猫が目を覚ますと、石畳の上に居た。
 曇った夜空が正面に見える。丸まっている状態ではなく、仰向けの状態で眠っていたらしい。猫は身体を起こす。石畳はひやりとしていた。
 住宅街だろうか。住人は眠りに就いているらしく、静寂がとっぷり満ちている。街並みはどこまでも灰色。家も道も塀も雨樋も下水口も、全部石で出来ていた。
 無機的な視界に猫はほっとする。
 生き生きしていないところが良い。周りが元気いっぱいだと、自分もそうしなくてはいけない気がしてつらくなる。
 けれどもそのとき背後から、猫に言葉が飛んできた。
「嫌だ、変なのがいる」「本当よ」「汚い猫」
 声はアカシアの枝のよう。背中に刺さる感触に、猫はゆっくり振り返る。
 居たのは雌猫たちだった。どの猫も整った容姿をしている。品種は様々だけれど、きっと皆に血統書が付いているに違いない。それぐらい魅力的な姿をしていた。
 しかし猫にはそんな魅力を気に留める余裕がない。
 雌猫たちの目には例外なく、猫に対する侮蔑が浮かんでいたからだ。
「この街にはそぐわないわね」「傷だらけだし、痩せているし、耳も欠けている」「尻尾がないわ」「ねえクーン様、見て。ひどく汚い猫よ」
 クーンと呼ばれた雄猫は、雌猫たちに囲まれていた。
 その姿に猫は叫びそうになる。
 光の胞子をまとっているみたいだ。それほどにクーンの体毛はふわふわだった。黒白が絶妙なバランスで混じり合っていて、滑らかな曲線を描く身体を包んでいる。顔立ちは凜々しく、体躯は雄らしい優雅な大きさで、後ろ足の筋肉は芸術的に隆起している。
 なにより目を引いたのはその尻尾だ。
 揺れるごとになびく毛は、触らなくとも柔らかいと分かった。まるで羽のようなのだ。それがあるだけで空を飛べそうな、幻想的な尻尾。
 かつて猫のお尻から生えていたものよりも、その尻尾はずっとふわふわだった。
「レディたち、そんな言葉を使ってはいけないよ」
 深みのある声でクーンは言う。
「容姿は猫それぞれだ。生まれは選べないし、生まれた後に起こる事故も選べない。たとえ汚い猫であっても、馬鹿にしてはいけないよ」
 窘める言葉。けれども雌猫たちの表情に反省は浮かばない。ただ恍惚としただけだ。
「素敵」「なんて優しいのかしら」「クーン様」
 固まる前のプリンみたいに、雌猫たちは身をくねらせる。そのうち何匹かはクーンにしなだれかかった。クーンはそのことが慣れっこらしく、顔色一つ変えない。
「君、ボクのレディたちがすまないね。悪く思わないでやってくれ」
「そいつは難しいぜ、クーン。見ろよ、そいつの顔を。嫉妬に歪んでる」
 クーンのすぐ後ろから、傲慢な響きの籠もった言葉が放たれた。
 二匹目の雄猫だ。体躯は張り詰めた弓のよう。手足や顔、尻尾といった身体の末端は黒曜石みたいで、反対に身体は牛乳のような白さだった。
 その姿に、猫は叫びたくなる衝動を通り越して、ここから消えてしまいたくなる。
 鋭く尖った一対の耳。オニキスみたいに妖艶な色合いを放つそれは、失った猫の耳以上に、見事なとんがり耳だった。
〝ああ、なんてことだ〟
 猫の頭の隅の隅で、小さな自分が息を吐く。
〝ぼくには綺麗だった頃の思い出しかないのに。それだけが唯一の拠り所だったのに。でもあの頃のぼくって、あの二匹に比べたら、大して綺麗じゃなかったんだ〟
 心に無数の傷が付く。
 今すぐここから逃げ出したいのに、猫の両脚は動かなかった。
「シャム、彼は悲しんでいるだけだ。嫉妬を覚えているわけじゃない」
 目尻を上げてクーンは言う。しかしシャムは一笑に付した。
「悲しいのは、嫉妬が底にあるからだろ。哀れなもんだな」
「君の欠点は他の猫を見下すところだ」
「おいおい、理不尽な加虐は美しいものの嗜みだぜ。なあ不細工共」
「嗚呼、シャム様」「もっと厳しいお言葉をください」「私を躾けて」「もっと罵って下さい」
 一部の雌猫たちが嬌声を上げる。シャムは得意げに口角を歪めた。
「そうだ、オレ様にひれ伏せ。さすれば愛さないまでも、せめて玩具にしてやろう」
「まったく、君って猫は。そんなだからペルと喧嘩になったんだ」
「出て行ったやつのことは言うなよ。空席選挙はオレ様が仕切るんだ、おまえの手を煩わせたわけじゃないだろ」
「やれやれ。次のオリオンベルトまで早々に壊したりしないでくれよ」
「そいつは選ばれるやつ次第さ。ん? なんだおまえ、まだ居たのか」
 猫に視線を向けると、嘲笑うようにシャムは言う。周囲の雌猫がクスクスと笑い声を上げた。
 それでも猫は動けない。
 脚が震えることさえなかった。
 やがて美しい猫の一群は去っていく。後には冷たい石畳と、そこから動けない猫が残された。
〝もう何も残っていないよ〟
(うるさい)
〝どうしてぼくは逃げなかったんだろう?〟
(うるさい)
〝ああ、そうか。傷つかないよう大切にするほど、自分に価値がなくなったからだ〟
(静かにしてよ。黙って、黙れってば)
 小さく鼻を鳴らして、頭の隅の隅に居る猫は丸くなった。
 骨が凍るほどの静寂が石畳の上を転がる。
(どうして、ぼくはこんなところに居るんだろう)
 お腹がきゅうと鳴った。
 どうやら自分は空腹らしい。
(どうして、お腹は減るんだろう)
 そのとき猫はようやく、眼前の脅威を認識する。
 思考に耽っていたせいで注意が疎かになっていたのだ。すぐ近くまで迫っていたそれに、今の今まで気付かなかった。
 無骨なトラックだ。車体は石畳と同じ灰色。ヘッドライトの明かりはくすんでいた。背負っているコンテナは鉄で出来ていて、その異様に猫は、いつぞや閉じ込められた牢獄を思い出す。
 豚みたいに息をしているエンジンが止まると、車から二人の人間が降りてきた。
 デブとノッポの二人組だ。どちらも排気ガスと同じ色のツナギを着て、三角形の頭巾ですっぽりと顔を覆っている。デブは麻の袋を、ノッポは黒い鞭を持っていた。
「調教調教。叩いて捕獲」
「回収回収。汚物で実験」
 鞭が地面を叩き、袋の口は飢えを示すように開閉した。
 本能的な恐怖から猫は踵を返し、歩いた道を駆け戻る。デブとノッポは奇声を上げながら追いかけてきた。
 デブはともかくノッポが速い。猫が全速力を出しても、一向に差が開かないのだ。その間、鞭は振われ通しで、壁や地面を叩き続けた。
(なんなのさ、この人間たち、なんなのさ)
 身体中の傷のせいか、猫の体力は落ちていた。しばらくも走らない内に喘ぐような呼吸になる。しかも闇雲に走ったせいで、袋小路に迷い込んでしまった。
(そんな)
 目の前には石壁。優に五メートルはあり、とても飛び越えられる高さではない。
 引き返そうと振り返る。けれどもノッポはすぐそこまで迫ってきていた。荒い息を吐きながら、首を小刻みに左右へ揺らしている。脇をくぐり抜けることは出来そうにない。鞭はとんでもない速度で振り回されていて、隙はどこにも見当たらなかった。
「ひっぱたく。調教。抵抗の意思を削ぐ。調教、調教。皮を剥ぐ、歯を抜く、爪を折る。調教。調教調教調教」
 狂ったように笑いながら、じりじりとノッポは歩いてくる。急ぐ素振りを見せないのは、猫が追い込まれていることを知っているからだろう。
(ぼくを酷い目に合わせるつもりだ。嫌だよ、こんなところで、ぼくは)
 すうっと、猫の頭が冷えていく。
 死にたくないと、そう願った瞬間に気付いてしまったのだ。
(ここで終わりにしてしまえば、嘘にもさよならにも、もう怯えなくていいじゃないか)
 この思考は気力を殺した。その場に座り込んで、猫は頭を垂れる。
 鞭はもう目と鼻の先。
 きっと痛いだろうなと、猫は他人事みたいにぼんやり考える。
「こっちよ」
 鈴の鳴るような声が聞こえたのは、そのときだった。
 袋小路の隅。壁と壁とが九十度に繋がっていると思っていた場所に、ほんの僅かな隙間があった。
「こっち。早く」
 声は隙間から聞こえてくる。声の主の姿は見えない。隙間には闇が満ちていた。
