猫が目を覚ますと、墓標と黒い服が見えた。
芝生の上には数多の墓石が等間隔に並んでいる。敷地面積に余裕があるためか、一つ一つの間隔は広い。猫が居るのは隅の一角、大勢の男たちが集う墓碑の隣だった。男たちの目が見下ろす地面からは、掘り起こした土を戻したばかりなのだろう、香しい命のにおいがする。その上には花束がいくつも並んでいて、鮮やかな色彩を散らしていた。
(不思議だな。生きている人間は生き生きしていないのに)
花のにおいを嗅ぎながら、猫は頭上を見上げた。
壮年から老年までの男たちが、独特の表情を浮かべて佇んでいる。瞳に浮かんだ感情は人によって様々だ。きっと故人の親戚や親友や部下や好敵手や恩師や顔見知り程度の知人が、一堂に会しているのだろう。
「偉大な人だった」
男性の一人がぽつりと呟いた。それが堰を切ったのだろう、男たちは口々に語り出す。
「けど子どもっぽい人でもあった」「そうだな」「うっかり図書館に閉じ込められて、しかもそれに気付かないとか」「ああ、あったな」「彼が書庫に居るのを忘れて、司書が鍵をかけたんだっけか」「けどあの人は集中しすぎてて」「そうそう」「翌朝思い出して慌てて鍵を開けた司書になんて言ったんだっけ?」「待って、いまいいところ」「司書は愕然としたらしいな」
いくつかの笑い声。いくつかの困り顔。それらが墓碑の前に浮かぶ。
「あの人以上の本好きは居ないよ」「古文書解読のエキスパートだった」「あの人が居なければかつての文明について、今もほとんど分かっていないに違いない」「歴史、地理、言語、科学、文化、何でも知っていた」「知の化け物だよ」「おかげでどれほど苦労したか」「金食い虫だ。研究費で本を買い漁る」「しかし欲したのは本だけだったよ」「晴耕雨読を地でいってたな」「ああ、庭の田畑で自給自足だ。給料で古書を買って大学に寄贈してた」「酒、車、女、そういった言葉をあの人からはついぞ聞かなかったな」「いや一度だけ」「そう、あの強欲婆さんだ」「そんな言い方」「別にいいだろう。娘さんはあっちに居るし、当人は埋葬が始まったときから居ない」「嘘だろ?」「本当だ。あの婆さんは夫の埋葬を見もしなかった」「あの人は女性を見る目がない」「美しかったが、それだけだ。あの人の言うような綺麗な心なんて持っていなかった」「まったく、よりにもよってなんであんな女性と?」
男たちは揃って首を傾げる。
「なんで彼は、あんな女性と結婚したのだろう?」
散歩に行こうと猫は立ち上がり、墓碑を囲む男たちの足下を抜けた。
少し離れたところに、男たちと同様に黒い服を纏った女たちが居る。付近を走り回る子どもたちを横目で見守りながら、女たちは会話に興じていた。
「晩ご飯どうしましょう」「あーあ。男たちはいいわよねえ、葬式っていったらお酒飲んで懐かしんでるだけなんだから」「あの、晩ご飯でしたらシュトゥルクリにするつもりです」「なあに、それ」「父が生前得意だった料理です。父は料理のレシピも解読してまして、前の文明の食を学ぶんだって、よく作ってたんです」「あらすごい」「いいわねえ、うちの亭主にもそんな甲斐性があったら」「うちの飲んだくれもひどいもんさ。手伝う素振りも見せやしない」「逝くのがうちの旦那だったらねえ。保険金で引っ越せるのに」
服装も黒いけれどお腹の中も黒いらしい。女たちは軒並み亭主のことが嫌いらしく、ぐちぐちと文句を垂れていた。
「本当、いい人ほど早く逝くよ」「あの人、庭で野菜育てたりもしてたんでしょ?」「偉いわ、すごいわ」「あの人とも全然喧嘩しなかったんでしょ」「いえ、母とはしょっちゅう喧嘩していましたよ」「そうなの?」「でもあの人、気に入らないことがあるとすぐ怒鳴るじゃない。喧嘩ばかりでよく続いたわね」「ええ、私も不思議です。どうして母はずっと父と一緒に居たのか」「貴方のためじゃないかしら?」「それはありません。だって私が夫を亡くしたとき、嫁に行ったんだから向こうの実家を頼れ、出戻りは絶対許さないって、母は怒鳴ったんです」「そんなことがあったの」「ええ。仲、悪いんです。もし私が息子を産んでなかったら、今も敷居を跨げてないかもしれません。私を養育するお金があればバッグやスカーフが買えたって思ってるんですよ」「それなのによくあの人と続いたわね。お給料は全部本に使う人だったんでしょう」「そうなんです。私も不思議で」
女たちは揃って首を傾げる。
「なんで彼女は、あの男性と一緒に居たのだろう?」
猫は女たちの間を抜け、墓碑の間をのんびり歩いた。
