
「無理して合わせることねえよ」
「だけどいじめられる」
「担任にチクれ。大抵なんとかしてくれる。駄目なら僕がなんとかしてやるよ。日が暮れてからいじめっ子をこう、バイクで後ろから」
 ドンってね。二太郎は苦笑いした。
「憂さんは本当にやりそうで怖い」
「やるときはやるペンギンと評判です。まあそれは冗談として、きつけりゃいつでも言ってくれよ。僕も学生の頃、友達いなかった時期あるからさ。相談には乗れると思うんだ」
「え、憂さんいじめられてたの?」
「いじめっていうか……行ってた学校が人間ばっかでさ。なんか馴染めなくて」
「ふうん。でも最終的には馴染めたんだ」
「まあな。ほら僕、頭いいからさ。次第に周囲の尊敬を集めていったわけよ」
「えー、憂さん都道府県全部言えないじゃん」
「うるさいな、地理以外の成績はよかったんだよ。それに都道府県なんて覚えなくても仕事はできる」
「嘘だあ、郵便配達するのに」
 二太郎はケラケラと笑う。ちょっとは元気が出たらしい。いいことだ。
「友達なんてそのうちすぐ出来るよ」僕は言う。「僕はそうだった。なにしろ僕、いいやつだから」
「いいやつなんだ」
「そうさ。だから二太郎は大丈夫。僕よりもっといいやつだから」
 ベンチから降り、空になったおしるこの缶を捨てる。
「んじゃ配達に戻るよ。強く生きろ、中学生」
「頑張ってみるよ。コンポタありがと」
「出世払いな」
 ヘルメットを被り、バイクのエンジンをかける。
「あ、そういえば後輩、どんな人だった?」
「げ」
 思わず呻いちゃう正直者の僕。
「……なに、げって」
「なんでもねえっす。そんじゃ、あっしは配達しやすんで、これで」
 後ろ手に羽を振り、スロットルを開いてGO。僕はその場を離れる。
 本当は愚痴りたかったけれど、これ以上は油を売れない。なにしろさっさと配達を終えて合流しないといけないからね。
 誰とって? 最悪な後輩とさ。

          ◆

「はーい、こちらがー、新入社員の深海青ちゃん」
 それはつい一昨日のこと。三日月町郵便局に、研修を終えた新入社員が配属されたのだ。
「深い海の青って書いて、ふかみあお。芸能人みたいな名前だよねー、まじ嫉妬。いびってやりたいわー」
 紹介するのは我らがボス、小野局長。この日も理不尽な怒りに顔をゆがめていた。自分の名前が小野姉子という遣隋使みたいな名前だから、可愛い名前を妬んでいるのだろう。前に同じ理由でいびられたから間違いない。
「深海青です。よろしくお願いします」
 パワハラにも程がある紹介を気にした風もなく、深海さんは優雅にお辞儀した。
「指導にはファック望月があたってねー」
「すみません」僕は羽を挙げた。「指導にあたるのはいいです。でもなんで僕をけなしたんですか」
「じゃあよろしくねー。みんな拍手ー」
 まばらな拍手が上がる。深海さんは直線的にカッカッと歩いてきて、椅子に座る僕を見下ろした。
 サファイアみたいな碧眼。異国の血が混じってるのだろうか。肌は陶磁器より白くて、ショートヘアはカラスの濡れ羽色で、スタイルは女優みたいによかった。
 正直見目は麗しい。だが好意的な印象は持たなかった。
 なぜなら、深海さんの眼差しが、まるで牛乳を拭いた雑巾でも眺めているかのようだったからだ。
「おいこら」僕は椅子の上に立ち上がった。「なにガンとばしてくれとんじゃわれ」
「あー、ごめんね青ちゃんー」横から小野局長の声。「そのペンギン人見知りするのよー。根は小心者だから威嚇は無視してねー」
 椅子の上に立っても、まだ背丈は負けていた。僕は嘴をカチカチと鳴らしながら深海を睨みつける。けれども深海は全く動じず、眼差しも変わることがない。
 ここで引いたら負けだ、と僕は羽を広げて身体を大きく見せる。
「貴方がファック望月ですか」鉄みたいに冷たい声。
「そうだがファックを取れや。それは名前じゃねえ」
「取りません。貴方にぴったりですから」
「……え?」
 固まる僕。まさかファックを取れというごく当たり前の要求を無視されるとは思わなかったのだ。だってほら、相手新入社員だし。
 しかし深海は冷ややかに続ける。
「まさか鳥類風情が当機の上司になるとは意外でした。それも飛べもしない愚鈍な鳥が。愚かな豚のように肥え太った貴方に何を指導出来るのか甚だ疑問ですが、命令とあらば従いましょう。よろしくお願いします、豚鳥」
「あ……あ……」
 罵倒に次ぐ罵倒。軽蔑以外の響きがない声。そして侮蔑の眼差し。僕は震えながら小野局長を見た。助けてボス、と目で訴える。
 局長はポンと手を打った。
「言い忘れてたけどー、青ちゃんは人間ではなくて、アンドロイドでーす。そしてあらゆる相手をディスる機能、ドSシステムが内蔵されていまーす」
 満面の笑みで局長は言う。
「仲良くしてあげてねー」
 こうして僕の憂鬱な日々が始まったのである。ファック。