 ノッポが金切り声を上げる。
 心臓を締め上げるような高音。その声に猫は、忘れかけていた恐怖心を思い出す。
「早くっ」
 最早思考は消えていた。迫り来る脅威から遠ざかりたい一心で、猫は壁の隙間へと飛び込む。すんでの所で躱せた鞭が、猫の後ろ足の毛を揺らした。
 隙間はひどく狭い。猫が痩せていなければ入ることにさえ苦労しただろう。歩くごとに脇腹が壁を擦った。
 背後ではノッポが呻く声と、鞭が風を切る音がする。しかしこんな隙間に人間が入ってこられるはずもない。猫は安堵の息を吐く。
「付いてきて」
 また鈴の音みたいな声を聞く。暗順応した猫の目には、後ろ姿だけではあるけれど、もう声の主の姿が見えていた。
 四つの足と病的な痩躯。左右に揺れる細い尻尾。
(猫だ。ぼくと同じ)
 命じられるがまま、猫は後ろを追いかける。
 何度か直角に曲がった後、さらにしばらく歩いてようやく、隙間の道から外に出られた。
 夜風が髭をさらう。視界が開けると同時に、付近の街灯の明かりも目に飛び込んできた。猫は何度か瞬きして明順応する。光源の傍に来られたことでようやく、猫は先導者の全身を視認した。
 雌の猫だ。けれどもさっき群れていた雌猫たちとは違う。黒い被毛や黄金の目は血統書付きであっても不思議ではない優良品種特有の光沢があったけれど、それでもさっきの雌猫たちとは全然違った。
 影のある鋭い面立ち。
 彼処に傷のある痩せ細った肢体。
 深い爪痕で塞がれた、二度と開かないであろう右目。
 猫の正面に居る片目の黒猫は、経てきた過酷な生涯を全身に刻んでいた。
「怪我は?」
 尋ねてくる声はやっぱり鈴に似ていた。澄んだ声質だからというだけではない。金属的な硬い響きをしているのだ。まるで他者を拒絶しているかのように。
 猫は返答できなかった。
 拒絶を感じ取ったからというだけではない。恥の意識が心を埋めたからだ。
 ノッポに追い詰められた時、猫は全てを諦めた。精一杯足掻けば、まだどうにかなったかもしれないのに。闘う姿勢を示しもせず、声を上げることさえせず、ただ座って項垂れたのだ。そしてそんな惨めな様を、よりにもよって猫と同じ年頃の雌に見られた。
〝きっと情けないやつだと思われてる〟
 頭の隅の隅で冷静な猫が分析する。
〝しかも実際にその通りなんだ〟
「平気みたいね」
 答えない猫を咎めるように冷たく言うと、片目の黒猫はぷいと顔を背けた。同時に立ち上がって去ろうとする。
 その背を猫は引き留めたかった。だってお礼の言葉を伝えていない。だからありがとうと言おうとする。けれども声は出なかった。何かを口にしようとする度、思考が白くなってしまう。
〝声が出ないのは恥ずかしいから?〟
(分からない、分からないよ)
〝知ってるくせに。同じように助けられたことがあるじゃないか〟
(ジャガー兄弟が溺れたぼくを助けてくれた)
〝そうさ。そしてその後、どうなった?〟
 恥辱と疑念と声を掛けたい想いとが混じり合い、処理しきれなくて思考は飽和する。言葉を論理的に組み立てることが出来ないのはそのせいだった。
 片目の黒猫は真っ直ぐに歩いていく。お礼を言いたい猫は距離を開けてその後を追う。
 付かず離れずの等速直線運動。合鴨みたいに付いてくる猫の存在はもちろん気付かれていた。片目の黒猫はしばらくも歩かないうちに、振り返って左目をすがめる。
「まだ何か用?」
 声は鈴からステンレスに変わっている。猫は萎縮した。
「荒れてるねえ。今夜は随分と不機嫌じゃないか」
 嗄れた声は背後から。猫は驚いて振り返る。
 老いた雌猫がそこに居た。見目はひどく汚い。猫というより斑模様に染まった毛玉といったほうが近いだろう。その中で淡色の瞳が一対、消えそうな蝋燭みたいに揺れている。
「探したよ。生ゴミステーションΨで落ち合う予定だったじゃないか。こんなところで何してるんだい」
「別に」
「ふん。別にときたか。老体に鞭打って探してやったババアに対してそれかい。結構な身分になったじゃないか」
 猫を挟んで二者は会話する。交わされる言葉には独特の距離感があった。
「最低限の関わり以外はしたくない。だから迷惑をかけるのも善意を向けるのもやめてくれ。こいつはあんたの言葉じゃなかったかい?」
「そうよ」
「そのくせあんた自身は他のやつに迷惑かけてもいいってか」
「悪かったわ」
「なら別にの一言で会話を済ませんじゃないよ。あたしゃ何してんのかって聞いてんだ」
「そこの猫を助けてたのよ」
 片目の黒猫が顎で猫を示す。老猫の鈍い眼光も猫に注がれた。怖い二匹に左右から注目されて、猫はますます縮こまる。
「野良猫狩りの連中かい?」
「ええ」
「なるほど。ここいらじゃ見ない顔だね。あんた、名前は?」
 問われると同時、猫の網膜に思い出がちらついた。
 ふわふわのスリッパ。水色のガウン。揺れるナイトキャップ。
「無視してんのか、口が利けないのか」
 老猫は鼻を鳴らす。
「まあいいさ、名前があろうがなかろうが、口が利けようが利けなかろうが。声は聞こえてるみたいだしね。年も若いし、労働力にはなるだろう」
「待って、そんなつもりで助けたわけじゃないわ」
 片目の黒猫が慌てる。けれども老猫はその声を聞く気がないらしい。這うような足取りで近寄ってきて、値踏みするような目を向けながら猫の周囲を一周した。
「五体満足だね。十分だ。さて小僧、あんたはうちのシマの猫に助けられた。つまりあたしの子分に恩があるわけだ。子分への恩は親分への恩でもある。分かるね?」
「ちょっと」
「黙りな小娘。奴隷になれなんて言う気はない。ただ今夜だけ仕事を手伝ってもらいたいだけさ。猫の手が足らなくてね。生ゴミステーションを回って餌を集める手伝いをしてほしいんだ。他のシマとの取り決めで、今夜を逃すと先一週間は手が出せないからね。出来るだけ備蓄しときたい」
「私たちだけ十分よ」
「そいつはあんたの決めることじゃない。それに今夜はグィーゴが居ないんだ。あたしゃ大して運べないし、オディレイとあんただけじゃ心許ない」
「グィーゴが居ない?」
「ああ。これについては論じないよ。もう済んだ話だからね」
「聞いてないわ」
「ボスはあんたじゃない」
「ええ、そうね」
「知ってるならうだうだ言うんじゃないよ。あんたがどう思って小僧を助けたのかなんて知ったことじゃない。問題は使えるか使えないかだ。そしてこの小僧は使える。だから問題は何も無い。分かったね?」
「ええ」
「結構だ。さて小僧、そういうわけだから手伝ってもらうよ。拒否権はないからね。逃げたら腹を掻っ捌いて腸を食っちまうよ」
 老猫の瞳を邪悪な輝きが過ぎった。恫喝が決して虚勢ではないと分かって、猫はすぐさま頷く。もう命の危機に直面するのは嫌だった。
「いい返事だ」
 愉快そうに老猫は言う。その両目は何かを懐かしむように細められていた。
「じゃあ行くよ。ひとまず生ゴミステーションΨだ。オディレイと合流しないとだからね」
 老猫が歩き出す。片目の黒猫も後に続いた。置いて行かれないように猫も追いかける。
 五分ほどで生ゴミステーションΨに辿り着いた。パブや飲食店が並ぶ通りの裏道で、大小のゴミ箱が彼処に点在している。料理の良い匂いとゴミの腐臭とが混じり合っていて、どちらかといえば不快な場所だ。
 そこでは二体の生き物が待っていた。
 一匹は無毛の猫だ。身体中が皺だらけなのでミイラを連想させる。目が常に泳いでいて、挙動不審な印象を受けた。
「おやグィーゴ、まだ大丈夫なのかい?」
 老猫が無毛の猫に話しかける。
「も、もう行きます。時間がま、まだ少しあったから、手伝ってたんです」
 辿々しい言葉でグィーゴが応じた。吃音症のようだ。加えて相手の目を見ながら話せないようでもある。
「そ、そうだボス。新聞に、書いてあったんですけど、ご、ゴミの回収日が、変更になるみ、みたいです。また、曜日がず、ずれると」
