猫が目を覚ますと、講義室に居た。
広い部屋だ。半分に切ったすり鉢みたいな間取りで、中央の一番低いところに教卓がある。その周囲を半円状の細い机が取り囲んでいて、総勢二百名近い人々が腰掛けていた。誰もが年若い。男女比は四対六といったところだ。様々な人種が雑然と入り乱れているけれど、年齢が近いことと、例外なく熱心な顔立ちで講義を聴いていることから、猫は不思議な一体感を見て取った。
彼ら彼女らが耳を傾けているのは、講義室の中央を左右に歩いている、白衣を着た男性の話。
「おそらく北極星は、君たちが知る星の中でも際だってポピュラーな恒星だろう」
(北極星だって?)
聞き捨てならない単語に、机の上でうつらうつらしていた猫は目をカッと見開く。隣に腰掛けた癖毛の少女は、この猫いつから居たの、とでも言いたげな目を向けていた。
講義は続く。
「だから私が改めて説明したところで、君たちは聞き流してしまうかもしれない。そんなものはもう知っているってね。けれども今日は最後に、北極星について語りたい。それは宇宙について考える起点として申し分ないからだ。さて、最前列のブロンドの君。宇宙とは何だと思う?」
「未知、だと思います」
指名された少女は間髪入れずに答えた。
「いい答えだ。我々天文学者も、同様の見解だよ」
天文学者はにこりと笑う。
「未知に触れることと宇宙を知ることは似ている。というか、同じだ。知れば知るほど分からなくなる。宇宙はどこまでも巨大だ。けれども同時に、限りなくミクロでもある。ちょっと皆の目が泳いできたね」
苦笑しながら天文学者は人差し指を立てる。
「シンプルに言うと、宇宙は遠いようで近いんだ。だからこそ学ぶ価値がある。その価値を君らにも分かってほしいのさ。身近な宇宙を知ることでね」
「だからこそ、ポピュラーな北極星を用いるのですね?」
先程のブロンドの少女が、再び声を上げる。
「いい洞察だ。まさにその通り」
天文学者は微笑んだ。ブロンドの少女の頬が赤くなる。
(あの女の子は、あの天文学者のことが好きなんだ)
使われている言葉が難しくて講義に付いていけない猫は、そんなことを見抜きながら簡単な話を待っていた。
「それでは内容に移ろうか。まず、そこのドレッドヘアの少年。北極星が何だか分かるかい?」
「ええと、北にある明るい星です」
「正解だ。北極星は天の北極付近に位置する、目印になるような明るい恒星だね。ただ、講義をするためにはもう少し説明が欲しいところだ」
先程のブロンドの少女が、再び挙手する。
「北極星はアルデラミンです。ケフェウス座α星。二等星です」
(アルデラ?)
後ろ足で首元を掻きながら、猫は聞き慣れない単語に目を細める。
「いい答えだ。君は星が好きなのかな、よく知っているね」
「ありがとうございます」
「でも、その回答は厳密に言うと間違いだ」
「えっ」
褒められて照れていた少女は、否定の言葉に頬を強張らせる。
天文学者はその顔を見て苦笑した。
「そんなにがっかりしないで。君の言う通り、確かに今の北極星はアルデラミンだから」
「でも、間違いだと」
「うん。でもいい答えではあるんだ。なぜなら、その間違いはここからの講義を円滑に進めてくれる。さて、ここで一つ実験をしよう」
言って、天文学者は白衣のポケットから独楽と紐を取り出した。そして得意げな表情でそれを掲げる。
「ここにあるのは何の変哲もない普通の独楽だ。今からこの独楽を回して、その様子を観察してもらう。よく見ていてね、この独楽は地球になるから」
(なに言ってるの?)
