猫が目を覚ますと、喫茶店に居た。
 瀟洒なオープンカフェだ。テーブルと椅子が整然と並んでいる。しかしどれもサイズが違っていた。人間が座るに適したサイズのものから、猫の座る席のような背の低いもの、象が乗れるほどに大きいテーブルもあれば、鼠用かと思しき椅子もある。共通しているのは色だけだ。どれもが夜の空みたいに黒かった。
 その黒色に、猫は密林の薄暗さを思い出す。
 尻尾を探してみた。けれどもやはり、見当たらない。あるのは千切れた痕だけだ。
(夢じゃなかった)
 猫は落ち込む。同時に、寒さで身体が震えた。店内はひどく静かで、冷たい。
 周囲を見れば、カフェには誰の姿もなかった。
 猫だけが外に面した椅子に座っている。他に客は居ない。それどころか店員の姿も見当たらない。灯りも付いていないので、店内は薄暗かった。猫は明るい外側へ目を向ける。
 景色は黒い。空は鉛色だ。遠くの雲間からは天使の梯子が降りている。その最下段は黒色の大地に続いていた。
 濃い鉛筆で塗りつぶしたような地面だ。見渡す限り一面の黒で、柔らかそうな見た目をしている。風が吹くと波打つように揺れて、黒い粉を散らせた。同じ粉は空からも落ちてきていて、しんしんと地面に降り積もる。
 気温が高ければそれが雪だと気付けなかっただろう。
 凍てつくような空気と、死んだみたいに静かな世界。これは雪景色なのだ。違うのは白が黒に変わっていることだけ。際限なく降り続く粉雪は、黒い平原の向こうに見えるビル群を、陽炎みたいに揺らしている。
(寒いな)
 客なんていなくて当然だ。こんな日にオープンカフェへ来るものなどいない。猫の席は晴れていれば特等席であろう場所なので、風が一層身に染みた。
 身体を縮めて丸くなる。もっと内奥に移動すれば少しはマシなのだろうけれど、動く気力が起きなかった。温かいところに逃げたって、尻尾が生えるわけじゃないのだ。
(それなら、どこだってここと同じさ)
 黒い雪、灯りのない店、沈黙の世界。まるで、猫のためにあつらえたような席。
 猫は寂しかった。
(どうして? 今までだって、ずっと一匹でいたのに)
 首に傷のあるキリンのことを思い出す。またあのキリンに会いたかった。でも会えない。首に傷のあるキリンはもうどこにも居ないから。
 兄弟ジャガーを思い出す。一緒に遊んだ楽しい時間。そして、その後にあったこと。
 はじめての友だちだった。
〝素敵な笑顔だったね。綺麗な白い歯でさ。でも内心ではぼくのことを嘲笑ってたんだよ〟
 頭の隅の隅では、冷静な猫が自嘲を浮かべている。
(寒いな)
 空っぽの胸を抱きしめるように、猫はますます丸くなる。
 そのとき毛布が掛けられた。
 空色のブランケットが、猫の身体を包み込む。寒さはぐっと和らいだ。誰が掛けてくれたのだろう。猫は顔を上げた。
 コウテイペンギンが立っている。
 いつからそこに居たのだろう。左右のフリッパーを器用に動かして、コウテイペンギンは猫の身体に毛布をぴったりと押しつけてくれている。生のペンギンを見るのが初めての猫は、想像していたより大きな身体に驚いた。博物館で写真を見たことがあるだけだったのだ。まさか一メートルも背があるなんて考えてもいなかった。
 やがて猫に毛布を巻き終えると、コウテイペンギンは満足したのか小さく頷く。人間的な所作だった。しかもよく見てみれば人間的なのは所作だけではない。シックなベストを着ている上に、紺色のネクタイを巻いていた。特注であつらえたのだろうか、丈は身体にぴったりだ。縫製は巧みで、胸元には飾り刺繍も施されている。
 そこにもう一羽のコウテイペンギンが台車を押しながら現れた。台車には器が乗っていて、薄明に似た湯気が上がっている。
 台車を停め、ペンギンがテーブルに器を置く。
 柄のない真っ白の器には、ホットミルクが注がれていた。
(くれるの?)