「そうかい、また会議を開かないとだね。報告ありがとう。あんたが賢くて助かるよ」
「おいらはこれぐらいしか、で、出来ませんから」
 照れくさいのか、グィーゴは頬を赤らめる。被毛がないので顔色の変化がよく分かった。
 そのとき新参者の存在に気付いたのか、グィーゴが猫を見て数度瞬きする。
「そのね、猫は?」
「あんたの変わりさ。まあ、手伝いだ」
「そ、そうなんですか」
「どこに行くの?」
 片目の黒猫が氷みたいな声で問う。グィーゴは背中を丸めた。
「り、立候補するんだ。オリオンベルトに。選挙はこ、今夜だから」
「立候補? 貴方が?」
「そ、そうだよ。おいらにも、参加資格はある。雄のね、猫だもの」
「小娘、その話は済んでると言っただろう。蒸し返すんじゃないよ」
 老猫が唸る。片目の黒猫は口を閉じた。
「じゃあお、おいら行きます」
「ああ行っといで。終わったら塒に帰ってきな」
「はい。オディレイ、引き継ぎた、頼むよ」
 そう言ってグィーゴは去っていく。片目の黒猫は不可解そうにその背を見送っていた。
 猫はオディレイと呼ばれたもう一体に目を向ける。
 大人の人間であっても容易に押し倒せそうな巨躯だ。だからどう見ても猫ではなかった。しかしそれでは何の生き物なのかというと、それも猫には分からない。見たことのない容姿をしているのだ。
 一番近いのは数回掃除に使われたモップだろうか。触れるのを躊躇うくらいに汚れているけれど、まだ微かに白い部分が残っている。そんなモップに真っ赤な舌と四本の脚が生えたら、ちょうどこんな生き物になるだろう。
「さて時間がない。さっさと始めちまおう」
 老猫が声を上げる。
「あたしゃオディレイと組む。小娘は小僧と組みな。こっちは生ゴミステーションΦ、そっちはΘだ。終わったら塒に戻ってくること。それじゃ解散」
「待って。私が彼と組むの?」
「そうだよ。あたしゃ疲れたからね、オディレイに乗っていく」
「手伝えと言ったのは貴方よ」
「助けたのはあんただ。どうせだからこの街のこと教えとくんだよ。よく分かってないみたいだからね、変なことしてうちのシマまで危険に晒されたら堪らない」
「嫌よ。関わりたくない」
「だったら助けなきゃよかったじゃないか」
「それは」
「いいから面倒みな。話は終わりだ。ボスはあたしだよ」
 片目の黒猫は口ごもる。不愉快極まりないといった表情だ。その左目が睨んできたので、猫は所在ない気持ちになった。
 オディレイが伏せ、老猫がその背に上る。
「すまないねオディレイ、頼むよ」
 尻尾らしき部分を振りながら、動くモップにしか見えないオディレイは老猫と共に去っていく。
 残されてからも片目の黒猫はなかなか動こうとしなかった。ぎこちない沈黙が一分ほど漂っただろうか。やがて片目の黒猫は、老猫らが去ったのと逆方向に歩き出す。猫は無言でその背を追いかけた。
 路地裏は暗い。特にこの夜は月が出ていないので、街灯のない裏道は猫の目を以てしても、片目の黒猫を追うのに苦労する。慣れない道であることと、片目の黒猫が歩く速度をちっとも緩めないこととが、それに拍車をかけていた。
「この街には綺麗な猫が多いわ」
 唐突に、片目の黒猫が口を開く。
「野良猫を捕まえて化学実験に使うヤツらが居るの。貴方を襲った連中よ。普通なら猫を捕まえて実験なんてこと、人間社会でも許されないみたいだけれど、この街では容認されてる。野良猫が伝染病の媒介になった歴史があるから、街の人々が汚い猫を嫌うのよ。私や貴方みたいな、汚い野良猫をね」
 言葉には自嘲の響きがあった。
 片目の黒猫は続ける。
「だからこの街では汚い野良猫が長生きできない。そのせいで、綺麗な飼い猫ばかりなのよ。通りでふんぞり返ってる猫はみんな飼い猫。生きるために仕方なく群れる私たちとは違って、好きで群れなんてものを作ってる、ちっとも猫らしくない連中よ。一番美しい三匹の雄猫なんてものを選んだりしてる。馬鹿馬鹿しいったらないわ」
 立ち止まって、片目の黒猫が振り返る。
 黄金色の目が闇に光った。
「この街で気をつけなくちゃいけないものは二つ。一つは貴方を襲った野良猫狩りの連中。もう一つは通りで偉そうにしてる飼い猫たち。野良猫狩りにあったら酷い目に合わされるし、飼い猫たちはうるさいから野良猫狩りの連中を引き寄せてしまう。野良猫狩りの連中は猫の鳴き声を聞いて寄ってくるの。そして汚い見た目の猫を野良だと判断して、襲いかかる。だから家猫はみんな綺麗なのよ。飼い主が野良猫と間違われないようにケアするから。私たち野良猫も、綺麗にしていたら襲われないけれど、綺麗なままで生きられるほど野良の世界は優しくない。だから飼い猫たちにも気をつけて。下手に反感を買ったりすれば、あいつらはわざと大きな声を出して、野良猫狩りを誘き寄せるわ」
 猫から視線を切って、再び片目の黒猫は歩き出す。
 以降、道中で話すことはなかった。元々、接する気はないのだろう。ボスから受けた指令を果たすための説明を終えてからは、猫と一切関わろうとしなかった。近づかないし、見もしないし、気にするような素振りさえ見せない。
 それが猫には有り難かった。
 深く関わってしまったら、その分だけ嘘とさよならに怯えないといけない。
〝付かず離れず無関心。とても猫らしくていいことだ〟
(そうだね)
〝用が済んだらさっさと別れる。後には何も残らない〟
(そうさ)
 生ゴミステーションΘで、猫は餌の回収法を教わった。
 ゴミ捨て場には大抵、ビニール袋も転がっている。それの中に食べられるゴミを詰めれば、一度にたくさん運ぶことが出来るのだ。まだ食べられるゴミの選別方法、ビニール袋の持ち方、ゴミ箱の蓋の開け方、そういった技術を片目の黒猫は淡々と説明してくれた。
 来訪者が来たのは、もうじき袋が満ちる頃だ。
「誰?」
 気付いたのは片目の黒猫だった。表通りから、悠然とした足取りで誰かがやって来る。
「オレ様だよ。名乗らなくても分かるだろ?」
 姿が見える前から、その声を聞いたことのある猫は、来訪者が誰だか分かった。
 シャムだ。かつての猫より鋭いとんがり耳の、罵声を浴びせてもなお雌猫たちに愛される猫。
「何の用?」
 片目の黒猫は声に緊張を滲ませていた。身体も明らかに強張っている。その反応は知り合って間もない猫にも、片目の黒猫が過去にシャムと何かあったことを察知させた。
 シャムは露骨に顔を歪ませる。
「なんて臭う場所だ。信じられねえぜ、おまえも汚れちまったもんだ。かつては美しい雌だったってのに」
「何の用かと聞いているの。用がないなら帰って」
「用ならあるさ。おまえを抱きに来た」
 片目の黒猫が息を呑む。
 シャムは続けて言った。
「ずっとおまえに憧れてた。おまえが兄貴のものだった頃からな。だから兄貴を超えたんだ。オレ様は美しくなった。今やオリオンベルトの一角だ」
「それが、何?」
「オレ様のものになれよ。おまえに生ゴミ置き場は似合わない」
「私はもう美しくないわ」
「そうだな。だがオレ様はおまえが欲しくてここまで上り詰めたんだ。今のおまえ確かに醜い。だがおまえを手に入れなきゃ、オレ様は満足できねえんだよ」
 ゴミ箱の上に居た片目の黒猫は、石畳に飛び降りてシャムに近づく。
 そして牙を剥きだした。
「帰って。貴方の自己満足に付き合うほど安い雌じゃない」
 殺意すら感じさせる怒気。しかしそれを真正面から受けているのに、シャムは冷静だった。
「兄貴を殺したのはオレ様だよ」
 浮かんだ微笑は、氷柱がストーブに見えるほどの冷たさ。
「おまえの右目を抉ったからだ」
 シャムの言葉に、片目の黒猫は動揺を見せた。
「嘘よ」
「嘘じゃない。なんなら誰かに聞いてみればいいさ。そのへんの家猫なら誰だって知ってる」
「どうして、そんなこと」
「決まってるだろ。復讐だ。兄貴はおまえを殺した」
「私は生きてる」
「いいや死んだ。美しかったおまえは、あの夜に死んだのさ」
「貴方は死体を抱きたがるのね」