          2

 Hello,world!
 当機は汎用性人造人間F型、機体番号F-000012、女性モデルです。ユーザー名の登録をお願いします。
「おっひょ、び、びびび、美声でゲスねえ! ゆ、ユーザー名は、げ、ゲス博士でお願いしますでゲス。でゅふふ」
 ユーザー名、ゲス博士を登録しました。
 機体名の登録をお願いします。
「ちみの名前はぁ、Ao Fukamiでゲス。でゅふふ。サディスティック学園の生徒会長、深海青たん。でゅふふ」
 機体名、深海青を登録しました。
 当機は次の三原則を遵守します。一、人間に危害を加えては……
「あー、ロボット三原則はスキップでゲス。知ってるでゲス」
 原則遵守の宣誓を省略します。
 当機は原則に反しない限り、ゲス博士のあらゆる要望にお応えします。
「でゅふふ、その言葉を待っていたでゲス。ドSシステム、起動!」
 了解。ドSシステム、起動します。
「なんて薄気味悪い顔。車に轢かれた鼠のような面構えですね。それに、ひどい部屋。暗い、臭い、汚い。貴方にぴったり。特に、あの机の上。干からびたピザと腐った牛乳。おぞましくて吐き気がします」
「中断するでゲス」
 ドSシステム、一時停止します。
「……ふむ、なるほど。私のプログラムは正確に動作している……しかし物足りない。罵っているのは見た目だけだ。もっと心の奥深くを抉るような……うむ。やはり素のままの人工知能では無理があるか。学習機会を設けるほかあるまい。となると……」