足下に目を向けてみれば、黒い服を纏った人々とは対照的に、タンポポの白い綿毛が揺れていた。綿毛は付近を子どもが駆け抜ける度にその身を少しずつ空へと放っていく。その綿毛が付着する子どもたちの服装は、大人に着せられたのだろう、無垢な顔には似合わない黒色だった。
「つよいぞ、それいけ」「悪者をやっつけろ」
子どもたちはロボットの玩具を掲げながら、全速力で走っている。悪者をやっつけろと言っているけれど、どの子も似たようなロボットしか持っていないので、きっと悪者役は居ないのだろう。
(あれ。あの子は何にも持ってないぞ)
勇ましく走る子どもたちの中に一人、ちょっぴり背中を丸めて、手ぶらで駆けている男の子が居た。
猫はその男の子を目で追いかける。しばらくすると他の子どもたちも手ぶらの男の子に注目しだし、その子を中心にして集まった。
「おまえ、どうしたんだよ」「なくしたのかよロボット」「さっきまで持ってたじゃんか」「なんで言わないんだよ、探してやるよ」「いいよ、ぼく、なくしたんじゃないもの」「じゃあどうしたんだよ」「お墓に入れたんだよ。お祖父ちゃんといっしょに埋めたんだ」「もったいね。なんでそんなことするんだよ」「あれ、ばあちゃんが買ってくれたって言ってたじゃんか」「おれのかあちゃん言ってたぞ。おまえのばあちゃん欲張りだって」「もう買ってもらえないんじゃないの?」「そうかもしれないけど、しょうがないよ。あのロボットはお祖父ちゃんから借りてたものだから」
男の子の言葉に、周囲の子どもたちは不思議そうな顔をした。
「おまえが買ってもらったんだろ?」「違うよ。ぼくにくれただけで、お祖父ちゃんが買ってもらったんだ」「なにそれ、へんだよ」「おまえのじいちゃん、何にもほしがんない人だったじゃん」「本買ってもみんな学校にあげてたって」「なのにロボットほしがるのかよ」「聞きまちがいじゃないの?」「でもお祖父ちゃん、ぼくにそのうち返してくれって言ったんだ」「おまえのじいちゃん、そんなにロボット好きだったの?」「そうじゃないけど」「なのに買ってもらったの?」「へんだよ」
子どもたちは揃って首を傾げる。
「どうしておまえ、じいちゃんがロボット買ってもらったなんて言うんだよ?」
猫は子どもが苦手だ。いつ突拍子のない行動をするか分からない。だから襲われないうちに距離を取ろうと墓地を出た。
寂れた田舎道をしばらく歩くと、やがて幻想的な風景を目にする。
道の切れ目の、その向こう。人々に忘れ去られたような場所は、タンポポの群生地になっていた。
一面に綿毛が広がっている。まるで雲の上に居るみたいだ。その中央では一筋の紫煙が空へと伸びていて、天上まで続く縄梯子のように揺れていた。
猫は紫煙の根元に近づく。
そこでは黒い服を着た一人の老女が、不機嫌そうな顔で両切り煙草を咥えていた。
「あん? なんだい猫、何の用だい」
猫に気付いた老女が、ぶっきらぼうな声を上げながら身体を起こす。用なんかない猫は問いかけに答えず、前脚で顔を拭った。
(ぼくは居たいところに居るよ。それだけのことさ)
「ふん、いかにも身勝手そうな面の猫だね。やれやれ、ようやく隣に誰もいなくなったってのに、今度はあんたみてえなんが居座るのかい」
胡座を掻いた老女は、猫の頭を乱暴に撫でる。毛並みを乱されるのが嫌で、猫はその手を払った。
「可愛げのないやつだねえ」
眉間に皺を寄せて、老女は紫煙を吐き出した。
「あたしにそっくりだよ」
煙を浴びせられた猫は鼻がむずむずしてくしゃみをした。出てしまった鼻水を舌先で舐めようとしたけれど、それより早く老女がちり紙を取り出し、またしても乱暴な手つきで猫の顔を拭う。
「素直になれなかったんだ、ずっとさ。ブランドのバッグが欲しかった。香水が欲しかった。スカーフが、服が、指輪が、ネックレスが、欲しくて欲しくて堪らなかった。若い頃はあたしも美人だったからね、色んな男に貢がせたもんだ。でも足りなくてね。学校の偉い先生なら金持ってるだろうって、あの人を引っかけた。もっとたくさん買ってもらおうってさ。でもあの人は本を買ってばっかりだ。あたしには何もくれなかった。いくらあたしがねだってもね。プライド傷つけられたよ。あたしになびかない男なんか居なかったんだ、一人だってね。絶対に買わせてやろうって意気込んで、結婚までしちまった」
綿毛が宙に舞うように、呟く言葉は空へ飛ぶ。
「色々反対されたみたいだけどね、あの人は結局あたしと一緒になった。最初は化粧したり色仕掛けしたり、あの人を振り向かそうって必死だったよ。そのうちに娘を身籠もった。産んでからは毎日がてんてこまいさ。自分を磨いてる暇もありゃしない。あたしはあの人にスカーフ一枚買ってもらいたいだけなのに、あの子ったら学校がどうの彼氏がどうのってうるさくってさ。しかもあの人は娘にべったりなんだ。綺麗な服、買ってあげたりしてさ。頭にきたね。あたしは一着だってもらったことないってのに」
