羅小黒戦記 ぼくが選ぶ未来(2020)
五ヶ月ぶりにブログを書くぜ!
話題の羅小黒戦記(ロシャオヘイセンキ)を観てきました。昨年中国で公開された話題作。先週、日本語吹き替え版の公開が始まったのを機に、よっしゃ観るぜ、と劇場に足を運んだわけです。
いやあ、いい映画だった。ラストは涙腺にきましたね。
ネタバレ全開で感想書きます。観てない方は読まないほうがいいぜ!
あ、感想は項目ごとに書きます。そのほうがやりやすいので。絵のタッチ、アニメーション、世界設定、キャラクタ、ストーリーと五項目あります。
テーマに環境破壊が含まれるアニメってことで、ストーリーの項目でちょいと『もののけ姫』にも触れます。そのネタバレもあるので(ほとんどの方は観ていると思いますが)注意。
【絵のタッチ】
3DCGを2Dアニメに落としこんだような絵柄だな、というのが第一印象。立体表現が抜群に上手いってことなのか? 目が大きくて、デフォルメが強く、肌の陰影がない、という極めて平面的なタッチでキャラクタが描かれているのに、独特の奥行きがある。
背景は印象派の絵画っぽい……というよりは、墨絵の滲んだ部分っぽい、といったほうが適切かな? ぼやけた感じのタッチが多くみられた。これが、上述した「キャラクタたちの独特の奥行き」と重なって、いい意味で違和感があり、アニメの新時代や! と興奮した。
色はとにかく美しい。
鮮やかでありながら、柔らかい淡さがあるのだ。
ツイッターなどに挙がる絵を見ていても、中国出身の方は豊かな色彩表現をされる印象がある。あの灰色の北京からなぜ、と思うが中国も広いしな。上海とか全然違うし。あっちはあっちでけばけばしい印象だから、やはりなぜ、とは思うが。
現実にないからイメージで創り出すのだろうか?
羅小黒戦記で描かれるような街や自然は中国のどこにあるのだろう。誰かに紹介してほしい。あるのなら、コロナ禍のいまは難しいが、いつか行ってみたい。
【アニメーション】
動く動く。完全に『外国のアニメーション』だ。絵の雰囲気や演出が日本のアニメーション寄りなので、新鮮だった。
日本のアニメーションはよく紙芝居に譬えられる。絵があり、手元でちょこちょこ動かしはするが、基本的には止まっていて、ストーリーは『語り』によって進む。よって台詞が多く、長い。それは、手塚治虫が低予算でアニメをつくるために『止め絵を多用する』という発明をしたからだ。それが脈々と、良くも悪くも受け継がれ、現在の日本アニメーションを形作った。
海外は違う。「せっかく絵と違って動けるんだ、動かそう」という強い意志を感じる。
だから不自然なほどずっと動く。本当に止まらない。正直、見ていて疲れる作品もある。『モンスターズ・インク』とか好きなんだけど、あれ目が息切れしない?
