猫が目を覚ますと、落下していた。
 空気抵抗を肌で感じる。どこを落下しているのかは不明だけれど天気はいい。しかし重力加速度に従ってぐんぐん落下速度が上がっているので天気の良さなどどうでもよかった。
(もう駄目かもしれない)
 マグロを食べ損ねたときと同等のショックが猫を襲う。けれども落ち込む前に落下は終わった。
 凄まじい勢いで着水する。
 水が口内に流れ込んできた。塩辛い。海だ、と猫は認識する。幸いにも身体はそこまで痛くない。運良く怪我しない角度で入水できたらしい。
 かなり深くまで猫は沈みこむ。
 周囲に陸地は見当たらない。色々な魚が泳いでいた。猫は必死に足を動かす。肺の酸素が尽きそうだった。
(どうしよう、どうしよう)
 藻掻きながら猫はパニックを起こす。泳げないからだ。
 しかし泳げるか否かとは無関係に浮力は働く。浅いところはともかく、深いところならば浮上くらいは出来るらしい。現にちょっとずつ水面に近づいていた。しかしその後はどうだろう。陸地が見当たらない海の中、泳げない猫は果たしてどうなるか。
(ほ、本当に、もう駄目かもしれない)
 水泳なんて大嫌いだけれど浸かってしまったものは仕方ないし、駄々をこねていたら溺死する。とりあえず無心で水を掻き、猫は空気を目指す。
 海面に顔を出せたのは着水から十二秒後だった。
 やっぱり周囲には何も無い。しかも浮上に有した十二秒は体感だと数十分以上だったので、かなり疲労が蓄積していた。おまけにそもそも泳げないので、顔を出した直後にまた沈んでしまう。さらに波のせいで体勢を保てず、水中で上下が分からなくなってしまった。
 八方塞がりだ。絶望が猫を襲う。
(うう、最近はどうしてこんなことばかり)
 愚痴を零すにも海の中、口を開けることさえ出来ない。海流に揉まれ、猫は意識を失いかける。
 その身体が唐突に浮力を得た。
 お腹の下が温かい。それに水とは違った確かな感触がある。どこかの島にでも打ち上げられたのだろうか。けれども海中から見上げたときにはそんなもの一つも見当たらなかった。
 恐る恐る猫は目を開けて、自分の状況を確かめる。
 やっぱり何かの上に居た。視界には群青色の足場が映っている。足場は地面ではなさそうだ。光沢があるし、ゆっくりと移動している。立ち上がろうとすると足が滑った。摩擦係数が小さい。それに土より温かかった。猫の体温ほどはないけれど、人肌ぐらいの温もりがある。
 なにより気になるのは、目の前に突き出た突起物だ。
 少し動いて斜めから見てみると、突起はナイフの刃先みたいな形をしている。色は足場と同じ群青だ。やっぱり光沢を帯びていて、陽光を滑らかに反射している。
(なんだろう。何か、生き物?)
 そのとき、うっかり身体を動かしすぎた猫は、また海に滑り落ちてしまった。
 沈み込んでしまい、慌てて水を掻く。そのとき、さっきまで自分が乗っていたものの全貌を視界に収めた。
 イルカだ。優しそうな目をしたイルカが、落っこちた猫の下方に潜り込んでくる。そして再び、背中に乗せて海上に押し上げてくれた。
(助かった。ありがとう)
 今度は落っこちてしまわないように、猫はさっき気になった突起物、イルカの背びれに体重を預ける。本当は掴めればいいのだけれど、そのためには前脚の長さが足りなかったのだ。それに爪を立てたら怒られるような気がした。
 イルカは一定の速度でゆっくりと回遊している。だから最初は揺れが気になったけれど、しばらく身を預けている内に慣れてしまった。同じ範囲を延々と回っているので、コツさえ掴めば背中の上でも落ち着ける。呼吸は頭に空いている孔からしているようで、ときどきぷしゅうと音がした。
 一息ついた猫は改めて周囲を見回す。
 やっぱり付近には何も無い。イルカが助けてくれなかったら思うと猫はぞっとした。
(よかった。でも、これからどうしよう)
 付近どころか遠くまで目を凝らしても、陸は全方位どこにも見当たらない。猫は困ってしまった。イルカだっていつまでも背中に猫を乗せてくれたりはしないだろう。いずれは餌を捕るために海中を泳がなければいけないのだから。
(そういえばお腹が減ったな)
 深刻な事態でも空腹は容赦なく襲ってくる。猫は自慢のとんがり耳を掻いた。しかし活路は開かない。
 考えてもどうにもならないことなので、猫は考えるのをやめた。