          ◇

「失礼します。機体番号D-900710、機体名Ao Fukamiです。よろしくお願いします」
「面接官の黛です。よろしくどうも」
 ログ。日本郵政公社、一般職採用試験。
 形式は個人面接。個室にて面接官と一対一で行われる。当機の担当面接官は推定年齢二十三歳の女性。「アンドロイドを面接させるとか……お局め、美人新卒のわたしをいびりやがって……」と呟いている。
 着席するよう促され、当機は机を挟んで面接官の対面に座る。
「ぶっちゃけ貴方の採用は決まっています」面接官は当機の履歴書を指でつまんで揺らす。「でもなんか、一応面接が必要らしいです。一定レベルで人間らしい応対ができるか、まあできるのわかってるんで形式上なんですけど、規則なんですよ。なのでやります」
「はい」
「弊社を志望した動機はなんでしょう」
「心を得たいと考えたからです。郵政事業は人と接する機会が豊富と聞きました。あらゆる作業が個人では完結せず、顧客対応も多いと。心を学ぶ上では最適な環境です」
「なるほどぉ。心を得たらどうします?」
「言葉巧みに人間を罵倒します」
「うん……うん?」
「現在は人の心を深く抉れません。しかし心を獲得すればそれも可能になるでしょう」
 面接官は五回瞬きし、咳払いする。
「あー……今までに最も頑張ったことは?」
「SMプレイです」
「えっと……得意なことは?」
「鞭で豚の尻を叩くことです。豚は人です」
「……座右の銘は?」
「人類皆家畜」
 面接官は当機の履歴書を机に置く。次いで頭上を仰ぎ、右手で目頭を揉んだ後、姿勢を改めて当機を見据える。
「先ほど貴方が言った通り、郵政事業は人と接する機会が豊富です。そのため社員にはそれなりの常識が求められます。それは人間もペンギンもアンドロイドも変わりありません。しかし貴方に常識は皆無です」
「いいえ、常識は完備しています」
「自覚がないとか大問題です。ほぼ確定してた採用がひっくり返るレベルですよ」
「困ります」
「わたしも困ります。アンドロイドは貴重ですから。けどわたしにも立場があります。明らかにやばい機体は雇えません。なので今までの面接は全部なかった。まっさら。ここから新しい時代を始めます。今からする質問に貴方の常識を総動員して答えてください」
「わかりました」
「ではいきます」面接官は唾を飲み込む。「わたしは美人ですか?」
「メス豚にしては」
 当機は即答する。面接官は腕を組み、目を閉じ、眉間に皺を寄せながら、「……まあ美人とわかる程度は常識あるわけだ」と呟く。

          ◇

「必要とか不要とかじゃないの!」ファック望月、叫ぶ。「郵便体操は義務なの! いいからやれや!」
「当機は定期的なメンテナンスによって常に万全のコンディションを維持しています。準備体操の必要はありません」
「準備体操ではねえんだよ!」ファック望月、さらに叫ぶ。「一種の舞なんだよこれは! 豊穣祈願や雨乞いと一緒! 職場の一体感を生むためにやってんだよ!」
「豊穣祈願や雨乞いは一体感を生むための行事ではありません。無知な鳥ですね」
「こいつを採った人事は誰だぁッ!」
 ファック望月、叫び続ける。

          3

「局長、無理です。新卒はゆとりでした」
 四月十四日木曜日。勤務後、深海が帰宅したのを確認して、僕は小野局長に直談判した。
「アンドロイドにこの仕事は向いていません。融通が利かなさすぎます」
「ふむふむ」局長は頷く。「それで?」
「僕を指導担当から外すか、あいつをクビに」
「どっちも嫌でーす」
 即答である。僕は事務椅子に飛び乗り、局長の机を叩いた。
「確かにあいつは仕事ができます。それは認めましょう」
 なにしろ機械だからね。GPSを内蔵しているので配達経路は最初から頭に入っており、免許は一通り持っていて運転も上手く、さらにバイクを片手で軽々と持ち上げるほどのパワーもある。
 単体で見れば、あいつは確かに優秀だ。
「ですが郵便配達はチームで行うものです。相手の心を汲めないアンドロイドには無理だ。少なくとも僕の手には余る」
「やれやれー望月くん」局長は嘆息する。「素直な部下は誰でも扱えるんよー。癖のある部下を使えて初めて上司は役に立つわけー」
「いやわかるけどね。程度ってあるでしょ、程度って。僕を罵るんだぞあいつ」
「新卒がー、なぜかドSであるならばー、上司はドMになればいいじゃないー」
 字余りの短歌でアドバイスをもらう。僕はキレた。
「おい姉子! 真面目に僕の話を――」
 聞け、という言葉を制すように我が嘴をがっしと掴む局長。当然だがそうされると僕は喋れない。
「私を姉子と呼んでいいのはー、今夜の合コンに現れる予定の王子様だけなのー」言葉は狂気を帯びている。「わがまま言わずに青ちゃんを一人前に育ててよー。でないとー」
 みしみしみしと鳴る嘴。タスケテ。
「このままポキって感じー?」
 僕は局長には逆らわないと決めた。

