JOKER(2019)

出典:https://www.facebook.com/jokermovie/

 台風一過の夜にこんばんは。貴基です。

 皆様ご無事でしょうか。わたしは特に何事もなく、無事です。でも不安だったので台風が関東にいる間はずっと起きており、昼夜が逆転してしまいました。そのため、朝方に届いた会社からの安否確認連絡はガン無視。課長から鬼電が入っていました。昼まで寝ててすまんな課長。無事です。

 久々に映画の話を。

 話題のジョーカーを観てきました。がっつりネタバレ含んだ感想を述べます。

 まず、めっちゃ良い。個人的には今年一。アカデミー作品賞はこいつが取るでしょうね。テーマも時流に合っているし。

 で、何が最高かって主演のホアキン・フェニックスの怪演ですよ。ですので今回は作品自体とホアキンの演技の二項目に分けて感想を述べます。

 繰り返しますがネタバレあります。これから観る人は読まないように。

 

【作品自体について】

 「貧困層からのカウンター」「誰もがジョーカーになりうる」などのコメントを目にしていたので、そんな感じかな、と先入観を持っていたけれど、いざ観てみると違っていた。

 まず、貧しさを前面に押し出してなかった。ソーシャルワーカーの世話になっている、アーサーのお母さんの口ぶりが明らかに生活困窮者のそれである等、貧しいんだろうなと思わせるシーンはあるけれど、それは副次的なものだった。

 あくまでもメインは、「アーサーが何も持っていない」というところにある。

 まず学がない。彼の書く文字は非常に汚く、十分な学習を受けてこなかったことがわかる。

 次に身体能力が低い。走り方に顕著だけれど、前に進むなら普通、身体は前傾になるし、膝は爪先と同じ方向を向くけれど、アーサーはてんでばらばらだ。

 そして認知がゆがんでいる。被害妄想、幻覚といった症状が特徴的だ。

 さらに、それらを補うための社会的な支柱である「資産」「福祉」「周囲の理解」といったものもない。資産は最初からなく、福祉は作中で奪われ、周囲の理解を得られるほどアーサーは自己表現ができなかった。

 彼は何も持っていないのだ。

 それでも社会は彼に多くを求める。仕事をきちんとこなせ、ミスはするな、薬が欲しけりゃ金を出せ、やたらと笑うな。

 でも何も持たないアーサーはそれらに応えるための能力がなく、従って自然と生活は破綻していく。給料が支払われるどころか自分のミスの損害賠償を求められ、そこに失態が重なってついには職を失い、老いた母は倒れて入院、支給されていた薬も市の福祉改革で打ち切られる。

 このあたり、自分に重ねて観る人は多いだろう。ぼくもそうだった。なにしろ資本主義に生きる人間は誰だってアーサーになりうる。何も持ってないということは稀だとしても、だからといって何かを持っていると胸を張れる人間は少ない。大抵は特別でもなんでもなく、成功よりも失敗が多い、それが人間だ。どこかで何かを間違えば、あっという間に生活は悪い方へ転がる。

 だからアーサーの生活が困窮していくのを観て、共感する。アーサーは資本主義の被害者代表だ。

 でも待ってほしい。

 だからといって、ぼくらはジョーカーになれるだろうか?

 ぼくはなれない。なぜなら、そこまでの怒りや憎悪をため込むことができない。

 さて、ここでアーサーの特質に話を移す。さっそく前言を覆すけれど、何も持っていないといったアーサー、実は一つだけ特殊な点を持っている。

 そう、あの「笑い」だ。

 脳にダメージを負ったせいで発作的に出るらしい「笑い」。でも発作的というが、観ていると明らかに規則性があった。

 極度の緊張や不安、不快感、悲しみなど、一般に人が「泣く」ような場面で、アーサーは「笑って」いた。

 「泣き」と「笑い」が入れ替わったような感じだ。で、作中、アーサーは一度も泣かない。涙が頬を伝うシーンはあったけれど、声を上げ、露骨に感情を表現して「泣く」ということはなかった。

 「泣く」という感情表現は気持ちのリセットに使われるそうだ。

 そういう論文もあったはずだし、実感としてもそうだ。泣くと気持ちがすっきりする。悲しいことにも区切りをつけられるし、悔しいことも次に頑張るための推進力に変えられる。

 でもアーサーは泣けない。

 泣くべき場面で笑ってしまうからだ。

 そうするとリセットされなかった気持ちはどこにいくのだろう。たぶんどこにもいかない。澱のように心の底に沈殿する。怒り、恐怖、悲しみ、そういった強いエネルギーを持った気持ちが感情として発露されることのないまま積もって、積もって、積もって……

 その果てにどうなるか?