(なんとかなるさ)
 身体を振って水気を取り、濡れた髭を風にそよがせながら、猫はぼんやり空を見上げる。
 太陽はゆっくりと西に落ち始めている。日没まではもう二時間ぐらいだろう。日差しは徐々に海面への入射角を変え、それに従って空の色味も変わっていく。猫はのんびりとその変化を楽しんだ。
(ぼくは本来、こうあるべきなんだ)
 ほとんど何も考えずに猫は陽を浴びる。
 一つだけ、イルカがどうしてこんな場所に一頭だけ居るのか、ということだけが気がかりだった。なにしろ猫が生きているのはこのイルカのおかげなのだ。
(ぼくのために居てくれるのかな。でも陸地に向かったりはしていない)
 首を捻っても、とんがり耳を掻いても、答えは出るはずもない。
(あれ、考え事をしてしまっている。ぼくは考えることなんて嫌いなのに、変なの)
 欠伸をして、猫は思考を彼方に放る。
 そんな調子で一時間が過ぎる。猫はうつらうつらし始めていた。太陽は真っ赤にお色直ししていて、露草色だった海と空はすっかり黄昏に染められている。
 そのときイルカの回遊範囲の中で、何かが海面に顔を出した。首を傾けて猫はそれを見る。
 大きな顔と、立派な甲羅。そこに居たのは年寄りのウミガメだった。この世の全てを悟ったような細目で、イルカの背に居る猫を見つめている。
「こんなところに猫が居るではないか」
 ウミガメはぽつりと呟いた。
(世界には喋るカメも居るんだなあ)
 喋る生き物をあんまり見ない猫はそんな感想を持った。なにしろ見たことある喋る生き物といえば人間以外だと自分と同じ猫か、あとは熊ぐらいである。
「そこの猫、我輩の他にカメは見なかったか。無知蒙昧な輩ではなく、我輩のように哲学的なカメだ」
(見てないよ)
「ふん、無視か。どうやら会話できぬとみた。貴様も所詮は愚かな下等種族か。比較的生態系の上部に居るというだけで安寧を得た気になり、己が成長を終えたと誤認している。見よこの紅き蒼穹を。貴様など数億年という歳月と大いなる自然摂理の前では、さながら正の実数を底とする指数関数の負極限に等しい存在よ。矮小、矮小」
(なんだと。なにを言ってるのか分からないけれど、馬鹿にしてるのは分かるぞ)
「ほう、憤怒するか。耳は良いようだ。会話できずともこちらの言葉を理解することはできるのか」
(猫だもの、猫としか喋らないよ。そっちのほうが変だ)
「どうやら今回は我輩しか居ないらしいな」
 ぬらぬらとした首を動かしてウミガメは周囲を見やる。猫はこのへんてこな生き物のことが嫌いになった。
 無言のまま、さらに時が経つ。
 なぜかウミガメもイルカと同様、この場に留まり続けた。一体こんな何も無い海の真ん中に何の用事があるというのか。気になったけれどウミガメのことが嫌いなので聞く気になれず、猫はぼんやりし続けた。
 陽はあと数分で没しようとしている。
 空は多様な色彩を帯びていた。分散した光のスペクトルは七色に瞬いている。その灯りは海面にも伝播し、幻想的な雰囲気を醸していた。
 そのなかでまた、海面から顔を出すものが一つ。
 今度もウミガメだった。やっぱり全てを悟ったような細目をしている。けれどもこちらのウミガメはなんだか優しそうな気配があった。
「おお、貴殿か」
 先に来ていた自称哲学的ウミガメが声を上げる。
「遅くなりまして。間に合いましたかな」
 応じる声はおっとりと、気配通りに優しいトーンだった。おしゃべりなウミガメは多いんだな、と猫は思う。
「ちょうどいいくらいですな。もうじきです」
「それは良かった。何分身体も弱ってきましてな。思ったような速度で進まんかったのです」
「ふむ、老化ですな。我輩も感じております」
「そうですか。悲しいですがしかし、感じられる内が花でもありますからな。それは生きているということです」
「老化とは生であると?」
「いや、老化は死への行進にすぎません。しかし死に行く自覚、すなわち老化を認識している自身は、生でしょう」
「なるほど。哲学的ですな」
 自称哲学的ウミガメは唸る。他称哲学的ウミガメは笑った。
「こんなものは詭弁です。哲学的ではなく衒学的だとすべきでしょう。真に哲学的なものは言葉にできない。だから私は老体に鞭打ってここに来たのです。天空遊泳を拝むために」
(天空遊泳?)