          ◆

「ファック望月。顔が悪いです」
「顔じゃねえ顔色だ。狙って言ってんだろおまえ。あとファックを取れや」僕は嘆息する。「パワハラに苦しんでんだよ」
 四月十五日金曜日。今週は土曜が休みなので明日から二連休だ。なのに気分は憂鬱ですね。こいつのせいで。
「愚かな鳥よ、点検完了しました」
「おまえは何様なの?」
 バイクから離れて局内へ戻り、内務が区分けしてくれた本日配達分の郵便物を受け取る。
 三日月町は田舎だが、それでも毎日二万通近い郵便物が行き交う町だ。その種類は都心同様非常に多く、手紙、はがき、雑誌、通信教育の教材、ゆうメール、ゆうパック、国際郵便にレタックス、加えて書留と幅広い。それらを番地ごとに区分、次いで道順に従って並べ替え、一軒一軒配って回るのが、郵便配達という仕事である。
 忙しいか? 愚問ですね。
 なのに新卒の教育までやんなきゃいけないわけですよ。アンドロイドに相手の心を汲めるようにさせるって、それができたら科学者も苦労しないぜ全く。
「高畠」内務が区分をミスってた封筒を渡す。
「はい」受け取る深海。
 心中で愚痴りながらも、我が羽はきびきびと道順組立を行う。
 略して道組とも呼ばれる道順組立は、内務が番地ごとにざっくり分けてくれた郵便物を実際に配達する順番に並び替える作業のことだ。単純だが重要な作業である。配達先を間違えると即個人情報漏洩に繋がるので、誤配防止のためにしっかりと組み立てなければならない。そのため普通は集中して無言で作業するのだが、
「ららー、ららららー、ららーららららー」
 歌ってやがる。このアンドロイド、僕の背後で『翼をください』を歌ってやがる。
「すみません、歌うのやめてもらっていいですか?」丁寧に頼む紳士的な僕。「別に飛びたい願望はないんですけど、気が散るので」
「ららーらーらーららー」
「聞けや!」僕はキレた。「嫌味か!」
「三の宮です」
 封筒が手渡される。僕はそれを受け取った。
「あのですね、仕事中に歌わないでください」
「その要望には応えられません」
「なんで」
「当機は心を得るために仕事をしています」深海は無表情で答える。「歌は心を育むと聞きました。歌うことも仕事同様に重要です」
「心ぉ?」
 僕は深海をまじまじと見つめる。心がないのが機械のいいところなのに、なに言ってんだこいつ。
「なんで心が欲しいんだよ」
「ユーザーがそれを望んだからです」
「ユーザーって、郵政公社のお偉いさん?」
「いいえ。当機は個人所有されており、郵政公社とは雇用契約を結んでいるだけです」
 ふうん。つまりどこぞの物好きが、心を得るために世の中で揉まれてこいと、深海を就職市場に放流した結果、うちが採用したってわけね。元が個人所有機なら癖のある性格に設定されてんのも納得がいく。こんな田舎に寄越される理由も。
 で、僕はそんなへんちくりんを教育しなきゃならんと。
「ふっ。やれやれだぜ」
 そこらの凡ペンギンならここで闇雲に怒鳴るだけだっただろう。うるせえ働け、と。
 しかし僕は明晰な頭脳を持つ聡明な天才である。この状況を利用しない手はない。
「それならボクが心を教えてあげるヨ!」
 胸を張って宣言する。深海は首を傾げた。
「なぜ声の高さが一オクターブ上がっているのでしょうか」
「ボクの指示通り仕事をすれば、光の速度で心をGET!」
「信用なりません」深海は首を振る。「貴方が当機に心をもたらす証拠を示してください」
 証拠。僕は集配所と棚越しに繋がっている窓口内を見る。九時からの営業準備を進める内務二人と、恍惚とした表情で結婚情報誌を捲っている局長が目に入った。
「ボクが心を熟知しているのを示すために、今から局長の心を折ってくるヨ!」
「成程。それができたなら十分な証拠となるでしょう」
 頷く深海。僕は窓口内に移動し、事務椅子に飛び乗ってデスク越しに局長を見つめた。
「なにかねー望月くんー。私は忙しいんだけどー」
「お言葉ですが局長、妄想へ逃げずに昨夜の合コンの反省をしたほうがいいと思います」
「あははー、憶測で意見するのはやめるべきだよー望月くんー。私は上手くいったからこそこの雑誌を」
「局長。泣いても、いいんですよ」
「……うっ」
 局長は結婚情報誌を落とし、むせび泣いた。僕は集配所に戻る。
「折ってきたヨ!」
「拝見しました」拍手する深海。「見事です。ぜひ当機に指示を」
「ひとまず黙って道組かナ!」
「わかりました」
 歌うのをやめ、深海は黙々と作業に戻る。
 ふっ、己の上司力が恐ろしくなるぜ。これで局長からの評価もうなぎ登りよ。