老女は語り続ける。
その言葉は猫に宛てているようでいて、本当は違う人に宛てているのだろう。
「何度も喧嘩したよ。出て行ってやろうって本気で思ったことも一度や二度じゃない。でもプライドが邪魔してさ。何か買わせるまではって、結局家に戻っちまうんだ。そしたらあの人は決まって晩ご飯作ってくれててね。あたしに食べさせて聞くんだ。美味しいかって。悔しいけど美味くてね。だから美味いって答えるんだ。嘘つくのも癪でね。そしたらあの人、笑うんだ。声は上げないで静かに、でも子どもみたいに歯を見せてさ。ずっとそうだったんだ、あの人は。死ぬ直前までずっとね」
紫煙が揺れる。
その口調と同じように。
「ずっと本しか欲しがらなかったくせに、病気になった途端に言うんだ。望遠鏡が欲しいって。なんでって聞いたら、死んだ星を見たいとか言うんだ。ベテルギウスとかいう、何百年か前に死んだ星さ。死に際に満月みたいに明るく光って、それから消えちまった後、どうなってるのか分からないから見たいって、そう言うのさ。もちろん買ってやんなかったよ。当たり前だろ、あたしは何にも買ってもらってないのに。それに怖かったんだ。死んだ後がどうなってるのか知っちまったらあの人、安心して逝っちまいそうで。でも馬鹿だよな、今になってあたし、後悔してんのさ。買ってやれば良かったって。だってあたし、あたしさ」
涙が零れ出す。
綿毛みたいだった言葉は、どこにも行けずに落下した。
「あたし、あの人に何もあげてない。知ってたんだ、本当は。欲しいものはブランドのバッグなんかじゃなかった。あたしが本当に欲しいもの、あの人は全部くれたんだ。静かに笑いながらさ。でもあたし、あの人に何にもあげられなかった。何にもあげられなかったんだ」
白い綿毛の中で、黒衣の老女だけが、いつまでも飛べないツバメのようだった。
そこに、ロボットを埋めてしまったあの男の子の声が近づいてくる。
老女は慌てて両目を拭った。そして煙草を勢いよくふかす。男の子が隣に来たときには、老女はすっかり最初と同じ不機嫌そうな顔に戻っていた。
「お祖母ちゃん、みんなが探してるよ。もう帰るんだって」
「そうかい」
「ねえ、お祖父ちゃんのお墓にお花あげた?」
「いいや」
「あげなきゃだめだよ。お祖父ちゃん、悲しむよ」
「嫌だね。花なんかあげてどうなるんだい。もう死んじまったんだ。あげられないよ、今更」
「お祖母ちゃん、目が赤いよ」
「煙が目に染みたのさ。おやあんた、あたしがあげたロボットどうしたんだい。来るときはもってたじゃないか」
怒ったような口調で老女は尋ねた。でも少年は怖がったりせずに、さっきと同じ答えを返す。
「お祖父ちゃんといっしょに埋めちゃったよ。だってあのロボット、お祖母ちゃんがお祖父ちゃんに買ってあげたものだもん」
この言葉に、老女は目を丸く見開いた。
「あたしがいつそんなこと?」
「くれたときに言ったよ。写真で見た子どものときのお祖父ちゃんとぼくがそっくりだから、ロボットあげるって。それってぼくじゃなくて、小さいときのお祖父ちゃんにあげるってことでしょ?」
「いや、そういうわけじゃないよ」
「でもお祖父ちゃんに話したら、お祖父ちゃんはそうだって言ったよ」
「え?」
「貸してあげるからそのうち返せって。俺がお祖母ちゃんからもらった最初のプレゼントだって、お祖父ちゃん笑ってたもん」
そのとき、強い風が吹いた。
男の子はよろけて、老女の服にしがみつく。目にゴミが入ったのか、つらそうに瞬きしていた。反対に老女は瞬きをせず、一秒を惜しむかのように景色を見つめる。
大気を白く染め上げるほどの綿毛が、風と手を取って踊っていた。
白髪交じりの老女の髪も、燻る紫煙を引き連れて、黒衣の重石をものともせずに、綿毛と一緒に舞っている。
それはほんの数秒のこと。男の子が目を開ける頃には、綿毛はどこかへ行っていたし、老女の髪も落ち着いてしまっていた。
「花、あげるよ」
老女は呟く。
「タンポポを摘んでいくさ。花屋の綺麗な花なんて、あんたは苦手だっただろ」
言葉通り黄色いタンポポをいくらか摘むと、老女は男の子と手を繋いで、墓地の方へと去っていく。
まだいくらか残っている綿毛たちの間で、猫は丸くなった。
綿毛の景色が瞳に焼き付いている。だからだろうか、胸の奥がぎゅうっと痛んで、鼻の奥がつんとした。どうしてかは分からない。考えようとはしたけれど、なんだかとても眠かったのだ。だから瞼を閉じたらすぐ、猫は眠りに落ちてしまった。