天文学者がよく分からないことを言い出したので、猫は困惑した。
独楽に紐を巻き終えた天文学者が、不器用な手つきでそれを宙へ投げる。教卓の上で回したかったのだろうけれど、独楽は明後日の方向へ飛んでいって落下した。
「あっ」
慌てた様子で天文学者が独楽を追いかける。講義室に笑いが起こった。
恥ずかしそうに頭を掻きながら、天文学者は独楽を上手に回せる人を募る。ドレッドヘアの少年が立候補した。少年は慣れた手つきで独楽に紐を巻き、トーストにバターを塗るような気負いない動作で放った。独楽は軸を教卓の中央へ突き立て、回転し始める。
「お見事。素晴らしい手並みだね、ありがとう。さて、それではみんな独楽の動作に注目して」
講義室が静まり返り、全ての視線は独楽に注がれる。
しばらくの間、独楽は姿勢を変えずに回り続けていた。けれども回転速度が落ちてくると自転軸がぶれ、やがて軸自体を傾けたまま回転するようになる。その直後、ついに独楽は倒れ、机の上を少し転がってから停止した。
天文学者が独楽を拾い上げる。
「はい、これで実験はおしまいだ。ではそこの白い眼鏡をかけた君、独楽はどういう動きをしていたかな?」
「どういうって、ええと」
「例えば、軸はどういう動きをしていただろう。最初は机に対して垂直だったけれど、その次は?」
「傾きました」
「では傾いたとき、独楽はどうだっただろう。これが鉛筆だったら、そのまま倒れるところだけれど」
「独楽は、傾いたまま回り続けていました」
「そうだ。ではなぜ倒れないか。力学的な説明をすると皆を眠らせちゃうから結果だけ言うけど、一般に自転する物体は、その回転軸を変える向きに力を受けると、その力の向きとは直角の方向に軸自体を移動させる性質を持つんだ。さっきの独楽の場合は、独楽の重心に作用する重力が回転軸を倒そうとするから、軸は重力に対して垂直に、つまり机の天板に対して平行に回った。皆が目で見たような動きをしたわけだ。この動きには、歳差運動という名前が付いている。さて、この性質を理解した上で本題に戻ろう」
天文学者は独楽と紐をポケットに仕舞い、今度はチョークを手に取った。そして背後の黒板に円を描く。
「北極星とは何か。天の北極に位置する明るい恒星だ。では天の北極とはどこか。それは地球の回転軸、地軸の延長線上のことだ。さて、ここでいくつかの事実を皆に思い出してもらおう。まず、そこのポニーテールの君に質問だ。地球は惑星で、太陽の周りを一年周期で公転しているわけだけれど、この公転軌道に対して地軸はどう接しているだろうか?」
「斜めに接しています。確か、二十度くらい傾いているって、前に理科の授業で習いました」
「正解だ。およそ二十三度、地軸は公転軌道に対して傾いている。温帯地方で顕著に見られる四季の原因がこれだね。地軸が傾いているからこそ、その地域が受け取れる陽の光に差が生じるんだ」
円の中心点を通る斜め線が描かれる。長さは直径以上だ。円は地球を、斜め線は自転軸を示しているのだろう。
「では次の質問にいこう。これは少し難しいから全員に聞くけれど、潮汐力というものを説明できる人はいるかな?」
手は上がらない。ブロンドの少女が少し悔しそうにしていた。
「では僕から説明しよう。潮汐力というのは、万有引力と遠心力の差のことだ。この二つの力は、その物体の重心では釣り合うように働いているんだけど、他の場所だと違っている。遠心力の大きさはその物体のどこであっても等しいけれど、万有引力の大きさは距離の二乗に反比例するんだ。例えば地球と月の関係を見てみると、月に近い側の表面は遠心力より月の引力の方が強い。対して、その裏側では月の引力より遠心力の方が強い。こうして力の差が生まれ、この差が地球の表面にある気体や液体を動かしてしまう。結果生じる現象が潮の満ち引きだ。力の差が大きいところでは満潮に、小さいところでは干潮になる。だからこの力の差は潮汐力と呼ばれるんだ。ちなみに実際は月だけじゃなくて、太陽を始めとした他の天体からも影響を受けているよ。ところで、付いてこられているかい?」
(全然)
猫は欠伸をする。かなり前から理解が追いつかなくなっていた。難しい話は嫌いなのだ。周囲を見てみると、少年少女らも眉に皺を寄せていた。
天文学者は苦笑する。
「ごめんごめん。潮汐力っていうものが地球の表面に働いているってことを言いたかったんだ。それを抑えてくれれば大丈夫。さて、地球は赤道部分がほんの少し膨らんだ楕円形をしているんだけれど、ここにかかる潮汐力はなんと、傾いた地軸を起こす向きに作用しているんだ。そこのブルーのシャツを着た君、以上の前提を踏まえると地球はどういう動きをするだろうか?」