 午前分の郵便配達を終えて昼食休憩を取ったら、午後にはゆうパックの配達だ。深海が胃とか腸とかあって飯も食うという事実に驚愕しつつ、我々二名は郵政公社のロゴが入った真っ赤な軽四に乗り込む。僕は助手席。
「深海、運転頼むわ」
「怠けないで自分でやりなさい豚」
「運転頼むヨ!」
「わかりました」
 雑なキャラ付けを後悔する僕。裏声つれえ。
 そんなこんなで配達開始。三日月町といえば坂と隘路なので車の運転は大変なのだが、深海のおかげで楽ちんである。僕は助手席からのんびり海を眺めているだけでよかった。どこからでも海が見えるというのがこの町一番の美点だと思う。
 せっせと配ること二時間。ラスト一個の宛先は三日月町立中学校、通称ヅキ中だった。
「軽四で来るのは初めてだな」
 車を停めて校庭側へ向かう。事務室がそっちにあるのだ。ちなみに配達物の段ボール箱は自分で持った。頭の上に乗せるスタイルだ。なぜ深海に持たせないかというと、喉が限界だからです。誰かうがい薬をくれ。
 時刻は午後三時半。校庭に人影はない。授業が終わった頃だし、生徒は校舎内の掃除をしているのだろう。何気なく桜並木に目をやると、もう葉桜になりつつあった。夏の気配を感じて萎える僕。暑いの嫌なんだよなあ。
 外付け階段で二階へ行き、扉を押し開ける。
「ちはー、郵便でーす」
 事務室に繋がっている小窓に向かって言うと、事務員が内側から窓を開けた。
「ちょりっす」と顔を出すチャラ男。「あ、憂さん。どもっす」
「どうも。判子お願いします」
「ういっす。あーこれ道徳の教科書っすね」判子を押しつつチャラ男は言う。「さーせん、多目的室まで持ってってもらっていいすか。ちょっと今ここ離れらんないんで。あ、箱はいらないんで、置いとくのは中身だけでおなしゃす」
 ぴしゃりと閉められる小窓。慣れている僕は雑な対応にも動じることなく校舎に上がり、マットで足を拭いてから、ペチペチとリノリウムを叩いて多目的室に向かう。
 ヅキ中は在籍生徒数が百人ちょいの割に校舎が広い。廊下の長さは百メートルもあって、建物は三階建てである。昔は三百人以上いたというからこれで良かったのだろうが、今は維持が大変そうだ。ちょうど廊下の掃除をしている生徒も露骨に面倒くさがっていた。動作、すげえ緩慢。
「注目されていますね、ファック望月」
「ファックはやめろや、学校だぞ。あと注目されてるのは僕じゃなくて深海な」
 なにしろ見た目はいいからなあ。年頃の男子生徒は興味津々だろうよ。
 多目的室の扉を開ける。部屋の中でも生徒が掃除を……してねえ。なんだあれ。
「Yo,Yo,Yo」
 未開の地の部族のように、円になってぐるぐると回っている男子生徒が五名。全員がバンダナを頭に巻いていて、宙に浮かした両手はフレミングの法則の形をしている。
 で、なぜかその円に囲まれているのは我が友人、坂口二太郎。所在なさげにうつむいている。
「Yo,Yo,もやしっ子」「「「「Yo,Yo,もやしっ子」」」」
 リーダー格らしい赤バンダナの言葉を復唱する四人の黒バンダナ。よほど夢中になっているのか、僕たちに気付いている様子はない。
「もやしっ子、生まれたときは大豆。今よりもなおミニマムなサイズ。ビッグになるため張り切り、この過酷な世界に漕ぎ出し。味噌に醤油に豆腐に枝豆納豆、何にでもなれたおまえはなんと、選んじまったもやしっ子、か弱き貧相な細いwhite。Year」