羅小黒戦記でもシャオヘイがずっと動いていた。
さて、ではこの絶え間ない動きはよかったか、悪かったか。
よかったんですね。抜群によかった。ずっと見ていられた。いつまでも見ていたかった。
なにしろシャオヘイがかわいい! 本来の姿が黒猫で、変身したら六歳の少年。ぷにぷにした腕はセブンイレブンのちぎりパンのよう。かわいくて仕方ない。YouTubeで無双している『猫』と『子ども』を合体させてんだぜ? 再生数を刈り取るKAWAIIの化身だよ。
こんなにかわいく動くアニメキャラは他にスティッチしか知らない。『リロ&スティッチ』と『リロ&スティッチ2』のスティッチもまあかわいかった。腕ぷにぷになんだ。でも設定上、あいつは宇宙人なので、気持ち悪さを表現するために動き方がほぼゴキブリだった。その点、シャオヘイは猫と子どもである。愛らしさでいえばスティッチを超える。
シャオヘイの動きを見られたというだけでも、映画館に足を運んだ価値はあった。
あと構図と見せ方がえぐいほど格好いい。
バトルシーンの絵の強さはピカイチですね。ベストバウトは地下鉄の戦闘。車両の中と外、地下坑道のカットが絶え間なく切り替わるのに、それぞれがどこで何をしているのか明確で、見ていて迷子になることがない。あんなにヒトやモノが動きまくるのにな。すげえ。
【世界設定】
人間による都市開発が進み、自然が消失。森に棲んでいた妖精たちは故郷を奪われ、あるものは都市に進出して人間と同化し、あるものは人間を憎んで反逆を企てている、という世界設定。
特筆すべきなのは、この世界において「人類=強者」、「妖精=自然=弱者」であること。最強のキャラクタとして登場するムゲンも人類。
文明化が進んだこの時代ならではの価値観だと思う。こうした現代的な目線が、キャラクタやストーリーにも反映されている。
【キャラクタ】
主要人物三名の作品内での立ち位置を箇条書きにして考えると、
・シャオヘイ
主人公。人間に故郷を滅ぼされた幼い妖精。新たな居場所を探している。
人間を憎んでいるが、だから復讐しよう、とまではなっていない。
・フーシー
最初にシャオヘイを保護(後に他意があったと判明するが)した妖精。
居場所を奪った人間を憎み、復讐を計画、実行する。
・ムゲン
妖精以上の力を持つ人類。
妖精の保護活動をすると同時に、暴徒と化した妖精を鎮圧する役目を担う。
というふうになる。
今作の黒幕、悪役であるフーシーは「ムゲンに出会わなかった場合のシャオヘイ」であり、このあたりのキャラクタ設計は王道のそれ。美しい構成である。
では、このキャラクタによってストーリーはどう展開したか。
【ストーリー】
まず、フーシーはテロリストである。
人類によって故郷の森を壊され、都市に住むしかなくなったが、その現実に馴染むことができず、人類もろとも都市を破壊して故郷を取り戻そうとしている。
圧倒的な強者=人類の暴力によって奪われたものを、同じく暴力によって取り返そうとしているのだ。
だがフーシー=妖精=自然は弱者であり、普通に闘っても勝ち目はない。そこでゲリラ的な戦法を取ることになる。都市部で突発的に暴力を行使し、自分たちの土地を返せという、政治的な要求をつきつけるわけだ。
そのために使う武器として目をつけられたのがシャオヘイ。
強大な力を秘めている彼に接近し、同胞としてもてなしたことで、フーシーはシャオヘイの信頼を勝ち取る。このあたりは現代のテロ組織の成長とまったく同じ流れ。
が、直後にムゲンが登場し、フーシーの拠点を破壊。
同時にシャオヘイの身柄はムゲンにわたる。テロリストの洗脳を受ける前に、シャオヘイはムゲン=人類=強者に保護されるのだ。
二人は共に都市へと移動するが、その道中、いままでずっと森に棲んでいたシャオヘイは、初めて都市を目にする。
そこでは人間と、人間の世界に馴染むことができた妖精が、共に生活していた。また、「館」という、妖精を保護するための施設が、都市の中に存在していることも知る。
シャオヘイの価値観は変化する。
「人間も悪いやつばかりではない」と学ぶのだ。
その直後、テロの武器であるシャオヘイを回収するために、フーシーが最接近する。フーシーは力を強奪する能力を持っており、シャオヘイの同意がなくとも彼の力を使うことができるが、最初はそれを使わず、あくまでも対話によって、彼を組織に引き入れようとした。