「えっと、独楽と同じ?」
「その通り」
黒板の地球に、自転と軸自体の回転を示す、二つの矢印が記された。
「地球もまた独楽と同じように歳差運動をしているのさ。するとどうなるだろうか。地軸自体が回転しているわけだから、地軸の延長線上にある天の北極は絶えず変化する。そして北極星とは天の北極付近に位置する明るい恒星だ。ふふふ、皆もう分かってきたようだね。さて、それではそこのブロンドの君」
天文学者が微笑みかけると、ブロンドの少女は頬を紅潮させた。
「ここで改めて問おう。北極星とは何だろうか?」
「明確な一つの星ではありません。その時代に最も天の北極に近い恒星が担う役割の名前が、北極星です」
「正解だ。素晴らしい理解だね。眠くなるような私の話をちゃんと理解してくれた」
講義室にまた笑いが起こる。みんな眠かったのだろう。ブロンドの少女は照れくさそうにはにかんだ。
「今の説明は歳差の中でも日月歳差と呼ばれるものだ。実際の歳差には他にも惑星歳差っていう木星とか金星とかの引力による地球の軌道面の変化や、章動っていう振動的な変化も関与しているんだけど、主たる要因は日月歳差だから、長くなるし他は割愛する。大丈夫、皆が物理嫌いなの知ってるから」
僕は大好きなんだけどねえ、と天文学者は小声で付け加えた。
「要するに、北極星は代替わりする星なんだ。その周期はおよそ二万六千年。だから、現在のアルデラミンが北極星なのは三世紀の間ぐらいかな。大衆の認識によるものだから、もっと長いことも、あるいはもっと短いこともある。何千年か前はアルフェルク、その前はエライ、さらに前になるとケフェウス座の星じゃなくて、こぐま座のポラリスが北極星だったんだ」
聴講者は皆、へえ、と声を上げている。意外な事実だったようだ。
(なんだ、勿体ぶっておいてそんな結論なのか)
猫はそんなこと、実際に交代したのでとっくに知っていた。分からないなりに一生懸命聞いていたのに、結論がそれなので、いよいよ聞く気力を無くしてしまう。
天文学者は講義を続ける。
「さて、皆は知らなかったことを知った。すると思うだろう? まだまだ知らないことはあるはずだと。宇宙はいつだってそうなんだ。よく知っているはずのことに、まったく知らなかった事柄が見つかる。その繰り返しさ。そうやって繰り返していると、色々なことを考える」
どこか遠い目をして、天文学者は淡い微笑みを浮かべた。
「文明が生まれて、栄華を極め、衰えて、滅んだ。生き長らえた人類が僅かに残った文明の記憶を受け継いで伝え、また発達させた。北極星はそれを天高く、どこか遠い宇宙から見守り、次の北極星に役割を託す。まるで子供から目を離せない親のようにね。これ以上は時間的に見ていられないけれど、気になるんだ、次は君がちゃんと見守っておくれ、そんな声が聞こえるような気になる」
猫は天文学者をじっと見つめる。
どうしてか、静かに語るその姿から、目が離せなかった。
「でも北極星から見えるのは北半球だけだ。なにしろ南半球からは北極星が見えないのだから、北極星からも南半球は絶対に見えない。どれだけ一生懸命に見守っても、全ては分からない。全ては見られない。少しだけ切なくなる。私自身が親だからかもしれない。分からないことが怖いんだ。いつかは私も親という役割を終えることになる。時間は残酷なんだ。娘を見守るのは、私ではない別の誰かになる」
天文学者は、講義室にいる一人一人の顔を見回した。
そして、照れくさそうにはにかむ。
「くさい話をしてしまったね。でも、君たちに伝えたかった星の話はこれなんだ。どこまでも巨大で、未知に覆われた宇宙。でも宇宙に想いを馳せるとき、それは隣に寄り添ってくれるほど近しい存在になる」
黒板の図を消して、天文学者は教卓に手をつく。
「講義は以上だ。ふふふ、私にしては綺麗にまとまった。今日の話を聞いてくれた諸君らにとって、宇宙がこれまでより身近なものになることを願っているよ」
聴講者が席を立ち、ノートや筆記用具を手に講義室から出て行く。猫の隣に座っていた少女も、猫を撫でてから出て行った。
最後に残ったのは天文学者とブロンドの少女。何か質問があるのか、ブロンドの少女は天文学者に近づいて声を掛けた。
「あの、先生」
「君か。今日の授業では有り難う。おかげで講義がスムーズに進んだよ。私の研究室に来てほしいくらいだ」
「いえ、そんな」