「オレ様が抱きたいのはかつてのおまえさ。美しかったおまえの思い出だ」
 声音は甘く変わっていく。まるで聴覚を焦がすように。
「来いよ。おまえにとっても悪くない話だろ。オレ様に抱かれている間なら、戻れるんだぜ。美しかった頃のおまえが蘇るんだ」
 二匹の間に静寂が下りる。
 夜の帳を彩るような、深い藍色をした沈黙。
「帰って」
 しかし返答は鋭く。
「思い出の光は引き返すための目印じゃない。前に進むための灯なの」
 シャムは怯まなかった。
 哀れむような瞳を、片目の黒猫に向けただけ。
「そいつは、おまえの本心から出た言葉か?」
 片目の黒猫は答えない。惑いを覚えたかどうかは、猫には読み取れなかった。
 シャムは踵を返す。
「また来る。今夜は予定があるからな。次は良い返事を期待してる」
 来たときと同じように、シャムはゆっくりと去っていった。
 片目の黒猫はゴミ箱の上に飛び乗る。その左目が、思い出したように猫を見た。けれども何も言わず、作業に戻る。
 次に片目の黒猫が口を開いたのは、袋詰めを終えて帰るときだった。
「何も聞かないのね」
 持ち上がらない袋と格闘していた猫は、その言葉に奮闘を中断した。
「他所の事情に深入りするのは嫌?」
 質問に猫は頷きを返す。
 自嘲気味に片目の黒猫は笑った。
「私と同じね」
 結局、袋は持ち上がらなかったので、引きずって帰ることにした。片目の黒猫も同様だ。
 運ぶために袋の持ち手を咥えていたので、帰路に会話はなかった。しかし、もし咥えていなくてもそれは同じだっただろう。
 塒は粗大ゴミ置き場だった。中に入れば雨風が凌げる大型のクロゼットがあるので、ここを拠点にしているらしい。
 老猫とオディレイはクロゼットの横で待っていた。ぎっしり詰まった袋が四つあったのを見て、猫はオディレイが犬であることを確信する。そんな重労働を淡々とこなせるのは犬ぐらいだ。
「おかえり。ご苦労だったね」
「ええ」
 袋を置いて応じる片目の黒猫。その言葉を聞いた老猫は、瞳に奇妙な光を浮かべた。まるで何かがあったことを察したように。
「グィーゴはまだ帰らないのね」
 片目の黒猫が呟く。老猫は意外そうな顔をした。
「珍しいね。あんたが誰かを気にするなんざ」
「別に気にしているわけじゃないわ」
「グィーゴならまだ帰らないよ。選挙ってやつは時間がかかるんだろうね。あたしゃ詳しく知らないが」
「どうして止めなかったの?」
「何のことだい」
「グィーゴよ。彼が選ばれるわけないわ。馬鹿にされて傷つくだけよ。目に見えているじゃない。どうして止めなかったの」
「選ばれるわけないかどうかは、やってみなきゃあ分からない」
「やらなくても分かる」
「どうして」
「醜いからよ。彼も、私も、野良猫は皆」
 臓腑の底から吐き出すような言葉だった。けれども直後、大声を上げたことを恥じるように、片目の黒猫は老猫から顔を背ける。そしてクロゼットの中へと潜り込んでしまった。
 老猫が猫に目を向ける。
「手伝い感謝するよ。これでもうあんたがあたしらに付き合う義理はない、と言いたいところだが、最後にもう一つだけ付き合ってもらっていいかい」
 言葉自体は問いかけだったけれど、実質命令だった。
 こっちだ、と言って老猫は塒から出て行く。猫は後を追いかけるしかない。
 連れて行かれたのは古い洋館だった。人が住んでいる気配はない。石造りの壁には枯れた蔓草が物悲しげにこびり付いていて、鉄扉は錆び付き始めている。長らく手入れされていないことは明らかだった。
 老猫は鉄扉の隙間から洋館の敷地内に侵入する。そして真っ直ぐ正面玄関へと向かい、備え付けられていたキャットドアを潜って邸内に入った。猫もその後を追いかける。
 邸内は埃と黴のにおいに支配されていた。玄関の正面に位置している大階段は、かつては何人もの人々に利用されていたのだろうけれど、今では上階のステンドグラスから差し込む光を投影するだけのスクリーンになっている。しかもその光はひどく弱々しいのだ。
「この街はいつも曇ってるんだ」
 老猫が呟く。
「だからお月さんとは縁がない。だってのにそのくせ、夜が長いときてる。辛気くさい街さ」
 そう言って、老猫は階段を上っていく。
 猫には不思議だった。
(こんなに立派な無人の洋館を知っているのに、どうして粗大ゴミ置き場を塒にしているのだろう)
 けれどもこの疑問はすぐに解消した。老猫の後について入った部屋、その壁一面に、答えが用意されていたのだ。
 大小無数の写真が、額に入れられたまま残されている。
 映っているのはオッドアイの黒猫だ。人間の掌に載っている子猫の頃の写真から、美しい成猫になった写真まである。
 目映い翠の右目と、黄金の左目。ビロードの質感を想起させる黒い被毛。どこか艶めかしいラインを描く、瑞々しい体躯。
 この世で一番美しいだなんて、そこまでの特別性はない。翠の目は片目だけだし、この品種では黒よりもグレーのほうが好まれている。しかし、それでも間違いなく、写真の黒猫は美しかった。
「こいつがあるから、あたしゃここを塒にする気にゃあならないのさ。酷だからね」
 老猫が写真を眺めながら言う。猫にはその言葉の意味がよく分かった。
 写真に映る黒猫は紛れもなく、片目の黒猫がまだ片目じゃなかった頃の姿なのだ。
「分かるかい? あの子が人間と一緒に映っているのは、あの子が小さい頃の写真だけだ」
 言われて初めて、猫は気がついた。
 確かに老猫の言う通り、ある程度育ってからは黒猫が人間と一緒に映っている写真が一つもない。
「まずあの子を飼ってた爺さんが死んだ。あの子が子猫だったときにね。次が婆さん。それからはあの子は独りぼっちになる。人嫌いの老夫婦だったからね。手入れしきれないほど広い屋敷に二人と一匹だけで住んでいた。猫だけを愛していたんだ。失ってしまった息子や孫の代わりみたいに」
 言葉は淡々としていた。でも猫には、必死に感情を押し殺して喋っているように聞こえた。
「間抜けな話さ。あの子のためを想うなら、自分らが死んだ後のあの子のことをもっと考えなきゃいけなかった。あの子は野良になるしかなくなっちまったんだ。そいつは汚い猫になることと同義さ。当時あの子を好いていた雄は、汚れてしまうならいっそ一息にと、自らの手であの子の右目を抉った。ありふれた金色じゃない方、エメラルド色の右目をね。あの子は雄から逃げ出した。そして何もかもに絶望して、夜道で泣いていたんだ。半年前のことさ」
 老猫が隣の猫を見やる。
「昔話は嫌いかい?」
 猫は頷きを返す。他所の事情に深く関わりたくないのだ。
 すると老猫はにやりと笑った。
「だろうね。だが付き合ってもらうよ」
 老猫は話を続ける。
「あの子と出会ったのは半年前さ。あたしゃ旦那を亡くして、この旦那がまた嫌われもんでねえ、死後に浮気だの何だのが発覚しちまって、あたしゃシマを追い出されたんだ。ババアが一匹、頼れる縁もなし、どう生きりゃいいか悩んでたときに、あの子が野良猫狩りの連中に追われてんのを見つけた。ピーピー泣いてたからね、それで見つかっちまったんだろう」
 その話に、猫は自分を重ねる。
 失って、裏切られて、おまけに恐ろしい人間に追いかけられた自分。
「あたしゃあの子を助けた。別に見捨ててもよかったんだが、放っておけなかったんだ。なんだか似ている気がしてね。旦那を亡くして、その旦那に裏切られて、そんなあたしとさ。あの頃はあの子の事情をまだ深くは知らなかったけど、そういうのはね、分かるんだ。雌の勘ってやつさ」
 似ている。その言葉が猫の鼓膜を強く叩いた。
「小僧。あんたはどう思う?」
 老猫に問われる。尋ねる言葉は曖昧だ。けれども猫は、何を聞かれているか分かった。
(似ているのかな。鏡に映った自分みたいに)
〝いいや違うよ〟
(分かり合えるのかな。心の底から信じ合えるくらいに)
〝難しいんじゃないかな〟
(似ているだけで、同じじゃないから?)