 聞き慣れない単語に猫は首を捻る。そのとき他称哲学的ウミガメが猫を見やった。
「珍しいですな。猫が海に」
「でしょう。ですから我輩は哲学的素養を見込んだのですが、これが単なる畜生でしてな。貴殿が目を掛けるほどの存在ではありません」
(なんだと)
「怒っていますね」
「間抜けほどよく吼えるものです」
「なるほど。しかしその下のイルカはどうなのでしょう?」
「さあ、そこまでは。しかし貧相な猫と付き合うくらいですから、同様に大した存在ではないでしょう」
「ふむ。すると今回の観衆は私たちを含めて三頭と一匹ですか。今回は少ないですな。静かに見られそうです」
 空を見上げて他称哲学的ウミガメは言う。
(おしゃべりほど周りがうるさいことを気にするなんて、変なの)
 どうにも自分の扱いが低いので猫は不愉快だった。
 そのとき、ついに日が沈む。
 日没は華やかだった。海面から太陽の弧が消えた瞬間、上空に向かって鮮やかな緑の光が伸びたのだ。ほんの一瞬だけ、まるで別れ際に尻尾を振るように。
「始まりますな」
 自称哲学的ウミガメが呟く。
 波、風、生き物の息づかい、それらの音がすうっと静まった。
 消えた緑を追うように、夜の黒色が西へと走る。僅かに残った青が絡んで、空は群青色に染まった。
 直後、ざあ、と海面から巨大な影が持ち上がる。
 何が起きているのかを理解するために、猫は若干の時間を要した。それらを視界に収めるのが難しかったからではない。視界に収め、脳がその光景を認識してもなお、それらが現実に発生している事象だと信じられなかったからだ。
 鯨が空に上っている。
 シロナガスクジラだ。猫が知る限り世界最大のほ乳類。体長はおよそ二十五メートル。体重は百トンを超えるだろう。白い斑模様が灰色の体表に浮かび、まるで最初の星々のように煌めいている。
 それを追って、様々な生物群が空へと泳ぎだした。
 マグロやスズキ、タイ、シャケといった猫も知っている魚たち。色鮮やかであったり鋭利なデザインであったりする、猫の知らない魚たち。蛸を始めとする軟体動物。他にもクラゲや甲殻類、貝や珊瑚や藻や草が空中を遊泳している。見えていないだけで、きっとプランクトンや菌類も舞っているだろう。
 海水以外の海を宙に持ち上げたみたいだ。
 他称哲学的ウミガメの言った、天空遊泳、という言葉を思い出す。
(あれはこのことだったのか)
 二頭のウミガメもまた、並んで空を見上げていた。
「見事ですな。我輩は二度目ですが、やはり素晴らしい」
「しかしやはり、切ないですね」
「そうですな。切ない。これは死への行進ですからな」
「ええ。それも、私たちの老化よりずっと速度が速い」
「あるいは死そのものとも言えるでしょうな。極めて純粋な摂理の果て。魂の終わりです」
「どこへ行くのでしょうか」
「原初へ帰るのでは? 甘美なる命の原液に。貴殿はクリームと呼んでいましたか」
「では、どこから来たのでしょう」
「行き先と同じでしょうな」
「ならば私たちはなぜ旅立ったのでしょうか。私たちとは何でしょう?」
「哲学ですな、まったく。貴殿は哲学するカメだ」
(うるさいなあ)
 延々と繰り返される意味不明な議論に猫は辟易する。
 天空遊泳が何なのかは分からない。ただそうした現象が起こっている、理解できるのはそれだけだ。けれども猫はそれでよかった。
 だってとても美しい。
 昼が終わり、夜が始まる。その狭間に空へ泳ぐ海。同じ色の狭間を行くものたち。光を灯す星々と、それを映す水面。
「リクガメの彼にも見せたかったですな。今回は見たがっていた」
「そうなのですか? 我輩、彼はこうしたものに無頓着だと」
「泳げないから虚勢を張っただけでしょう。本当は見たがっていましたよ。私は今夜陸に向かって、彼に感想を伝えるつもりです」
(陸に向かうの?)
