小説が大好き
このあいだのブログで映画の話を書いたので、次は小説の話をしようと思う。
わたしは小説が大好きだ。
そもそも、幼い頃から物語が好きだった。両親が共働きで、父は毎日深夜まで仕事、母もフルタイムで(なんなら土日も働いていたのでフルタイム以上に)働いていた。
母がわたしを保育園に迎えに来るのはいつも最後。だからわたしはいつも、友だちと別れてから1時間ほど、保育園でひとりで過ごす時間があった。
それを寂しいと感じた記憶はない。ひとりになると、先生はわたしと丁寧に接してくれる。「大勢の子どもが怪我しないよう管理する」という意識から、「子どもの相手をする」という意識に変化するのを、幼いながらに感じていた。また、おもちゃをひとりじめすることもできたし、誰もいない部屋は走り回るのにもぴったりで、みんながいるときとは違った楽しさがあった。
なにより、本が読めた。
保育園には多くの絵本が蓄えてある。読み聞かせのためだ。『ぐりとぐら』『三匹のやぎのがらがらどん』『てぶくろ』『11匹のねこ』、他にもいくつもあったと思う。それをゆっくり読めるのは、ひとりになってからだった。母が迎えに来るまで、本がわたしの友だちだった。だから小学生に上がる頃にはもう、読み書きを自然に会得していた。
小学生になると図書室という空間が、わたしの人生に登場する。ドッジボールに夢中になったり、カナヘビを捕まえるのに執心したりもしたけれど、ときどきわたしは友だちに「ごめん、今日は本を読みたいんだ」と断りを入れて、ひとり図書室に向かう日があった。ホームズを読み、ハリー・ポッターを読み、フンケに惹かれた。『バーティミアス』なんてバイブルにしていた。ハードカバーで600頁ぐらいだろうか。重くて、綺麗で、あれを入れるともう、ランドセルには他に何も入らない。だから教科書は持ち歩かなかった。
中学生。『空の境界』に出会った。雷に打たれたような衝撃だった。訳もわからずわたしは小説を書き始めた。
それまでも、それからも、多くの小説に触れてきた。ドラマチックな一冊はない。人生の節目に、打ちのめされたときに、この一冊に救われたというような本は、わたしにはない。巡り合わせの問題だろう。これから出会うかもしれない。
ただ間違いなくいえることは、小説に救われたことがなくても、わたしの人生の多くは小説によって構成されているということだ。
米みたいなものである。「好きな食べ物は?」と聞かれても、あえて答えることはない。「ステーキ」とか「マグロ」とか、そういうものを挙げるだろう。けれども食事には欠かせない。奪われるなら激怒する。そういう存在だ。
いまこの文章は、机に乗せたノートパソコンで書いている。傍らには山のような積ん読がある。『やがて海へと届く』『さあ、気ちがいになりなさい』『ロボットの時代』『針がとぶ』『ジゴロとジゴレット』『町でいちばんの美女』……なんて幸せな机だろう。
なぜ小説が好きか?
知るものか。そういう風に骨に刻まれる人生を送ってきたからだ。これからもわたしは読み続ける。書き続ける。なんて素晴らしい。小説が大好きだ。