〝そうさ。ぼくは彼女じゃない。そして彼女もぼくじゃないんだ。全部は分かり合えない。だから〟
(いつかさよならがやって来る)
 猫は瞼をぎゅっと閉じる。深く関わりたくなんてないのだ。
(どうしてこんな話を聞かせるのさ)
「あんたには知ってもらいたかったからだよ」
 猫の考えを読んだように老猫は言う。
 驚愕した猫に、老猫は微笑みを投げた。
「伊達に長生きしてるわけじゃない。若い連中の考えてることぐらい分かるさ」
(ぼくに知ってもらいたかったのは、どうして?)
「あんたはこの街に長居するつもり、ないだろ?」
 猫は頷いた。長居する気はないし、どうせ出来ない。眠りに落ちれば景色は変わる。ここに居るのは微睡みの合間だけ。
 老猫は目を細める。
「やっぱりね。じゃあ頼んでもいいかい。出て行くときにあの子を連れてってほしいんだ」
 意外な言葉だった。唐突な頼みに猫は困惑する。
(どうして、そんなことを?)
「あの子は失ったものに縛られちまってる。しかもそいつを自覚して、苦しんでるんだ。だからさ。あたしゃあの子が大切なんだ。苦しむとこなんか見たくない。あの子はこの街を出て行ったほうがいいんだ。広い世界に触れればきっと、失ったものを小さいと思えるだろうから」
(ここに来たから、ぼくはもう義理を果たしたよ)
「こいつはシマのボスとしての命令じゃない。一匹のババアの頼みだ」
(なら断るよ。ぼくは独りがいいんだ)
「嘘とさよならが怖いのかい?」
 猫は俯く。何もかも見抜かれているようだ。でも、そうと認めるのは癪だった。
「野良をしてんのはワケありのやつばっかりさ」
 老猫が呟く。
「グィーゴは元飼い猫だ。賢いやつで、人間の文字や習慣をよく知ってる。生きるために身につけたらしい。毛のないナリを怖がられて、どのシマにも入れなかったんだ。しかも、人間のことを知りすぎてるってんで余計に不気味がられてた」
(やめて。知りたくなんかない)
「オディレイは元飼い犬さ。でも猫が流行ったから捨てられた。だからあいつは絶対吼えない。自分が猫になりきれれば、飼い主が拾いに来てくれると思ってる」
(やめてったら)
「あたしとあの子は言った通りさ。それで、あんたは?」
(言いたくない)
 猫の身体は震えた。
 嫌なことを思い出してしまったのだ。
「嘘とさよならは怖い。分かるよ。あたしゃいつ死んでも分からない歳になっちまったが、それでもまだ怖い」
 老猫の言葉は染みるよう。
「どうして怖いか分かるかい? 独りぼっちの痛さを知ってるからさ。嘘もさよならも避けられないのに、それでもまだあたしたちは、誰かと分かり合いたいんだ」
(でも全部は分かり合えない。だからぼくは独りがいいんだ。独りで街を出て行くよ)
 猫は踵を返して、老猫に背を向けた。
「さよならまでは一緒に居られる」
 背後からは澄んだ響きの嗄れ声。
「全部は無理でも、ほんの少しだけなら分かり合える。あたしとあの子じゃ歳も遠いし、なによりあたしにあの子を連れて街を出る体力はもう残ってない。でもあんたなら。あんたなら、あの子と苦しみを分かち合うことが出来るかもしれない」
(ぼくにとって、彼女はそこまで大切な存在じゃないんだ)
「あんたに迷惑かけることは詫びる。でも頼む気持ちを分かっておくれ。あたしにとっちゃ大切なんだ。旦那は死んじまった。子どもは望めなかった。あたしにはあの子だけなんだ」
(そんなに大切なのにどうして、一緒に居られるさよならまでの時間を、ぼくなんかに渡そうとするのさ。彼女が苦しまなくなったとしても、でもそしたら、今度は貴方が苦しむじゃないか)
「あたしは独りになってもいい」
(どうして)
「いってらっしゃいと言いたいんだ。あの子がいつか、ただいまと言えるように。帰る場所があるならどこへだって行ける。あの子の帰る場所になりたい。こんなあたしにも生きる理由があったと思いたいのさ」
 猫は振り返る。
 悲しげな老猫の目を、真っ直ぐに見つめた。
(ぼくだって独りは嫌だよ。本当は、誰かと分かり合いたい。でも無理なんだ。どれだけ痛いか知ってしまったもの。お願いだからぼくと関わろうとしないで)
 老猫の瞳に青色の感情が浮かぶ。
「そっくりだよ、本当に。あの子と」
 呟く言葉は、外からの轟音に潰された。
 重たいものを壁に叩きつけるような響きだ。それは階下、玄関のあたりから聞こえた。危険を察知した猫は老猫と共に階下の様子を窺う。異常はすぐに視認できた。キャットドアからオディレイの顔だけが飛び出していたのだ。さっきの轟音は、キャットドアを潜りきれなかった身体部分が扉と激突した音だろう。
「何してんだい」
 呆れたように老猫は階段を降りていく。オディレイは痛みを訴えるような呻き声を上げていた。
 つっかえていたので猫は老猫と二匹がかりでオディレイを押し出す。成功には数分かかった。抜けた拍子に二匹と一頭は、慣性に従って中庭へと転がり出た。
「かぁ、腰を打っちまったよ。なんだってんだいまったく」
 老猫は腰をさする。オディレイは身体を振っていた。モップみたいな身体がたくさんの塵を吸着してしまったのだろう。猫は深呼吸して息を整える。
「どうしたんだいオディレイ。そんなに慌てて。何かあったのかい?」
 問いかけにオディレイは頷いて、伏せをした。乗れということだろう。老猫は慣れた動作で背中に上がる。
「それにしてもよくここが分かったね。あ、いや、においか」
 この言葉に、オディレイはさらに身体を伏せた。ますますモップへと近づいていく。
 老猫は慌てて否定する。
「違うよ。猫だって鼻はいいじゃないか。あんたを犬呼ばわりしたわけじゃない」
 露骨に不機嫌そうな顔をしながら、それでもオディレイは伏せの姿勢を解いた。四本脚で立ち上がり、鼻先を猫に向ける。
 猫は嫌な予感がした。もう老猫たちと一緒に居る理由はないのでここから離れるつもりだったのだけれど、それが出来ない気がしたのだ。そしてこの予感は当たった。
 オディレイが猫の襟首を掴んで持ち上げる。そして凄まじい速度で駆け出した。
 抵抗する暇もなく高速で移動が始まったので、猫は固まるしかない。下ろせと声を上げることさえ出来なかった。
 そうして塒へと瞬時に戻ってくる。
 クロゼットの前には片目の黒猫と、焼けたソーセージみたいに身体の各所が裂けているグィーゴが居た。
「そんな。そこまでやられたのかい?」
 ほとんど叫びながら老猫がオディレイから飛び降りる。猫は地面にべしゃりと落とされた。
「大丈夫よ。見た目ほど酷くない。手当ても済んでるわ」
 片目の黒猫が応じる。老猫はグィーゴの傷口を舐めた。痛いのか、グィーゴの身体が微かに跳ねる。
「ごめんな、さい。し、し、心配をかけてしまって」
「そんなこと気に済んじゃないよ。平気なんだね?」
「そんなに痛くな、ないんです。み、見た目はひ、酷いですけど、平気です」
「誰にやられたんだい」
「飼われてる雌猫たちよ」
 答えたのは片目の黒猫だった。
「雄が相手なら傷はもっと深いし、少ないわ。いたぶったりなんかしない。立候補したから反感を買ったのよ。そうでしょう?」
「それはそ、そうだけど」
「馬鹿ね」
 吐き捨てるように片目の黒猫は言う。
「分かりきっていたでしょう。貴方も知ってたはずよ、傷つくだけだって。私たちは醜いんだもの。なのにどうして、立候補なんかしたのよ」
「だ、だっておいらは」
「やめな小娘。あんたが何に怒ってるか知らないが、グィーゴに八つ当たりするのは筋違いだよ」