だが価値観の変化したシャオヘイは、フーシーの言葉に頷くことができない。しびれを切らしたフーシーは、そうすることによってシャオヘイが死ぬと知りながら、力を強奪する。
その後、駆けつけたムゲンと、復活したシャオヘイの尽力により、フーシーのテロは失敗に終わる。
だがその最後、フーシーは自らの命を巨大な樹木に変え、都市の中央に残した。自爆テロによって爆心地を残すように。
その後、「館」に到着したシャオヘイは、「ここで生きていけ。安全でいいところだ」とムゲンに言われるも、そこまでの旅で彼に親愛の情を抱いており、「館」には残らず彼に弟子としてついていく、という選択をして物語は終わる。
この一連の流れを「人類=強者」、「妖精=自然=弱者」として構造的に整理すると、
①強者が暴力により弱者の土地を強奪。
②弱者が土地を取り返そうとテロを計画。
③テロ計画に気づいた強者が、暴力により弱者を鎮圧。
④弱者は自殺。
⑤強者は、テロに加担しなかった弱者を、弱者から奪った土地の中につくった保護施設に収容しようとする。
⑥テロに加担しなかった弱者は、そうした強者の慈愛に胸を打たれ、保護施設に収容されるのではなく、強者に付き従うことを選ぶ。
という、実に身も蓋もない感じになる。
が、この身も蓋もなさが現代だ。フィクションとは現代の写し鏡であり、この作品の中で描かれているこの身も蓋もないストーリーこそ、実際にこの世界で起きていることである。
みんなで仲よくしよう、暴力はやめよう、こういう考えは正しいと思う。
でも、「そのために過去のことは水に流して、強者は弱者を庇護し、弱者は強者の庇護下で生きよう」と言われたら、「ん?」と思う。
強者の慰めにすがらなきゃ生きていけないということは、常に強者の顔色を窺わなければいけないということだ。
暴力を用いてそんな窮屈な環境に押し込めた後、「もう暴力はダメ! 優しくしてるでしょ!」と強者に言われたら、弱者だってキレたくもなる。
では、どうすればいいのか?
鑑賞後、ぼくはずっと考えている。答えは出ない。
頭を空っぽにして、「シャオヘイ超かわいい!」と観ても楽しいエンターテイメントでありながら、考え出すとぐるぐるといつまでも考えてしまう重い作品でもある。このバランス感がすばらしくて、もう一度観たくなる。いい作品だ。
さて、環境問題を扱ったアニメとなれば、どうしても『もののけ姫』との対比は避けられない。
あの作品では自然はもっと強かった。人類よりはるかに強大で、得体が知れず、恐ろしい。自然は畏怖の対象として描かれる。
が、人類はそれを文明によって刈り取ろうとする。「おれたち人間はここまで来たんだ。もう自然になんかビビらねえぞ」と。公開当時一九九七年。人類はまだ自然というチャンピオンに挑む側だった。そして、その挑戦には罪深さが伴った。「挑めるけど、挑んでもいいのか?」と。
『もののけ姫』において人類の代弁者は「鉄をつくるたたら場の長=エボシ」であり、自然の代弁者は「山犬に育てられた娘=サン」だ。
二者は争い合っており、攻防は一進一退だ。サンはたたら場に踏み込んでも返り討ちにあうし、エボシは山犬に腕を食われる。
この攻防は最終的に、「首を取られ、敵味方の区別なくすべてを滅ぼす圧倒的な力を持つ第三者=シシ神」の登場により、両者大ダメージを受けて引き分け、という決着を迎える。
つまり、自然と人類は対等で、弱者も強者もいなかった。
作品の最後を締めくくる、主人公のアシタカの言葉が印象的だ。生き残ったサンが、「アシタカは好きだ。でも人間を許すことはできない」と言うと、彼はこう答える。
「それでもいい。サンは森で、私はタタラ場で暮らそう。ともに生きよう。会いにいくよ。ヤックルに乗って」
大好きな台詞だ。互いを尊重して生きるというのがどういうことか、この言葉に詰まっている。
一方でこの台詞は、愛馬(愛鹿?)ヤックルに乗っていくぐらいの距離を隔てなければ、異なる価値観の共存はできないという、無慈悲な現実を教えるものでもある。
『羅小黒戦記』で描かれた現代では、もうこの十分な距離が確保できなくなっていた。
だから価値観が衝突した場合、「弱者が強者の要望に合わせて価値観を変える」という方法で対処するしかない。
ぼくらはどうするべきなんだろう?
そんなことを、ぐるぐると考え続けている。