 二羽のペンギンは並んで礼をすると、現れたときと同じように、音もなく去っていく。
 再び静寂が猫を包んだ。しかし今度は毛布と湯気も一緒である。どうやらくれるみたいなので、猫はミルクに舌を付けた。
(適温だ)
 すぐに飲むことが出来た。冷えていた四肢にじんわりと、ミルクの熱が伝播する。
 そのとき、火花が弾けるような音が聞こえた。
 猫は顔を上げる。さっきまで空席だった対面に、見慣れぬものが座していた。
 ペンギンのようだ。けれどもコウテイペンギンではない。大きさは同程度だし、嘴の形や身体のラインは瓜二つだけれど、色合いが全然違う。黒と白が基調だったコウテイペンギンに対して、こちらは薄緑色をしていた。しかも色味はゆるやかに変化していて、青竹や青磁みたいに淡くなったかと思えば、次には松葉や柳みたいに濃くなる。ときどき猫の好きな海の色になることもあった。
「はじめまして」
 よく通る低い声。嘴が上下すると、また火花が散る音がした。しかも身体の外縁が揺れて、所々が爆ぜるように明滅する。
「私の名前は、色々あるんだが、最近ではクオと呼ばれている。君の名前は?」
 紳士的な口調でクオは問うてくる。
 答える気がしなかったので、猫はまたミルクを舐めた。頭の隅の隅で、小さな自分が笑い出す。
〝ぼくは弱虫になってしまった。関わることが怖いんだ。嘘とさよならに怯えてる〟
(うるさい、いいんだ。どうせ名前もないもの)
「なぜ名前を持っていない?」
 クオの質問に、猫は驚いて顔を上げる。
 心中の言葉を聞き取っているかのようなタイミングだった。猫はねむねむさんのことを思い出す。ねむねむさんは猫の思考を読み取るし、自己紹介の時は色々な名前を持っていると言った。目の前のペンギンと同じように。
「そうだ、私は古くからねむねむと交流がある」
 また猫の思考に沿った言葉が返ってくる。やっぱり心を読んでいるらしい。
 猫は不機嫌になった。自分は黙っていたいのだ。お喋りなんかしたくない。それに、このペンギンがなんだか偉そうにしているのが不満だった。
(ねむねむじゃないよ。ねむねむさんだよ。さん)
「どっちでもいいだろう、大したことではない」
 嘴の先から火花が散る。
 黒い雪と白い陽光と鈍色の空が景色を占める中で、多彩なクオは鮮烈な美しさだった。けれどもその美を以てしても、猫の不満は和らがない。
「私と話をしたくないのか」
(あっちへ行って)
「残念だ。会える時を楽しみにしていたのだが」
(あっちへ行ってよ。独りにして)
「私が居ても居なくても君は独りだろう」
(貴方の所為で独りになれない)
「それは違う。私が居たって君は独りだ」
(どうして?)
「孤独には二種類あるが、そのうちの一つは自身の中にある未知だ。誰かが自分を見ているが、どう見ているかは分からないとき、その誰かの中には自分の知らない自分が生まれる。しかしそいつは、自分が知らないだけであって紛れもなく自分自身なのだから、自分の中にもやってくる。決して離れられない自分という存在の中に、未知が生じる。それは恐怖だ。分からないことほど恐ろしいことはない。だから恐怖に名を付けた。せめて少しでも分かるように。その名のことを孤独というんだ」
(難しい話は嫌いだよ)
「難しくはない。君の内側にも居るだろう。とても小さいだろうが、頭の隅の隅に、誰かと接するまでは居なかった自分が」
(居ないよ)
〝それは嘘さ〟
(うるさい)
「そいつは君の中に居る。だから私が居ても居なくても、君は孤独と離れられない」
(こんなやつのことなんて無視する)
〝出来もしないくせに〟
(うるさい)
「無視しても無駄だろう。もう一種類の孤独は決して語らない。そいつはじっと君を見つめるだけだ」
(もう一種類?)