「グィーゴ、答えて。どうして立候補なんかしたの?」
 老猫の静止を聞かず、片目の黒猫はグィーゴに詰め寄る。
 どもりながらも、見つめ返せず目を伏せながらも、グィーゴは返答した。
「ここに、居るって、伝えたかったんだ」
 それは正直さが波形になったような声。
「おいらは、不細工だよ。全然か、格好良くない。ずっとな、悩んでた。どうしておいらだけ、毛がな、無いのかって。どうして他の、猫と同じじゃ、ないのかって。でも、皆に会えた。ボスに、オディレイに、君に、会えた。嬉しかった。だからどこかで泣いてる、おいらみたいな猫に、伝えたかったんだ。ここに居るって」
 粗大ゴミ置き場に、グィーゴの言葉だけが、凜と響いた。
 静寂がそれを彩っている。誰もが、呼吸を止めて聞き入ったから。
「どうして?」
 片目の黒猫が問う声は、震えていた。
「さよならの痛みを、裏切られる痛みを、貴方も知っているでしょう? なのにどうして、誰かに手を伸ばせるの?」
「いいんだ。痛くても、いい」
 強い言葉でグィーゴは答える。
「おいらは嬉しかった。いつか、悲しみが来たって、嬉しかったことは消えない。裏切られたって、失ったって、出会ったことは消えないんだ。それを、皆に教わった。だから、今度はおいらの番なんだ」
 言葉の一つ一つに、目映く光る意思があった。
 けれども直後にそれは消えて、グィーゴはまた視線を泳がせる。
「だ、駄目だったし、に、人間被れって、いわ、言われちゃったけど」
 片目の黒猫は俯いていた。だからその顔は見えない。
 けれども、猫にはどんな表情をしているのか分かった。どうしてか、分かったのだ。覚えている感情が自分と同じだということも。
「近づかせなかったわ」
 無機物みたいな冷たさは、もう籠もっていない。
「名前さえ教えなかった。私は、貴方に何も与えてないわ」
「も、もらったよ。おいらは、もらった。君は遠ざからなかったじゃないか。おいら、臆病だから、知ってるよ。それがどれだけ格好いいことか、知ってるんだ」
「そう」
 片目の黒猫が顔を上げる。
 抉れた右目は分からない。けれども開いた左目には、黄金色の火が燃えていた。
「選挙はいつもの広場でやっていたの?」
「う、うん。どうして?」
「どうしてかしら。私にも、分からないわ」
 口の端が微かに上がる。凝り固まった表情筋を、なんとか動かしたのだろう。浮かんだのは、これ以上無いほどぎこちない微笑だった。
 次の瞬間、片目の黒猫は駆け出した。
 塒の外へと真っ直ぐに、その背中は去っていく。
 猫は反射的にその背を追った。反応は他の誰より速い。片目の黒猫が駆け出すと分かっていたからだ。同じように駆け出したくなったから。
「待ちなオディレイ、あんたが行ったら誰があたしを運ぶんだいッ」
 背後で老猫が叫ぶ声が聞こえた。同時に、追いかけてきていた犬の足音が止む。
 片目の黒猫は脚を止めない。猫も同様だ。
〝なんで走っているんだろう?〟
 頭の隅の隅で、冷静な猫が首を捻る。
〝ぼくは何に怒っているの? 自分が馬鹿にされたときさえ、走らなかったのに〟
(そうだね。傷つかないよう大切にするほど、自分に価値がなくなったと、勘違いしていたから)
〝勘違いじゃないよ〟
(ならどうして、嘘とさよならが怖いのさ? 独りぼっちが嫌なのさ?)
〝痛いからだよ〟
(そうだよ、痛いからだ。傷つくからだ。ぼくは本当は、自分が大切で堪らないんだ。自分のことしか考えていないんだ。そんな自分が嫌だから、自分自身から逃げたんだよ。目を背けても、どこまで行っても、ぼくはぼくなのに)
〝逃げたっていいじゃないか。立ち向かう気もないんだから〟
(そうだね)
 猫は顔を上げる。
 風が髭を揺らした。眼球が乾いて、ひりひりと熱を持つ。
(ぼくは立ち向かえなかった。勇気がなかったからだ。でも本当は立ち向かいたかった。勇気を持ちたかったんだ)
 心臓が脈打っている。
 血潮はうねるマグマのよう。
(グィーゴは勇気を持っていた。立ち向かったんだ。でも、そんな彼を嗤ったヤツらが居る)
 息を吐く。白く夜に溶けた。
 猫は牙を剥く。
(彼を嗤ったヤツらが居るんだ)
 広場には美しい猫たちが集っていた。中央にある幾何学的なオブジェには数匹の雄猫が乗っていて、それを雌猫が輪になって取り囲んでいる。オブジェの根元にはクーンとシャムの姿があった。
 猫の前を行く片目の黒猫は、集いの端に速度を緩めず突っ込んでいく。
 衝突の間際、端に居た雌猫が悲鳴を上げた。鼓膜を振わす高音はすぐさま連鎖反応を起こして、潮が引くみたいに空間が出来る。だから誰とぶつかることもなく、片目の黒猫と猫とは中央まで辿り着けた。
 オブジェの台座で足を止める。
 片目の黒猫の隣で、猫は台座の上に居るシャムとクーンを見つめた。
「選挙が大詰めなんだ」
 クーンが冷ややかな声を発する。
「それにレディたちが怯えている。用があるなら後日時間を作るから、悪いけど今夜は帰ってくれないかな」
「待てクーン。オレ様の客だ」
「シャム」
「一分だ。一分だけでいい」
 クーンは咎めるような目をシャムに向けたけれど、一歩下がった。
 シャムは台座から飛び降りて、片目の黒猫に近づく。その視線は一瞬だけ猫に注がれた。けれどもすぐに、片目の黒猫に戻される。
「考え直してくれたか?」
 問いかける声は優しい。顎の下を撫でるようだ。
 片目の黒猫はすぐに答える。
「ええ。嘘を言うのはやめるわ。私は自分に正直になる」
「よく言ってくれた。なら今この瞬間から、おまえはオレ様の雌だ」
 周囲から悲鳴が上がった。隕石が落ちたような騒ぎが起こる。
 その喧噪をシャムは睨み付けた。
「黙れ不細工共。オレ様の決定に逆らうな。こいつはオレ様の雌だ。逆らうやつは八つ裂きにして鴉の餌にしてやる」
 水を打ったように騒音が止む。けれどもどよめきまでは消えなかった。
 その中心で、片目の黒猫は鋭く言う。
「勘違いしないでシャム。私は貴方の雌になるつもりはないわ」
 この言葉にシャムは狼狽えた。
 片目の黒猫は続ける。
「私は嘘をついたわ。思い出は灯だなんて言っておきながら、本当は思い出を捨てようとしてた。失ったものを見るのがつらかったからよ。とびっきり美しいってわけでもなかったくせにね。だから蘇るっていう貴方の言葉に揺れた。失ったことを認めたくなかったから、もう戻らないことさえ忘れていたの」
 眼差しは強く、凜として。
「美しかった私はもう居ない。でも、こんな私を格好いいと言ってくれる猫が居る」
 黄金色の左目が、シャムを真っ直ぐ睨み付ける。
「だから貴方はもう要らない。私は、それを言いに来たの」
 広場は静まり返った。一匹たりとも声を上げない。
 シャムは両目を見開いていた。その瞳の奥で自尊心が揺れるのを猫は見て取る。けれどもそれは一瞬だった。ゆっくり瞼を閉じると、また開き、シャムは尖った耳を撫でる。
「そうか。なら、いいさ」
 強がりは籠もっていなかった。シャムは身を翻して、台座の上に戻る。
「いいや、良くないね」
 そんなシャムの姿を、クーンの冷めた両目が見つめていた。
「君がレディたちを粗雑に扱うのを、今まで看過してきた。誰も愛さないという姿勢は平等だったからさ。皆を愛するボクと、ある意味では同じだった。だから今のは見過ごせない。君は特定の雌を愛した」
「オレ様の勝手だ。オレ様はいつだって勝手にやって来た。平等だのなんだのは、おまえが勝手にそう思ってただけだぜ」
