ファースト・マン(2019)

 『ファースト・マン』の話をする。さっき観てきた。胸に穴が空く映画。この2時間半に空けられたその穴を思いながら、エモーションだけで感想を書く。
 紹介でも批評でもレビューでもなく感想だ。
 ネタバレしかしない。いいか、おれはいまから語る。『ファースト・マン』について語る。観てない人は去れ。観た人はどうか聞いてほしい。

 まず、最高の映画だった。

 前人未到だった月に、初めて足跡をつけた男、ニール・アームストロングにフォーカスを当てた映画だ。ジェミニ計画、アポロ計画の概要を知れる映画でもある。

 観る前、おれはこの映画を成功譚か、救いの話だと思っていた。
 だが、違った。
 華々しい初の月面着陸。それを成し遂げた男。けれどもそこにあったのは、どこまでも救われない悲しみだった。

 冒頭、ニールの娘が亡くなる。彼女は難病を患っていた。放射線治療を受け、その副作用で吐き戻すシーンがあった。ニールは彼女の背をさすっていた。葬儀の後、ニールはひとり、嗚咽した。妻の前でも、息子の前でもない。ひとり、嗚咽していた。

 その後、ニールはジェミニ計画に民間人枠で参加するため、テストを受ける。
 テストの中の面接で、彼は語った。
「地上から見える大気層は広大だ。けれども外から見れば薄っぺらな膜でしかない。場所を変えれば見方が変わる。だから宇宙に行く」

 ニールはテストに受かった。
 劇中、彼はずっと言葉少なだ。自分の気持ちを全くと言っていいほど語らない。
 瞳はどこか遠くを見ている。
 ニールの妻は、ニールの同僚である宇宙飛行士にあるとき尋ねる。
「彼は娘のことを話した?」
「いいや」
 と同僚は答える。
 ニールの妻は遠くを見つめて言った。
「わたしにも話さない。一度も」

 娘を失うとはどんな気持ちだろう?
 悲しい。そうだろう。言葉で言うのは簡単だ。ではどう悲しい?
 胸に空いた穴。悲しみがあけた穴だ。
 その穴はどれだけ大きい? どれだけ深い? わからない。
 悲しみが深いのは、それだけ大切だったからだ。
 では悲しみの深さがわからないのは、どれだけ大切にしていたかわからないのと同じではないか?
 自分の娘が、どれだけ大切だったかわからないままでは、娘を弔えないのではないか?

 見方を変えるために宇宙へ行くとニールは言った。
 何を見ようとしたのだろう。
 ぼくは、胸に空いた穴の大きさだと思った。
 失ったものの大きさを知るために、宇宙へ行くのだと。

 けれども宇宙は過酷だ。行くためには多くの犠牲が生まれる。
 ジェミニ計画の中で、アポロ計画の中で、ニールは同僚の宇宙飛行士を何人も亡くす。
 そのたびに胸の穴は広がっていく。
 世論は月を目指すことに反発を始めた。そんなことのために税金を使うな、いまここに飢えている人がいるのに、と。
 だが宇宙進出をロシアと競っているアメリカは止まらない。やがてアポロ10号がテストを成功に終わらせ、技術的には月へ行くことが可能と証明される。
 あとは行くだけ。
 アポロ11号に船長として乗るのは、ニール・アームストロングだ。

 家を出る晩、ニールは荷造りをしていた。
 必要なものはすべてNASAが用意する。特別必要ではない行為だ。
 それを見てニールの妻が言う。
「あなたがしなくてはならないことは荷造りじゃない。子供たちに、もう帰ってこれないかもしれないと伝えることだ」
 ニールは応じない。
 妻は激怒してニールの荷物を放り投げる。そこでようやくニールは妻を見る。
 瞳は虚ろだ。
 不承不承といった態度で、彼は子どもたちに月へ行くことを説明する。そして言う。