「謙遜する必要はないよ。お世辞を言っているわけじゃない。どこの大学を受けるのかなんて、まだ先の話だろうけれど、よかったらここの天文学科を選択肢に入れてほしいな」
「嬉しいです。それであの、お聞きしたいことがあって」
「なんだい?」
「その、先生はかつて、量子力学の世界の権威だったと伺いました。どうして今は天文学に携わられているのか、気になったのです。もしも将来、量子力学に戻られるなら、わたしは量子力学を勉強しなければいけません」
胸に手を当てて、迫るような目で少女は天文学者に詰め寄る。その所作は、恋心を示す精一杯のアピールに見えた。
「権威だなんて大それたものじゃないけれど、そうだね。私はかつて量子力学を研究させてもらっていた。でも今も、これから先も、きっと天文学を続けるよ」
「天文学が好きなのですね?」
「宇宙が、いや、星が好きなんだ。だってロマンチックだろう?」
「わたしもそう思います。あの、わたし、一生懸命勉強します。いつか必ず、先生と一緒に星を見上げます」
耳まで赤くして、少女は早口にそう言い切った。そしてお辞儀をすると、最後ににこりと笑みを浮かべてから、矢のような速さで講義室を飛び出す。
そうやって出て行った少女と入れ違いに、一人の女性が講義室に入ってきた。その瞳は天文学者と同じ色を浮かべている。
「今の子、どうしたの?」
「さあ。優秀な子なんだけれど、なにしろ初対面だから、どうしたのかは分からない。急に慌てて出て行ったんだ」
「あらあら」
その言葉で全てを察したのか、女性は艶めいた微笑を浮かべる。
「いけない先生ね。娘より若い女の子を誑かして」
「誑かすなんて、そんな。君みたいな可愛い娘がいながら、他の女性を追いかける父親なんていないよ」
「娘をナンパする父親もそう居ないわ」
天文学者の娘はくすくすと笑う。
その目が、講義室の机に座っていた猫を捉えた。
「あら、今日は猫も聴講していたの?」
「うん、いつから居たのかは分からないけれど、そこで大人しく聞いていたよ。賢い猫なんじゃないかな」
(そうとも)
猫は褒められて上機嫌になる。
「でもこのままだと講義室が閉められないわね。外に逃がしてあげないと」
「そうだね。ところで、君も講義を聴いてた?」
「いいえ、終わってから入ってきたわ。どうして?」
「いや、聞かれていたらちょっと恥ずかしいことも言ったからさ」
もごもごと誤魔化すように言って、天文学者は猫を抱き上げる。逆らう理由もないので、猫は大人しくしていた。
天文学者とその娘は並んで外に出る。
夜の空気が髭を揺らした。講義室のあった建物を出て、整備された敷地を天文学者はゆっくりと歩く。数歩前では天文学者の娘が、夜空を見上げながら歩いていた。
地上の明かりは少なく、周囲の建物はどれも背が低い。
だから、全天を覆う星明かりが目映かった。
「あれがスピカ」
天文学者の娘が、謳うように呟く。
「デネボラ、レグルス、アルクトゥルス、ポラリス」
「あれは?」
「アルフェッカ」
「正解。物知りだ」
「だって、お父さんの娘だもの」
くすくすと天文学者の娘は笑う。そして、猫の知らない歌を謳った。
どこかで聞いたことがあるような、初めて聞く調べ。天文学者が猫を地面に降ろしてからも、猫はその場を動かずに、歌を聞いていた。
やがて歌が終わると、天文学者は拍手した。
ご静聴感謝します、と娘は仰々しくお辞儀をする。その顔が上げられたとき、瞳は潤んでいた。
「お父さん」
「なんだい?」
「私、結婚するわ」
「うん」
「だからもう、平気よ」
「そうかな」
「そうよ。もう、星空にお母さんを探していた頃の私じゃないもの」
「そうだね」
「大丈夫。もう私のために研究を我慢したりしなくて、いいの」
「我慢なんかしてないよ」
「本当に?」
「本当さ」
天文学者は空を見上げる。
「知らなかっただろう? 僕はね、我慢なんかしていなかったんだよ。ご覧、北極星だ」
指さす先には、明るい恒星。
天文学者の娘は静かに父親へ近づくと、その腕にそっと手を添えた。
「ねえ、父さんも探していたの?」
問いかけに答えはない。
天文学者は北極星を指していた手を下ろすと、娘と二人、ゆっくりと歩いていった。
残された猫は道の端っこに移動して丸くなる。そして、もう一度夜空を見上げた。
(北極星、どれだろう)
分からない。でも気にならなかった。見つからなくても困りはしないのだ。ただ、少しだけ寂しかった。
忘れてしまおうと猫は丸くなる。侍従の睡魔は素早くて、呼んでも呼ばなくてもすぐに来てくれるのだ。だから瞼を閉じたらすぐ、猫は眠りに落ちてしまった。