「そうだね。だから、それだけならまだ許せた」
 クーンの両目が真っ黒に染まっていく。
 そこには嘲笑が、憐憫が、憎悪が、差別が、侮蔑が、溶解し渦巻いて踊っていた。
「許せないのは、君が不平等を示したのみならず、そうまでして愛した猫が醜かったことだ」
 シャムの顔が激情に歪む。
「おい。あいつを醜いと呼んでいいのはオレ様だけだ。取り消せ」
「なぜだい? 事実じゃないか」
「美醜は生まれ持ったものだから馬鹿にするのは良くない。そうおまえは言っただろう」
「言ったね。だから馬鹿にはしていないじゃないか。ボクは事実を述べているだけだ」
「詭弁だッ」
「そうかな。ボクは区別しているだけだ。美は美、醜は醜。陽の光を浴びる蝙蝠がいるかい? ボクは気持ち悪いと思うよ。陽の当たる場所に出てこようとする蝙蝠も、蝙蝠を陽の当たる場所に出そうとするやつも」
 この言葉でついに忍耐力の限界を迎えたのだろう。シャムは爪を立てた右前脚を振り上げる。
 けれどもその右前脚が振り下ろされることはなかった。
 それよりも早く我慢の限界を迎えた猫が、クーンに飛びかかったからだ。
(グィーゴは勇気を出したんだ。彼女だって。それを)
 喧嘩なんかロクにしたことがない。兄弟ジャガーに数秒で負かされるほど弱いのだ。猫自身、己が弱いことを自覚している。
 それでも猫はクーンに爪を向けた。
(それを、よくも馬鹿にしたな)
 自分でも何を言っているのか分からない叫びを上げながら、猫はがむしゃらに前脚を振る。爪の先が肉を抉る感触を、何度か感じ取った。
 けれども攻勢が維持できたのはほんの一刹那。バランスを崩した隙を突かれて、猫はクーンの頭突きを食らい、台座から転げ落ちる。脚から着地は出来たけれど、頭突きされた場所が悪かったようで、視界がぐらりと揺れた。
「あ、あ、血だ。ボクの顔から、血が」
「落ち着けっ。大した傷じゃない」
 慌てるシャムの声と、呆然としたクーンの声とが聞こえる。
 直後、唐突にクーンの声が裏返った。
「ボクの美しい顔を、傷つけやがったなァッ」
 やられる。そう思って猫は地面に伏せた。未だに視界が揺れていて、防御するにはそうするしかなかったからだ。
 けれどもクーンは攻撃してこなかった。
「叫べレディたちッ。叫ぶんだッ」
「やめろ、彼女も居るんだぞっ」
 シャムの静止の声も空しく、広場は何百もの金切り声に埋め尽くされた。
 猫は耳を塞ぐ。それほど凄まじい音圧だったのだ。
 視界はまだ靄がかかっている。それでも徐々に焦点が合ってきた。蠢く猫たちの影が見える。
 そのとき、頭を誰かに叩かれた。
 片目の黒猫が隣に居る。口が大きく動いていたので、何かを訴えているのだと猫は理解する。けれども叫びにかき消されて、その声は聞こえない。
(何、なんて?)
 耳に当てていた前脚をどけて、猫は懸命に聞き取ろうとする。そこで叫びの音量が下がっていることに気がついた。見れば周囲の雌猫たちはかなり減っている。
「逃げるわよっ」
 片目の黒猫の声を、ようやく猫は聞き取る。
「野良猫狩りの連中が来るわっ」
 その言葉でようやく猫は思い出す。
 猫の鳴き声に引き寄せられてやって来る、残虐非道な三角頭巾を。
「逃がすかァッ」
 立ち上がった猫にクーンが駆け寄ってくる。
 猫は咄嗟に身構えたけれど、抗戦は避けられた。背後に詰め寄っていたシャムが、クーンの上からのし掛かって止めてくれたからだ。
「行けっ。ここはオレ様に任せろ。とにかく遠くへ行くんだっ」
 決死の表情でシャムが叫ぶ。その頬に、藻掻くクーンの爪が走った。シャムの頬から血が流れる。
 瞬間、猫は躊躇った。ここで逃げてもいいのかどうか。
 けれどもその逡巡は、片目の黒猫によって一掃された。
「ありがとう」
 シャムにそう叫ぶと、片目の黒猫は塒へ戻る道へと駆ける。その所作がなにより雄弁に猫の取るべき行動を教えてくれたのだ。シャムから視線を切り、猫は片目の黒猫を追いかける。
 しかし広場から出てすぐのT字路で、塒への最短経路は絶たれた。
 道を塞いだのは、無骨な檻を背負ったトラック。街と同じ鈍色の車体から響くのは、豚の鼾みたいなエンジン音。
「野良猫狩り」
 恐怖と憎悪の混じった声が片目の黒猫から漏れる。
 それと同時、扉が左右同時に開いた。運転席からはデブ、助手席からはノッポが、共に降りてくる。被った頭巾の内側は分からないけれど、怒気を漲らせていることは分かった。扉の開閉が八つ当たりのように激しいのだ。助手席側に至ってはヒンジが壊れたのか閉まりきらず、歪んだ扉と車体とがぶつかって轟音を立てた。
「逃した獲物は厳しく調教」
「逃した獲物は潰して回収」
 ノッポは鞭を振い、デブは麻袋の口を開閉する。その台詞から、猫は狙われているのが自分だと察知する。
 どう逃げるのが最善か。
 脇をかいくぐるのは不可能だ。ノッポの鞭捌きを猫は一度見ている。そして広場に引き返すわけにもいかない。広場には傷を負ったシャムが居る。汚い猫の基準が猫には分からないから、毛並みをぐしゃぐしゃにして血を流しているシャムをデブとノッポがどう判断するか分からない。
 だから残る逃走経路は、広場にも塒にも繋がらない真後ろの道だけ。
「後ろ、真っ直ぐっ」
 猫と同じ結論に行き着いたのだろう。片目の黒猫は踵を返す。猫も後に続いた。
「調教調教。調教調教調教調教」
「回収回収。回収回収回収回収」
 甲高い雄叫びを上げながら、ノッポとデブが追ってくる。
 二十メートル先で道がまた分かれていた。土地勘がない猫は判断を片目の黒猫に委ねる。
「貴方は左っ」
 息を切らしながら、片目の黒猫はそう叫んだ。
 追っ手を分散させる気なのだと猫は理解する。そして良策だと感じた。
(あの二人は逃した獲物を、ぼくを追ってる。ぼくが引きつければ、彼女は逃げられる)
〝でも代わりにぼくが危険だよ。道も分からない。どうしてそこまでするの?〟
 頭の隅の隅で、冷徹な猫が首を傾げる。
〝ぼくにとって彼女はそこまで大切な存在じゃないのに〟
(そうだったけど、今は)
 見てきた全てを思い出す。
 手を差し伸べること。その難しさ。
 手を出せなかったこと。そのつらさ。
 あの手に気付けなかったこと。
 あの手を掴めなかったこと。
(今は分かるんだ)
〝分かるって、何が?〟
 片目の黒猫と二手に別れる。
 デブとノッポは二人ともこちらに来ているだろうか。左手の道に駆け込んだ猫は、振り返って追っ手の有無を確認する。
 目に映ったのは、片目の黒猫が逃げた右手の道に駆け込んでいくデブ。
 ノッポの姿は見えない。猫は混乱して足を止めた。
(どうして。ノッポの方が足が速いのに。いまデブが彼女のほうへ曲がっていった)
 それはつまり、二人ともが片目の黒猫を追ったことを意味している。
(変だよ。逃した獲物をあの二人は)
 そのときようやく猫は気付いた。
 初めてこの街に来た猫と、半年前からこの街の野良猫だった片目の黒猫。なぜ気付かなかったのだろう。老猫も言っていたではないか。片目の黒猫だって過去に野良猫狩りから逃げている。しかもそれは半年前のことだ。もしそれ以降も何度か遭遇して、その度に逃げていたとしたら。特徴的な右目の傷を、野良猫狩りに覚えられていたとしたら。
(逃した獲物はぼくじゃない。彼女だったんだ)
 けれども、だとするなら片目の黒猫自身がそれを知らないはずがない。
(左に行けって、彼女が言った)
 そうやって、自分だけに野良猫狩りを引きつけたのだ。
 何のために?