 おしゃべりも無駄ではないらしい。猫にとっては暁光ともいうべき台詞が、他称哲学的ウミガメから発せられていた。
 そのとき、ずっと大人しかったイルカが唐突に姿勢を変える。頭を持ち上げ、海面に顔を出したのだ。油断していた猫は呆気なく海へ転がり落ちる。
(もう嫌だ)
 口からあぶくを吐き出しながら、猫はまたしても沈み込む。
 けれども幸いなことに、他称哲学的ウミガメは良心を持っていたようだった。イルカがそうしてくれたのと同じように、藻掻く猫の下方へ潜り、甲羅の上に乗せる形で海上に浮上する。
(た、助かった)
 何度目か分からない死線をくぐり抜け、猫はぜいぜいと息をする。
「貴殿が助けるほどの価値など」
「まあまあ。いいではないですか。まだ年若いようですし、ここで死ぬのも勿体ない」
 優しい声音で他称哲学的ウミガメは笑う。猫は認識を改めた。
(こっちのウミガメはいいカメだ。でもあっちのウミガメは嫌なカメだ。さっきのイルカは、ううん)
 酸素を吸いながら、猫はイルカを探す。いいイルカだと思っていたのにいきなり振り落とされたので、ちょっぴりショックだった。でもそれだけで嫌なイルカだと断じていいかは分からない。
 だってずっと一頭だけで泳いでいたのだ。きっとこの天空遊泳を見るために。
 イルカは群れで泳ぐ動物なのだと猫は知っている。一度だけ船の上から見たことがあるのだ。楽しそうに仲間と泳ぐイルカの一群を。
(あのイルカは、どうして一頭だけでここに?)
 クィア、という鳴き声がした。
 さっき猫を振り落としたイルカが、空へ向かって鳴いている。
 すぐにバランスを崩して、イルカの顔は海に沈んだ。でもそのあとでまた顔を出して、クィア、と大きな声を上げる。何度も何度も、イルカはそれを繰り返していた。
 その視線の先を猫は見る。
 天空遊泳の一端。優雅に泳ぐ生き物たちの中には、あのイルカと同じ種類で、もっと身体の大きなイルカたちが、群れになって泳いでいた。
「置いていかれたのでしょうな」
 ぽつりと自称哲学的ウミガメが呟く。
 猫にはその言葉の意味がよく分からない。けれどもどうしてか、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
 やがて空を泳ぐ生き物たちは消える。
 水に溶ける塩のように、瞬きの合間ほどの時間で、すうっと消えてなくなってしまったのだ。
 残ったのはイルカの身体と同じ群青色をした、空と海の合わせ鏡。
 イルカは鳴くのをやめた。ぐるぐるとあたりを回遊し、しばらくの間そうした後、猫やウミガメたちには一瞥もくれずに去っていく。
 ウミガメ二頭は、イルカが鳴き始めるまではずうっと喋っていたのに、以降は静かだった。
 静寂が重苦しい空気を醸し出す。イルカが去ってからもウミガメ二頭はその場に留まって、ずっと黙っていた。
 他称哲学的ウミガメがようやく口を開いたのは、イルカが去ってから十分後のこと。
「私は陸に向かいますので、これで」
「我輩も家に帰りますので、これで」
 しかし別れの言葉を交わしても、ウミガメたちは去ろうとしない。
 ぎこちない沈黙が立ちこめる。でも今度はすぐに、自称哲学的ウミガメがそれを破った。
「理解できれば、イルカの悲しみはなくなるでしょうか」
「いいえ。なくなりはしません」
 他称哲学的ウミガメは即答した。
「では、我輩はこれで」
「ええ、またいつか」
 今度こそ言葉通りウミガメたちは別れる。
 どうやら他称哲学的ウミガメは猫を陸まで送ってくれるようだった。そうと言葉にはしなかったけれど、甲羅を海上に出したまま泳いでくれているのは、そういうことだろう。へんてこな生き物だけれど、こちらのウミガメは信頼できた。きっと無事に陸地まで送り届けてくれるはずだ。
 猫は目を閉じた。
 何度も海に落ちたせいだろう、身体は疲れ切っている。だから瞼を閉じたらすぐ、猫は眠りに落ちてしまった。