 その答えがジョーカーなのだと思う。

 この「発散しきれない感情」のフラストレーションは映画全体に満ちていた。実際、最後まで観てもカタルシスがないのだ。「おれをこんな目に合わした社会に復讐じゃあ! やったれぇい!」みたいな、清々しい悪党っぷりとか一切、なし。

 たとえば話題の電車のシーン。「ジョーカー覚醒の瞬間」とかいわれているけれど、その表現はピンとこない。なにしろ、殺した三人は善人というよりはゲス野郎だった。ジョーカーがゲス野郎を殺したって、そらあんた、社会への復讐とはならん。悪党同士の共食いだ。

 最後のコメディアン銃殺もそうだ。撃っても胸がすっとするようなことはない。彼はどちらかといえば善人だったけれど、殺された理由はアーサーの個人的な執着によるものだ。社会は関係ない。

 アーサーをジョーカーにしたのは社会だ。

 でも作中でジョーカーが社会を相手取るシーンはない。周囲がそう祭り上げただけで、すべて個人的な殺しだった。

 だからエンディング時点でも映画のタイトルとして「ジョーカー」より「アーサー」のほうが相応しい感がある。確かに作中でアーサーはジョーカーに成るけれど、ジョーカーとして活動を開始するのはエンディング後の物語だ。

 言い換えれば、この映画のエンディングでようやくジョーカーが誕生するのだ。つまりこの映画を一言でまとめるなら、『ジョーカーの作り方』となる。端的にまとめると、

  ①何も持たない人間を用意する。

  ②その人間に常軌を逸するほどの負の感情を詰め込む。

 の二つを満たすとジョーカーができる。①はわりかし誰でも条件を満たすが、②は特殊な才能が要る。「誰でもジョーカーになれる」わけではない。

 でも①の母数が増えれば、いつかはその中から②を満たす人間も現れる。

 遡って2016年、米大統領選挙でトランプが当選した。衝撃だった。何が衝撃かって、そのことをBBCをはじめとした米メディアすべてが予想できなかったことだ。当時のメディアはどこも、対抗のヒラリーが勝つと予想していた。つまり、テレビ局に勤められるような「何かを持った人間」は、イスラム教徒を国から追い出すと息巻く男を支持する、他者に構える余裕なんかない「何も持たない人間」の数を把握できなかったのだ。そして、いつの間にかその数が膨大なものになっていたと、慌てたのだ。

 誰でもジョーカーになれるわけではない。

 でも、逆に言うと、「誰かはジョーカーになれる」。

 ①の母数はいま、いくつだ?

 日本ではつい先日、消費税の税率が上がった。そして今後も上がる予定がある。でも法人税はむしろ下がっている。中流階級の消失が近年では叫ばれていて、国民は上流と下流に二分されていく。

 ①の母数は増えていく。そんなことを、ジョーカーを観て思った。

 

【ホアキン・フェニックスの演技について】

 『ダークナイト』以降のジョーカーは可哀想だと思っていた。ヒース・レジャーが化物すぎて、これに匹敵するジョーカーなんて絶対現れないと。

 ところがどっこい、ホアキンですよ。

 化物ですわ。「笑い」はもちろんそうだけど、個人的には身体の動かし方が白眉。階段の下り方から走り方、物の取扱、とにかくすべてが不器用。これはすごいことだ。だって言ってしまえばこれ、自転車に乗れるようになってから、乗れなかったときと同じように転んで見せているってことだ。無理だろ普通。とんでもないぜ本当。

 ジョーカーというキャラが「身体を動かすのが下手」なのが設定的に正しいのかは知らないけれど、今作のシナリオを考えればベストな解釈だと思う。そのあたりは最近話題の新書『ケーキの切れない非行少年たち』(宮口幸治)を読むべし。というかこれ読んでからジョーカーを観ると見応えが倍になる。理由は読めばわかる。

 上映中にもう一回ぐらい観に行きたいなあ。

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