 猫は顔を上げる。
 全速力で引き返し、右手の道へと駆け込んだ。
〝どうして彼女を助けようとするの?〟
 頭の隅の隅では、小さな自分が喚いている。
〝分かり合うことも出来ない。さよならも避けられない〟
 道は直線だった。迷わずに済むことを猫は安心する。
〝似ていても同じじゃない。裏切りの恐怖も消えない〟
 途中でデブを追い越す。
 限界を超えた疾走に大腿筋が千切れそうだ。
 それでも猫は石畳を蹴る。
〝一緒だけど一緒じゃない〟
(そうだね)
 酸素が足りていない。だから脳が誤作動したのだろうか。見えるはずのない景色が、網膜に投射された。
 それは北極星になってから見続けてきた、いくつもの変化の思い出。
(それでも一緒に居たいんだ。全部は分かり合えなくたって、ほんの少しは分かるから)
〝さよならは凄く痛いのに〟
(彼女もそれを知っている。臆病なぼくと同じように。だから分かるんだ。踏み出してくれた一歩の勇気。その掌の温かさ)
 辿ってきた景色の中では誰もが疑って、失って、それでも深く息をして、ごはんを食べて、顔を上げた。
 触れ合って離れて、誰もいなくなった場所には、足跡だけが輝いている。
(だから彼女を助けたいんだ)
 全部、猫は覚えていた。
(失ってしまう痛みより、一緒に居られた思い出を、ぼくの心が求めてる)
 ノッポの背中を視界に捉える。
 小さな猫は卑屈に言った。
〝綺麗事だ。そんな勇気はぼくにはないよ。ぼくは何にも持っていない〟
(持っているよ。ずっと見てきたじゃないか。北極星みたいに、ずっと)
 猫は大きな声で鳴く。
(眩しいくらいの思い出を、こんなにも持っているじゃないか)
 ノッポが猫の存在に気付いた。三角頭巾が振り返り、背後の猫に頭を向ける。
 けれども鞭は前に撓った。
 それは片目の黒猫の後ろ足に命中し、鋭い音を響かせる。
 再び前を向くノッポ。高笑いが石畳に響き渡る。片目の黒猫は動こうとした。けれども引きずられた後ろ足は、それ以上の走行が不可能だと語っている。
 鞭が鈍色の空に踊った。
 狙いはとどめの一撃だろう。片目の黒猫にもうそれを避ける術はない。鋸みたいな歓声を上げて、ノッポは鞭を振り下ろす。
 猫は跳んだ。
 石みたいな筋肉を酷使しての大跳躍。猫は鞭の軌道上に躍り出て、片目の黒猫の代わりに一撃を受けた。
 熱した鉄で殴られたような痛みに襲われる。お腹の中で風船が弾ける音がした。頭から石畳に叩きつけられてバウンドし、猫は雑巾みたいに転がる。
(彼女は?)
 視界は真っ白だ。鼓膜の内側でジェット機が飛んでいる。四肢の感覚がなかった。
(彼女は、大丈夫なの?)
 少しずつ感覚が戻ってきた。猫は血を吐く。叫び声と笑い声。曇った空が見えた。灰色の石畳。
 片目の黒猫が泣いている。
 その向こうで、ノッポが鞭を舐めている。
(ああ。良かった、彼女は無事だ。でも次がすぐ来る)
 猫は立ち上がろうとする。けれども身体は動かない。
 逃げてという言葉の代わりに、またしても血が口から零れた。
(まだ駄目じゃない。もう一度跳ぶんだ)
 脚は一ミリも動かない。
 ノッポが鞭を振りかぶる。
(彼女を守るんだ)
 犬の遠吠えが聞こえたのはそのときだった。
 すぐ近くから響いている。ノッポは動きを止めた。そして後ろに振り返る。驚愕からか、その身体は瞬時に固まった。
 ノッポ越しに猫はその犬を目にする。
 道の中心に四つ足で踏ん張って、天高く吼えているのは、薄汚れたモップみたいな大型犬。
(オディレイだ)
 猫の視界が滲む。
(オディレイが吠えている)
 遠吠えをやめると、オディレイは鋭い牙を煌めかせてノッポに飛びかかった。そしてあっという間に組み伏せる。喉笛に噛みつかれたノッポは赤ん坊みたいに喚きだした。
「オディレイ、うしろっ」
 片目の黒猫が叫ぶ。遅れてやって来たデブが迫ってきていた。
 けれどもデブの脅威は直後に去る。背後から猛スピードで突っ込んできた車に轢かれたのだ。それは野良猫狩りの二人が乗ってきた、今は誰も乗っていないはずの、檻を積んだ灰色のトラック。その前面は何度も壁にぶつけたようにへこんでいる。ついさっき猫が見たときにはそんな傷はなかったというのに。
 トラックはデブを轢いてもなお、かなりの速度で走行していたけれど、ノッポの脚をちょうどタイヤが潰した瞬間に急停車した。
 咄嗟に避けたオディレイは、片目の黒猫を咥えて持ち上げ、トラックの助手席に近づく。
「ドア開けとくれっ。グィーゴは手が離せないんだ、あたしゃこんなん開ける力ないよっ」
 壊れて歪んだ助手席側のドアからは、聞き覚えのある嗄れ声。
 オディレイは一度片目の黒猫を石畳に下ろすと、鼻先と前脚とを使って器用に扉を開けた。そしてまず片目の黒猫、次には猫を、トラックに運び込む。
「の、乗ったね。ぶ、ブレーキは、離すよ」
 運転席の下部ではグィーゴがペダルを抑えていた。その前脚がペダルから離れると、トラックはゆっくりと進み出す。
「ボス、あ、アクセル踏んで、ください。おいらは、ハンドルう、動かします」
「アクセルってなんだい?」
「さ、さっき踏んでたじゃな、ないですか」
「わっかんないよ人間の道具なんざ。もっかい言いな」
「そっちです、そっち」
「あぁん?」
 恐ろしい会話を交わしながら、車は徐々に速度を上げていく。グィーゴは笑った。
「すごい、運転してる。人間被れだ。運転してる」
「笑ってないでちゃんとやりなっ。またぶつけたら承知しないよ、あたしゃもうコブが出来てんだっ」
 脇からオディレイがワンワンと合いの手を入れる。やり取りはとても賑やかだ。その輪の端に自分も居ることが、猫には信じられなかった。
(なんだかふわふわの中に居るみたいだ)
 咳き込む。また血が出た。座面に滲む。身体中が痛い。手足は今も動かなかった。打たれた腹を舐めたいのに、身を捩ることも出来ない。
 そのとき片目の黒猫が、猫の脇腹を舐めてくれた。
 何度も、何度も。
 そうして温もりが身体にじんわり染みた頃、片目の黒猫は顔を上げた。
 潤んだ左目から、一粒の雫が落ちる。
「私の名前ね、クロエっていうの」
 その告白までにどれほどの道程があっただろう。
「貴方の名前は?」
 尋ねられる。でも答えられない。猫には名前がないのだ。
 だから代わりにこう言った。
「クロエ、ぼくと友だちになってよ」
 猫の言葉にクロエは左目を見開いて、それからやっぱりぎこちない、けれども本当に綺麗な笑顔を浮かべる。
 黄金の瞳は鮮やかで、この街に月がないのはクロエの左目に閉じ込めてしまったからじゃないかなと、猫は思った。
(でもこんなに綺麗な目を、君自身は知らないんだね)
 そのことが猫にはなんだか嬉しかった。
(ぼくは君じゃないから、知ることが出来たよ)
 ぽかぽかとした安心感が身体中を包む。そのせいだろうか。急にたくさんの疲れが押し寄せてきて、痛みがすうっと去っていった。睡魔がどこからかやって来て、猫の瞼を閉じさせる。
 クロエの叫び声が聞こえた。身体が揺すられた気もする。けれども瞼は開けられなかった。とんでもない眠気なのだ。
(大丈夫。少し眠るだけだよ)
 ちょっと眠って、そのあと起きたらどうしようか。猫は初めて、そんなことを考える。
 けれども答えを出すより先に、するりと夢へ落ちてしまった。