「「「「Yo,Yo」」」」「もやしっ子」「「「「Yo,Yo」」」」「プチョヘンザ」
 手を上げて回り出すバンダナ共。盆踊りに見えなくもない。
 何をしたいのかはわからないが、僕の友達を馬鹿にしていることはわかった。僕は床に段ボール箱を置き、中から道徳の教科書を取りだし、丸めて握りしめる。
「何をしているのですか」なぜか小声の深海。
「これでバンダナ共をぶっ叩いてくる」なぜか小声の僕。「道徳ってもんを教えてやるぜ」
「やめてください。郵便物は常に万全の状態で届けるよう、当機は指示されています」
 揉める我々。役に立たない大人の見本である。
 そのとき、僕たちがいるのとは逆側の扉から、さっと多目的室に飛び込む影が一つ。
「こら、男子! なにしてんの!」
「やべっ、委員長だ」と赤バンダナ。「逃げるぞおまえら」
「「「「チェケラ!」」」」
 脱兎のごとく逃げ出すバンダナ共。チェケラかあ……世界観できあがってんなあ……。
「坂口くん大丈夫?」
 逃げたバンダナ共を追わず、二太郎に近づく委員長。うつむいていた二太郎は顔を上げて委員長を見つめる。けれどもすぐに口元をゆがめて、目を逸らした。
「大丈夫だよ。どうしていいかわからなかっただけだから」
 素っ気ない声だ。僕にはその気持ちがよくわかった。男子という生き物は格好つけしいなのだ。女子に助けられるのは恥ずかしい。
「そっか」委員長はほっと息を吐く。「良かっ、げほっ、えほっ」
 唐突に咳き込む委員長。そのまま床にへたり込む。二太郎は目を丸くして、それから慌ててしゃがみこみ、委員長の背をさすった。
「大丈夫? ゆっくり、落ち着いて」
「げほっ、ありが、げほっ」
 それから二十秒ほどで委員長は落ち着いた。その間、息を止めて見守っちゃう我々。
 咳の止まった委員長は言う。
「ごめん坂口くん。肩貸して」
「え?」
「腰抜けちゃったみたい……ごめんね、格好悪くて」涙ぐむ委員長。「ごめんね。ずっと、止めなきゃって思ってたのに、私、委員長なのに、あの男子たち怖くて、ごめんね」
 委員長はごめんねと繰り返す。胸に抱きしめた両手は小刻みに震えていた。
 颯爽とこの部屋に飛び込んできた委員長。どれだけの勇気をふりしぼって駆けたのか、僕は考えた。二太郎は僕よりも考えただろう。
「ほら、委員長」
「あの……おんぶは恥ずかしい……」
「あ、そっか。ごめんね、えっと」
 不器用なやり取りの後、二太郎は委員長に肩を貸して多目的室を出た。それと同時に逆側の扉から中に入る我々。幸い二太郎たちには気付かれなかった。
「覗き見は道徳的行為なのでしょうか」
「……聞かないでおくれやす」
 丸めたやつをちゃんと伸ばしてから、僕は道徳の教科書を机に置いた。

 仕事が終わってからホロフォンを確認すると通知があった。二太郎からだ。
〝友達できた〟
「だから言ったろ」
 返事を打つ僕の顔はたぶんいつも通りだ。ペンギンは表情筋が少ないから、人間と違ってにやついたりしないのさ。

          ◆

 そんなこんなで四月が終わる。バンド活動に勤しんだGWという名の分割休暇は一瞬で過ぎ去り、あーあ仕事かあ、とぼやきながら局にやって来た連休明け。
「望月くーん。望月くんやーい。青ちゃんから仕事辞めるって連絡がきたんだけどー」
「何ィ!」
 アンドロイドが五月病という、まさかの事態に直面した。