「なにか質問は?」

 出発の夜。もう戻れないかもしれない夜に、子どもに向けて言った言葉だ。
〝なにか質問は?〟
 記者会見のようだった。極めて事務的だ。やりたくもないことをしている、そんな目をしていた。前後の文脈がなかったら、おれはニールのことを狂っていると思うだろう。宇宙に取り憑かれた、頭のおかしい父親だと。
 でも違うのだ。
 それは確かに、事務的な行為でしかなかった。語る言葉なんかないからだ。語れと言われたから席に着いただけ。
 だって何かを得るために宇宙へ行くのではない。
 何かを失う可能性だってない。
 なぜならもう失っていて。
 その大きさを知るために、宇宙へ行くのだから。

 そうしてニールは月へ辿り着く。
「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」
 あまりにも有名なこの文言の後に、月面のショットに切り替わる。

 無音と、灰色の砂漠。
 何もない。
 何もなかった。

 もうひとりの乗組員であるバズは、ニールの背後で、月の重力の小ささを確かめるために、月面を跳ねている。
 ニールは何もない地平を見ている。
 やがてニールはクレーターのひとつに近づく。
 彼の手には娘の名が入ったブレスレット。娘を亡くして泣いた夜、ニールが握りしめていたものだ。娘の形見として、彼が握りしめてきたもの。
 それを、彼はクレーターへと放った。

 何もなかったのだ。
 月には、何も。
 その虚無の中に娘を置いていくしかなかったのだ。
 同じだけの虚無が胸の内にあるから。
 結局、彼は失ったものの大きさが、わからなかったのだと思う。
 見渡す限り灰色の砂漠。地平線は遠い。クレーターの底は日の光が届いていなかった。あまりにも広く、あまりにも深い虚無が、ただ横たわっているだけ。

 月面調査が終わり、ニールたちは帰還のために飛び立つ。
 そのシーンに被せて無線(あるいはラジオ)の声が入る。
「彼らは月に美を見た。初めて行ったものにしかわからない美がある。後世、月に行ったものには、決してわからない美が……」
 いいや違う、とおれは思った。
 周囲にはわからない。おれにだってわからない。でも確実に言えることがある。
 ニールが見たのは美ではない。

 地球に帰還しても、宇宙から未知の病原菌を持ち込んだりしていないかチェックするため、ニールたちは一ヶ月間隔離される。
 その施設に、ニールの妻が会いに来る。
 窓越しにニールは妻を見つめた。目をそらし、また見つめる。
 妻もそうした。彼を見つめ、目をそらし、また見つめる。
 言葉はない。嬉しいのか悲しいのか、怒っているのか、何もわからない。当人たちもきっとわかっていない。彼らの胸の内にあるのはそれだけ深い穴だった。
 ニールは窓越しに、妻にキスを送る。
 妻が窓に触れる。その手に合わせるように、ニールも窓に触れる。

 映画はそこで終わる。

 失ったものを失ったのだと思い知るだけの二時間半だ。救いはない。あるとしたら映画の最後のシーン以降のことである。
 だから最高だった。
 安易に救われたくなんかない悲しみが世の中にはある。どうしようもない出来事がごく当然のように起こるのが人生だ。
 誰だって何かしらの虚無を抱えている。
 そして、それを抱えたまま生きていくしかないのだ。
 もがきながら、苦しみながら。

 『ファースト・マン』は、その事実をただ淡々と伝えてくれた。
 泣ける映画にするでもなく、救われる映画にするでもなく、ただ淡々と伝えてくれたのだ。
 ひとりの男がそうやって生きたのだと。
 そこに監督からの温かなメッセージを感じる。
 苦しんだっていいんだ、悲しんだっていいんだ、それがどうにもできなくて訳がわからなくなりそうでもいいんだ、だってそうやって生きた偉大な男がいるんだから、と。

 また、特筆すべき点のひとつとして、劇中の台詞が極めて少ない点がある。
 長々とエモーションに任せて書いたこの文章だが、多分に想像によるものだ。なにしろ表情や仕草で語る映画だった。
 観る人によって全然違った印象、感想を持つだろうし、語り合う良さがあると思う。
 だからおれは語った。満足している。
 他の人の感想も聞いてみたい。どう感じただろう。
 いい映画だった。

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