「他の誰かにとっての、自分の知らない自分だよ。君がかつて誰かの中に自分の知らない自分を見出したとき、同じようにその誰かも、自分の知らない自分を君の中に見出している。そいつは君の中に生まれたから、君の中に居場所を持って、ただじっとしている。けれどもそいつは君ではないから、君にはそいつが分からない。そいつが生きているのなら、分かろうと努力することも出来るだろう。上手くすれば怖さが薄れることもある。だがもしそいつが死んでしまったら、君にはもうそいつのことが絶対に分からない。そいつは遠くからじっと君を見つめるだけになる」
(難しい話は)
「難しくなんてないんだ。君はもう全部知っているだろう」
〝そうさ、ぼくは全部知っているよ〟
(知らない。ぼくは知らないよ)
「優しく撫でてくれていたって、心の中は分からない。とてもそうとは見えないが、本当は嗤っているかもしれない」
〝それは大いに有り得ることだ〟
「たとえ誰かと親しくなっても、必ず別れはやってくる。そいつは君の一部を抉って、自分の一部を置いていく。涙が出るほど痛いのは、全部を分かり合えないからだ。胸の洞穴に残った孤独は、一生君を苦しめる」
〝だから誰とも関わりたくない。嘘とさよならは痛すぎる〟
(そうとも。ぼくは怖いんだ。だからもう何も言わないで。弱虫の何が悪いのさ。お願いだから)
 髭が濡れる。
 大嫌いな塩水が、猫の目から零れた。
(お願いだよ。もう何も言わないで)
 クオは黙った。頭の隅の隅に居る小さな猫も黙った。
 寒風に涙は凍り付く。鼻水が出た。猫は鼻を啜るけれど、上手くいかなくて、意図とは反対にもっと出てしまう。
 すると奥からコウテイペンギンが箱のティッシュを持ってやって来た。指もないのにどうやってか、器用に一枚抜き取ると、猫の顔をわしゃわしゃと拭く。猫は思い切り鼻をかんだ。コウテイペンギンは静かに拭う。
 火花の爆ぜる音がした。
 ティッシュが顔から離れたとき、猫はクオの身体が揺らいでいるのを見る。
 クオは何か言いたげに嘴を開けたけれど、すぐに閉じた。猫のために黙ってくれているらしい。その所作に、猫は少しだけ、クオへの不満を和らげた。
(もう喋ってもいいよ)
「すまない。あまり長く一つ所には留まれなくてな。私は極めて電子的な存在なんだ」
(難しい話は嫌いだよ)
「難しくはない。集合的無意識、形而上的概念の結晶、あるいは認識における差異の集積が私だというだけのことだ」
(難しいよ)
「要は形のないものが私だ。反対に形あるものは全て、ねむねむのもとに行き着く。現在過去未来における全情報の管理人がねむねむだ」
(貴方は何が言いたいの?)
「一つだけ聞きたかったのだ。君はねむねむから名前をもらわなかったのか?」
(もらわなかったよ。要らないもの)
「そうか」
 一瞬、猫はクオの表情がとても悲しげに歪むのを見た。けれどもクオはずっと揺れているので、錯覚かもしれない。
 クオの嘴が猫の隣を向く。
 そこではコウテイペンギンが箱ティッシュを持ったまま待機していた。猫のために居てくれているようだ。
「野生のペンギンは南半球にしか居ない」
 思い出したようにクオは言う。
「しかし鳥類は知性を獲得した。彼らは船に乗って北半球にやって来たのだ」
(ふうん。どうして?)
「聞いてみるといい」
 猫はコウテイペンギンを見つめる。
 注目されるのに慣れていないのか、恥ずかしそうに顔を伏せて、コウテイペンギンは答えた。
「見たことない景色を見たかったんです」
 そのとき突然、はしゃぎ声が聞こえた。
 幼い子どもの声だ。籠もったような響きだけれど、猫の耳にはそうと分かった。くぐもっていても独特の甲高さがある。声の方向に目を向けると、背の低い人間が二人、黒い積雪の上を走り回っている。厳ついマスクと分厚い服を纏っているので性別は分からない。
「ガスマスクと防護服だ」
 クオが呟く。
「文明は崩壊してしまった。人間は減ったよ。生身で地上を歩けなくなってからは、凄まじい勢いで倒れていった」
 二人の子どもはそれぞれが、黒い雪玉を転がし始める。
 きっと雪だるまを作るのだろう。マスクの中に笑顔が広がっていることが、はしゃぐ声から読み取れる。
「いくら身体を守っても、長い時間は遊べない。保って十五分というところだ」
(たったそれだけなの?)
「ああ。それを過ぎたら、子どもたちは地下に戻って、地下で遊ぶ」
(じゃあ、どうして地上に出てくるの? ずっと地下で遊べばいいのに)
 猫の疑問にクオは答えない。
 オーロラみたいな身体が揺れて、花火みたいな光を放つ。
「特別だからじっと見つめる。特別だから見つめ返す。心というのは不思議だな。視線が真っ直ぐ交わると、互いが互いをどう思うのか、分からなくなってしまうんだ」
(前によく似た話を聞いたよ)
「今の君なら分かるだろう? 君は孤独を知ったのだ」
(知りたくなんかなかった)
「どうあれ君は知ってしまった。以前の君はもう居ない。何もかも変わっていくんだ。変わらないではいられない」
(どうして変わってしまうのさ。ぼくはぼくのまま居たかった。ふわふわしっぽととんがり耳の、素敵なぼくはもう居ない。ここに居るぼくはぼくじゃない)
「いいや、君は君なんだ。どれだけ変わってしまっても」
(嫌だよ。どうしてぼくはぼくなの?)
「君は他の誰でもないし、他の誰もが君ではないからだ」
 クオの身体が掠れていく。
 シャボン玉が弾けるみたいに、泡になった身体が空気へ溶けていく。
「会えてよかったよ。名前を聞けなかったのが残念だが、無いというなら仕方ない。そういうこともあるだろう」
(お別れなの?)
「ああ。悲しいか?」
(悲しくなんかない)
「そうだな。君は知っている。行き着く先は誰もが同じだ。生まれた場所に還るだけ。だから悲しくなんかない」
(そうさ)
「そうかな」
 幽かな笑みを浮かべると、クオの全身は宙に消えた。
 北風と粉雪、それに冷めたミルク。それだけが机上に残ったものだった。
(悲しくなんかないよ)
 猫は自棄になってミルクを舐める。
(悲しくなんかないんだ)
 それからのことを猫はよく覚えていない。コウテイペンギンが猫を宥めて、温かいミルクを注ぎ直してくれた気がする。でも記憶違いかもしれない。優しくしてくれるコウテイペンギンになぜだか腹が立って、八つ当たりした気がする。これも曖昧な記憶だ。身体が冷え切って震える猫を、コウテイペンギンたちが店の奥に運んでくれたことは、たぶん確かだろう。お腹の下にクッションが敷かれているし、近くには火の点いた薪ストーブもある。
 大きな黒い雪だるまが、閉じた瞼の裏に浮かんだ。
 これはたぶん夢だろう。二人の子どもが十五分で作るには、あまりにも巨大すぎた。けれどもその絵は目に焼き付いて、微睡みの中に居続ける。
 瞼を閉じてからも、猫はしばらく眠れなかった。